ボディコンとバブル景気~1980年代のボディコン・ブームを振り返る

バブル時代をファッションの観点から語る時に必ず登場するのが「ボディコン・ファッション」である。

どうして、ボディコンはバブル時代を象徴するファッションとなったのだろうか。

1980年代のボディコンの歴史を振り返る

「宝島」No.268(1993/3/24)に、「BODY CONSCIOUS 大図鑑」という特集記事が掲載されている。

80年代のボディコン・ブームを、1993年の時点から振り返って書かれた記事だ。

ファッションの歴史から振り返ると、パリのファッション界にボディコンシャスをテーマにしたニューモードが登場したのは1986年のこと。

シビラやアライアといったブランドが提唱したのが、始まりだったらしい。

日本でも、ジュンコ・シマダや花井幸子が、’87春夏モノにボディコンを採用し始めた。

そして、1987年の夏、渋谷の街がボディコン一色になるほど、ボディコンは一気に大衆化する。

当時は、ボディコン愛好者が好む髪型と合わせて「ワンレン・ボディコン」という言葉が、世のオジサンたちにも認知されたほど。

ボディコン・ブームが頂点を迎えるのは、翌1988年の夏で、バブル景気を背景に、ベイエリアには地上げ屋とボディコンのカップルが、盛んに出没していたという。

’88年の秋、ボディコンの流行は一気に沈静化し、ロングスカートやワイドパンツが流行を見せ始める。

一方でブームの沈静化と逆行するように、一部の愛好者たちは、まずます過激なボディコン・ファッションへと走り始めた。

そもそも、ボディコンは、身体のラインを意識したシルエットが特徴である。

当然、身体のラインが際立って強調されるから、ボディに自信のある女性ほど、誇りを持ってボディコンを着こなしていた。

潮が引くようにブームが落ち着いていく中で、肉体に自信のある女性たちは、より露出の多い<超ミニ・肩出し・背中出し>という過激なボディコン・ルックへと傾倒していったのである。

過激化した女性たちは、1990年にオープンしたジュリアナ東京へと活躍の場を求め、ボディコン族の一極化集中が始まる。

現在、ジュリアナ東京がボディコンの巣窟のように語られているのは、ブーム終焉後に生き残ったボディコン族の残党の姿をとらえたものと言えるのかもしれない。

ボディコン・ブランドとギャルとの相関関係

「宝島」では、ボディコン・ブランドとギャルとの相関関係が、分かりやすく図解されている。

基本となるOLは「ピンキー&ダイアン」「ジュンコ・シマダ」「花井幸子」。

“デブには死んでも着られない”と言われた<ジュンコ・シマダ>のボディコンスーツを着ることは、それだけでスタイルの良さを証明することになったらしい。

女子大生に人気があったのは「アルバローザ」「ロッキー・アメリカン・マーケット」「その他サーファーブランド」。

専門学校生やフリーターに多かったのは「ジャン=ポール・ゴルチェ」「ジャスパー・コンラン」「ベッツィ・ジョンソン」など。

そして、水商売ギャルに支持されていたのが「ロッキー・アメリカン」や「モンタナ」「シビア」「アライア」などといった、元祖ボディコン系のブランドである。

ボディコンは、女性が自分の肉体を誇示することで、社会における女性の存在感を強く主張するという意義を持っていた。

これは、1980年代後半に、女性の社会進出が進んだことと、決して無関係ではない。

改正男女雇用機会均等法が施行されたのは1986年のことで、日本におけるボディコン・ブームは、まさに、この直後から始まっている。

だから、ボディコンは女性の社会進出の象徴なのであって、決してお立ち台の上からパンツを見せるために生まれたのではない。

普通のOLや女子大生が、普通にボディコンを着こなしていた時代。

それは、日本が元気な時代でもあったんだろうなあ。

それにしても、「宝島」にこんな特集が掲載されるなんて。

ボディコン・ギャルを理解することは、オジサンにとっても必修科目ということだったのだろうか。

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kels
バブル世代のビジネスマン。読書と音楽鑑賞が趣味のインドア派です。お酒が飲めないコーヒー党。洋服はアーペーセーとマーガレット・ハウエルを愛用しています。