本・雑誌

「冷血」「ティファニーで朝食を」トルーマン・カポーティの伝説120選

トルーマン誕生

1924年9月30日火曜日の午後3時頃に誕生。「トルーマン」は父の親友の名前だった。

母の浮気

カポーティの母リリー・メイは8年間に及ぶ最初の結婚生活の中で、少なくとも29人の男性と性交渉を持った。そして、そんな生活はトルーマンが生まれた後も変わらなかった。彼女は幼いトルーマンの前でさえ、夫以外の男との密会を楽しんだ。

アラバマ物語

幼馴染のハーパー・リーは、後年「アラバマ物語」の中に、トルーマンをモデルとした奇妙な男の子を描いている。彼の髪の毛は雪のように真っ白で、アヒルの綿毛のように頭にぴったるくっついていた。そして、彼の頭の中には突拍子もない計画や奇妙な憧れやへんてこな空想がびっしりと詰まっていた。

母の香水瓶

トルーマンは両親の元を離れて、母親のいとこの家に預けられて育った。幼いトルーマンは母親に恋い焦がれるあまり、彼女が忘れていった香水瓶を見つけて、その中身を一滴残らず飲み干してしまった。

トルーマン・カポーティ

トルーマンの母リリー・メイは、ニューヨークで再婚をした。トルーマンはトルーマン・カポーティになった。母はファースト・ネームまで変えて、ニーナ・カポーティになった。

女の子のような男の子

トルーマンは幼少期から女の子のような男の子だった。母はそんなトルーマンの「女々しさ」を心から呪った.複数の精神科医を受診したが、彼の「女々しさ」は改善されなかった。

夢遊病

9歳のトルーマンは男子校に入学した。情緒不安定な子どもで、廊下に仰向けに引っくり返って足をバタバタさせることがあった。夢遊病の気があり、パジャマ姿のままアパートのロビーで目覚めることが一度ならずあった。

男性教師

男子校のある男性教師は、トルーマンの性を目覚めさせた。彼はトルーマンを家へ送る途中の自動車の中で、トルーマンの体に触れた。そして、トルーマンは彼の自慰を手伝わなくてはならなかった。

作家への夢

9歳か10歳のときだった。石ころを蹴りながら道を歩いているとき、トルーマンは作家になろうと決心をした。何かがトルーマンに取り憑いたのだ。

ミリタリースクール

12歳の誕生日の少し前、トルーマンは軍隊式教育をする学校に入学した。母はトルーマンをタフで男らしい少年に育てたいと願っていた。ミリタリースクールでトルーマンは、タフで男らしい少年たちの性の餌食となった。

クリスマスパーティー

13歳で元の学校に戻されたトルーマンは、多くの生徒たちの憧れだった。クリスマスパーティの日、タキシードに身を包んだトルーマンが会場に現れたとき、会場の男の子たちはみんなトルーマンの周りに群がった。女の子たちを部屋の反対側に取り残したままで。

奇妙な少年

15歳のとき、トルーマンはグリニッチの高校に入学した。当時の基準で考えると、彼は奇妙な少年だった。スラックスに革靴が当たり前の服装という時代に、彼はゆるいジーンズとスニーカーで登校をした。

体育は取らない

高校生のトルーマンは興味のない科目に関してはまるで勉強しなかった。殊に体育の授業については頑なに拒否をした。校長室で説得されたカポーティは「体育は取りませんからね」と高らかに宣言をした。

国語教師

グリニッジの高校で、国語教師がトルーマンの才能に気が付いていた。彼女はトルーマンのために特別の時間割を作った。校長にもトルーマンの母にも、彼女はトルーマンが特別であることを説いて回った。

同性愛者

母ニーナはアル中となり、相変わらず「女々しい」トルーマンを罵った。「あんたはホモだ」と、酔った勢いで母は詰った。母の予言どおり、トルーマンは紛れもなく同性愛者だった。

ホモセクシュアル

トルーマンの容姿や仕草はいずれも女性らしかった。彼がホモセクシュアルであることは一目瞭然だった。トルーマンは少なくとも10代の半ばまでには、自分の性向を客観的に理解していた。

エドガー・アラン・ポー

16歳の誕生日に、トルーマンは恋人の「少年」からエドガー・アラン・ポーの詩集を贈られた。献詩には「壁のツタの葉のように、愛もいずれは散る」と記されていた。トルーマンは泣いた。

プロポーズ

トルーマンは「親友」である少女に結婚を申し込んでいる。「君は君の人生を生きればいい。僕は僕の人生を生きるから」と言って。無論、そんな人生に彼女が耐えられるはずはなかった。

ニューヨーカー

高校生の時、トルーマンは雑誌「ニューヨーカー」でコピーボーイのアルバイトを始めた。「ほとんど子どもに近い、ちっぽけな少年」だと編集者は思った。身長は5フィート3インチで、髭痕さえもなく、おまけに子どものようにきんきんとした声を出した。

男か女か

ニューヨーカーの社員は、新しいアルバイトが「男か女か」で賭けをした。彼はたちまち社内の噂となった。女子社員の一人は、彼の血管には牛乳が詰まっているのではないかと想像した。

兵役検査

ニューヨーカーでアルバイトをしているとき、トルーマンは兵役の検査を受けた。けれども、彼は兵隊に行くことはなかった。強度のノイローゼだと思われたのだ。

フィッツジェラルド

トルーマンは自分の書いた作品をニューヨーカーに持ち込んだが、採用されることはなかった。ニューヨーカーはヘミングウェイもフォークナーも取り上げたことがない雑誌だった。フィッツジェラルドのたったひとつの作品が載ったことがあるくらいで。

解雇

トルーマンはちょっとした誤解から大御所の詩人を怒らせてしまった。そして、ニューヨーカーは彼をクビにせざるを得なかった。泣きながら帰宅したトルーマンは作家に専念しようと決めていた。

真夏の交差点

ニューヨーカーを解雇されるとき、トルーマンはひとつの小説を書いている途中だった。小説のタイトルは「夏の交差点」と言った。そして、この小説は完成されることがなかった。

遠い声 遠い部屋

1944年の秋、トルーマンは故郷のアラバマで執筆活動を始めた。かつて少年時代を過ごした田舎町を散策しているとき、彼の頭の中に新しい小説が降りてきた。こうして「遠い声、遠い部屋」の表題が生まれた。

ファッション雑誌

1945年の夏、トルーマンはファッション雑誌に「ミリアム」を発表した。「ミリアム」は大きな話題となり、秋から冬にかけて、ふたつのファッション雑誌で「夜の樹」と「銀の瓶」が発表された。トルーマンは21歳になろうとしていた。

親愛なる女性

トルーマンはゲイだけではなく、ゲイではない男性とも仲良くなることができた。けれども、彼が特別に緊密な親愛感を抱いた相手は、多くの場合女性だった。女性たちはトルーマンと一緒にいることを好み、トルーマンは女性たちと一緒にいることを好んだ。

ドリス・リリー

ドリス・リリーは楽しいことを追い求め、パーティを好み、金持ちの男性と結婚することを目標としていた。トルーマンはドリスと散歩したり、食事をしたり、電話で何時間も話したりした。やがて彼女は「ティファニーで朝食を」に登場するホリー・ゴライトリーのモデルの一人となった。

ランダムハウス社

1945年、ランダムハウス社はトルーマンと「遠い声 遠い部屋」の契約を結んだ。アドバンスは1200ドル、しかも月々100ドルの支払いというささやかなものだった。トルーマンは18歳にしか見えない、自信に満ちた少年だった。

真夜中の執筆活動

1945年から1946年にかけて、トルーマンは小説を書くことに邁進した。ベッドに寝そべったまま、立てた膝にノートを立てかけ、夜の10時から朝の4時まで書き続けた。アルコール依存症の母親の喧噪だけが、彼の執筆活動の障害だった。

ヤドー

アル中の母親から逃れるため、トルーマンはヤドーという作家芸術村に引き籠った。ヤドーにおいても、彼は注目の的となった。白いシャツの裾をズボンの外にひらひらさせながら、彼は踊るようにしてヤドーの村を歩き回っていた。

ニュートン・アーヴィン

ヤドーでトルーマンは、特に2人の男性と特別な恋愛関係を持った。一人はハワード・ダウティであり、もう一人はニュートン・アーヴィンである。そして、ニュートンはトルーマンが「遠い声 遠い部屋」を出版するときに、その本を捧げるべく恋人となった。

ビロード

トルーマンはビロードの服が大好きだった。ディナーパーティにも黒いビロードのスーツで赤いビロードのベストで出かけようとして、母親からブルックスブラザーズのグレースーツを着て行くように注意された。彼はブルックスブラザーズのスーツを着て出かけたが、赤いビロードのベストはそのままだった。

小説の意味

ニュートンがデートをドタキャンしたとき、トルーマンは恐ろしく落ち込み、そして小説を書く作業に没頭した。トルーマンは語っている。「小説を手放してはいけない、それが必要となるときが必ずあるから」

ライフ

1947年、雑誌「ライフ」が前途有望な作家の特集記事を掲載した。最も大きな写真で、あたかも代表選手のように紹介されたのはトルーマンだった。このときトルーマンは、まだひとつの長編小説も、そして1冊の本も出版していなかった。

ベストセラー

トルーマンの「遠い声 遠い部屋」は出版前からイギリスの11の出版社とフランスの3つの出版社から版権の申し出を受けていた。そして「遠い声 遠い部屋」は出版とほぼ同時にニューヨーク・タイムズのベストセラーリストに踊り出た。トルーマン・カポーティの名前は、たちまち多くの一般市民にも知られるところとなった。

写真

「遠い声 遠い部屋」の裏表紙には、物憂げにソファに横たわり、大きく目を見開き、誘いをかけているように挑発的な表情でカメラを見上げるトルーマンの写真が使われた。裏表紙の写真は、小説以上に大きな論議を巻き起こした。ランダムハウス社は「これがトルーマン・カポーティです」の言葉を添えて、トルーマンの写真を広告に使った。

アルベール・カミュ

ヨーロッパ旅行に出かけたとき、トルーマンはパリでアルベール・カミュと交流した。「彼はゲイではなかった」とトルーマンは回想している。そして「僕たちはどちらからともなくベッドに入ったんだ」とも。

フォスター

イギリス滞在中、トルーマンはフォスターと面談するアポイントを取ることに成功した。知人と昼食を取り、コーヒーを飲み終える頃になって、トルーマンは自分の過ちに気が付いた。トルーマンは、フォスターのいるケンブリッジまで歩いて行ける距離だと信じていたのだ。

マティーニ

トルーマンは旅先でお気に入りのバーやレストランを見つけると、滅多に浮気をしなかった。友人に口説かれて出かけたカフェで、いつものマティーニを頼むと、珍しいマティーニが出てきた(ジンとベルモットのほかにコニャックとレモンが入っていた)。それ以来、友人は二度とトルーマンを口説こうとは思わなかった。

司教の指輪

ヨーロッパからアメリカに向かう豪華客船の中で、トルーマンは酒飲みの司教に付きまとわれた。そこでトルーマンは「質屋に行くと、追放された司教の指輪を買うこともできますよね」と話しかけた。司教は二度とトルーマンに寄り付かなくなった。

テネシー・ウイリアムズ

ある晩、留守中のテネシー・ウイリアムズ宅に窓から侵入したとき、トルーマンは巡回中の警察官に捕まった。テネシーが帰宅してきて、トルーマンが友人であり、作家であることを証明して、事件は解決した。トルーマンを捕まえた婦人警官はトルーマンを気に入り、「明日の夕食に招待されていないのが残念ね」と笑った。

ジャック・ダンフィー

トルーマンは、あるものを欲しいと強く念じれば、必ず手に入ると信じていた。ただし、心からそれを欲しいと思い、24時間精神を集中していなければならない。彼はそうして新しい恋人(ジャック・ダンフィー)さえも手に入れたのだ。

不吉な数字

迷信を信じていたトルーマンは、ホテルの部屋番号の数字の合計が不吉な数字「13」になることをひどく嫌がり、自分の部屋をテネシー・ウイリアムズと交換した。その理由に後から気付いたテネシーは激怒した。テネシーも迷信には神経質な男だったのだ。

作品構想

トルーマンは将来の作品の構想について、事細かに友人たちに話すことを好んだ。友人たちはそんな彼の話を戯言だと言って聞き流していた。しかし、トルーマンは何年にも渡って、彼の構想どおりに作品を発表し続けた。

腕時計

トルーマンは絶対に腕時計をしなかった。パリのホテルでは、ホテルに滞在している編集者の部屋にやってきては、電話を借りて、そして時間を訊ねた。さらに、鏡を見て身だしなみを整えることもあった。

文学界の天使

パリでトルーマンにインタビューした記者は、トルーマンについて次のように記憶している。小柄で、大事な壊れものか何かのような印象を受ける。重そうなまぶたの目を持つ文学会の天使。

ブルージーンズ

1949年のパリの街で、トルーマンは
アーガイルセーターにブルージーンズにグレーのツイードのラグラン・コートを羽織り、ラズベリー色のスカーフを巻いていた。それは、将来のアメリカの知識人たちと同じスタイルだった。

朗読会

1949年の年末にニューヨークでトルーマンは「夜の樹」の朗読会を行った。トルーマンは黒いビロードのスーツを着ていた。朗読が終わると、まるでオペラハウスのように会場は「ブラボー!」や「アンコール!」といった大きな叫び声で埋め尽くされた。

チャーリー・チャップリン

トルーマンが恋人ジャックの安アパートに引っ越すとき、複数の友人がその手伝いに参加した。チャーリー・チャップリンと妻のウーナもその中にいた。バスルームもなく、共同トイレという不便な部屋だった。

フォークナー①

フォークナーはトルーマンの魅力に屈しない数少ない人間の一人だった。トルーマンがヘミングウェイの最新作を非難したとき、フォークナーはヘミングウェイを擁護する発言をした。数か月後にフォークナーがノーベル文学賞を受賞したとき、トルーマンはフォークナーの作品をけなす手紙を友人に送りつけている。

フォークナー②

ロリータ・コンプレックスだったフォークナーは、若い女優とのロマンスを彼女の両親の反対によって破局にさせられてしまった。ランダムハウス社のフォークナー専用の部屋で、フォークナーは飲み潰れた。トルーマンは彼のそばに座って手を取り「ご心配なく、トルーマンですよ」と言いながら、彼を寝かしつけた。

クリスチャン・ディオール

1950年のシチリアで、トルーマンは多くの知識人と交流している。ジャン・コクトー、エムリン・ウィリアムズ、オーソン・ウェルズ、ユージン・オニール。そして、偉大なデザイナーであるクリスチャン・ディオールも。

ハリウッド映画

シチリアで撮影中の映画にトルーマンは冒頭だけ出演をさせてもらった。トルーマンの登場シーンはハリウッドでラフカットを観たプロデューサーによってカットされた。「あれはトルーマン・カポーティじゃないか! こんなやつを使うな!」

新しいモノポリー

ゴシップ好きのトルーマンは「IDC(国際的セックスの環)」という名前の新しいモノポリーを発明した。それぞれの人物が、以前に性的関係にあったという事実によって繋がっていくというゲームだ。こうしてトルーマンは、社交界の古いゴシップさえも大きな話題として活用した。

26歳の誕生日

「とうとう26歳です」1950年に26歳になったとき、トルーマンはこう嘆いている。「ずっと25歳でいたいのに」

草の竪琴①

執筆途中の「草の竪琴」の原稿を読み終えたランダムハウス社の編集者は、トルーマンに最初の反応を伝える電報を送った。「素晴らしい、素晴らしい、素晴らしい」。

草の竪琴②

トルーマンが完成させた「草の竪琴」の結末に、ランダムハウス社の複数の編集者は気に入らなかった。トルーマンは「修正するつもりはない」と言った。その実、トルーマンにも何が正解なのかは分からなかったのだ。

草の竪琴③

1951年に出版された「草の竪琴」は大きな支持を得た。「アメリカの最も優れた現代作家」とも言われた。そして何人かの批評家は、同性愛のテーマがないことに安堵していた。

今の本は長すぎる

「今の本はみんな長すぎる」とトルーマンは語っている。「本は土に撒く種のようなものなんだ。そして、読者が花を咲かせるべきなんだ」

戯曲や脚本

トルーマンは小説以外の仕事、芝居やミュージカルの脚本(戯曲)や映画の脚本の仕事にも夢中になった。「草の竪琴」の舞台は失敗し、脚本を手掛けた「終着駅(不謹慎なアメリカ人の妻)」も失敗に終わった。けれども、同じく脚本を書いた「悪魔をやっつけろ」はうまくいった。

ハンフリー・ボガート

トルーマンを「カポーシィ」と呼んでからかうのが好きだった「悪魔をやっつけろ」主演のハンフリー・ボガートが、トルーマンと腕相撲をして2回立て続けに負けてしまった。悔し紛れのボギーは、一種の敵意を持ってトルーマンを抱きしめたため、トルーマンともみ合いになり、転んだ拍子に肘の骨を折ってしまった。この事件の後、2人は親友同士になった。

母ニーナの自殺

トルーマンの母親ニーナは、1954年の正月に多量の睡眠薬を飲んで自殺した。滞在先のパリからニューヨークに向かったトルーマンは、移動中の飛行機の中で泣き続けていた。身内ではない人々には「肺炎のために死んだ」と伝えられた。

継父

妻を亡くしたトルーマンの継父ジョージ・カポーティは、自暴自棄となった結果として刑務所に入り、釈放後に新しい妻と結婚をした。しかし、偏執性の妄想に取り憑かれていたこの女性は、頻繁にトルーマンに付きまとった。トルーマンは新しい母に文句を言い、怒った継父はトルーマンとの縁を切ってしまった。

マリリン・モンロー

「ティファニーで朝食を」を映画化する際、トルーマンはマリリン・モンローこそが主役であるホリー・ゴライトリー役にふさわしいと考えていた。モンローは、まるまる二つのシーンを一人で完全に覚えて、トルーマンの前で披露して見せた。しかし、ハリウッドがヒロインに選んだのはオードリー・ヘップバーンだった。

エリザベス・テイラー

トルーマンにウッドハウスの本を初めて渡したのはエリザベス・テイラーである。重い病気で死にかけていたエリザベスをトルーマンが病院に見舞ったとき、彼女はひどいイタズラをトルーマンに仕掛けて見せた。「トルーマンは気絶するんじゃないかと思った」と、後年彼女は楽しげに回想している。

ケネディ大統領

パームビーチのプライベートビーチで、トルーマンは全裸で泳ぐケネディ大統領をたびたび見かけている。後年、トルーマンは「彼のは実にお粗末だった」と振り返った。どうしてケネディ大統領があれほど女性に人気があったのか、トルーマンには理解できなかったのだ。

ジャクリーン・ケネディ

ケネディ大統領の妻ジャクリーン・ケネディはトルーマンと二人きりで食事に出かけるくらい親密な関係だった。彼が2人の関係を公に自慢してしまうまで、2人の関係は1,2年に渡って続いた。2人に足りなかったのは性的な関係くらいのものだった。

スタイリッシュな金持ち

「スタイルはその人そのものである」というのがトルーマンの哲学である。トルーマンは最高のスタイルを有する人々との交流を喜んだ。多くの場合、それは「スタイリッシュな金持ち」だった。

白鳥

トルーマンにとって、スタイリッシュな上流階級の女性たちは「白鳥」と呼ぶべき特別な存在だった。「白鳥」たちはトルーマンからファーストネームで呼ばれ、彼女らもまた、トルーマンを特別に寵愛した。トルーマンが「白鳥」と呼ぶ女性は1ダースにも及んだ。

真実と嘘と

トルーマンは真実を話すのと同じくらいに嘘をつくことが好きで、そして上手だった。彼の話が原因で別れたカップルはいくつもあった。「僕はその気になれば、誰の仲でも引き裂くことができる」とトルーマンは言った。

アバクロ

1955年、「ティファニーで朝食を」の執筆途中で、トルーマンはソビエト連邦に旅している。アメリカの劇団による初めてのソ連公演について取材記事を書くためだった。トルーマンはアバクロンビー・アンド・フィッチの防寒具に身を包んでソ連で暮らした。

永住の地

「ティファニーで朝食を」の執筆中、32歳を迎えようとしていたトルーマンは、自分が落ち着くべき場所を求めていた。まるでホリー・ゴライトリーのように。永住の地と安定した生活に憧れていたのは、ホリーだけではなかった。

三島由紀夫

1957年にトルーマンは京都を訪れている。来日中のトルーマンを歓迎したのは、同年代のホモセクシュアル、三島由紀夫だった。しかし、2人の友情はそれ以上に発展することはなかった。

マーロン・ブランド

京都でトルーマンは映画撮影中のマーロン・ブランドと親密な話をしている。ブランドはそれを取材とは考えていなかったが、ブランドの告白はトルーマンによるインタビュー記事として雑誌ニューヨーカーに掲載された。男性と寝ていたことや母親がアル中だったことまで暴露されたブランドは「あいつを殺してやる」と激怒した。

ティファニーで朝食を

「ティファニーで朝食を」を掲載する予定だったファッション雑誌は、ホリー・ゴライトリーがセックスによって生計を立てていることなどを問題視して、この作品を雑誌に掲載しようとはしなかった。やむなくトルーマンは原稿を雑誌「エスクァイア」に売ることになった。トルーマンは、この雑誌社を決して許すことはなかった。

34歳

34歳になったトルーマンは、日記にこう記している。僕の誕生日、34歳。みかけもほぼ年相応、目のまわりに皺がある。

ホリー・ゴライトリーのモデル

1958年、「ティファニーで朝食を」がランダムハウス社から発売された。多くの女性が「自分こそがホリー・ゴライトリーのモデルである」と名乗りを上げた。トルーマンにとっては、彼が知っているほとんどすべての若くてクレイジーな女性が、ホリーのモデルだった。

ホリー・ゴライトリー

トルーマンの母リリー・メイは都会に憧れる南部出身の田舎者で、ニューヨークで結婚をしたときにニーナ・カポーティと名前を変えた。南部の田舎出身のルラメイが、ニューヨークに出てきてホリー・ゴライトリーと名前を変えたように。しかし、ホリー・ゴライトリーに最も近い人物は、他でもないトルーマン自身だった。

ティファニーで朝食を食べましょう

第二次大戦中、中年の男が海兵隊員を誘って、土曜日の夜を一緒に過ごした。翌朝、彼は一緒に朝食を食べようと思い、「この街で一番高い店はどこだね?」と海兵隊員に訊ねた。ニューヨークの高級な店をひとつしか知らなかった地方出身の海兵隊員は「それではティファニーで朝食を食べましょう」と答えた。

ボニー・ゴライトリー

マンハッタン在住のボニー・ゴライトリーは、名誉毀損とプライバシー侵害で80万ドルの損害賠償を要求した。「彼女が僕のホリーだなんて」とトルーマンは言った。「まもなく40歳で、しかも大柄が女性がホリーだなんて無茶な話だよ」

ノンフィクション

1959年、トルーマンはノンフィクションを書きたい欲求に取り憑かれていた。小説の代わりに事実を書きたいと考えていたのだ。そして、11月のあの日、トルーマンの人生を変える、あの事件が起きた。

クラスター一家殺害事件

トルーマンは、カンザス州ホルカムで発生した一家四人惨殺事件を作品(小説)として書こうと考えた。幼馴染のネル・ハーバー・リーが同行してくれることになった。このとき、彼女はまだ「アラバマ物語」を出版する前だった。

インタビュー

取材にあたり、トルーマンとネルはテープレコーダーでの録音はもちろん、メモさえ取らなかった。できるだけ包み隠さずに話をしてもらうため、2人はできるだけさりげない会話をしようと心がけた。彼らはホテルに戻った後で、その日のインタビューについての記録を作り上げた。

犯人との交際

トルーマンは「冷血」の取材にあたり、クラスター一家殺害事件の犯人であるディック・ヒコックとペリー・スミスと何度も面談し、手紙のやり取りをした。彼らは事件に計画性がなかったと主張しており、トルーマンが作品の中で自分たちのことをどのように書くのかということをおそろしく気にしていた。そして、作品のタイトルが「冷血」になるという噂を聞いた時、彼はひどく狼狽し、そして怒りに震えた。

貴君の幸せを祈る

トルーマンは実行犯と思われるペリー・スミスに「ティファニーで朝食を」を贈った。ペリーは「貴君の幸せを祈るトルーマンより」と書かれた献詩にひどく腹を立てた。「これだけかい」とペリーは吐き捨てるように言った。

死刑

殺人犯の2人はトルーマンを自分たちの味方だと信じていたのかもしれない。けれども、トルーマンの中で物語の筋書きはとっくに決まっていた。4人の人間を殺した犯人たちが死刑にならないはずはないと考えていたのだ。

死刑執行

死刑執行の直前まで、犯人の2人は刑の執行を延期してもらうために、何とかトルーマンと連絡を取ろうと試みた。しかし、これ以上刑の執行を延期して作品の完成を遅らせるわけにはいかないトルーマンは、嘘をついて刑務所には行かなかった。死刑執行直後、トルーマンは黒いマスクで目隠しをされた2人の遺体を確認した。

ノンフィクション・ノベル

「冷血」は新しい文学のジャンル「ノンフィクション・ノベル」だと、トルーマンは言った。「冷血」の執筆にあたり、トルーマンは登場人物や状況などを現実の事件から引用した。「冷血」の完成まで、6年近くの時間が費やされていた。

平和をもって

ノンフィクション・ノベルの「冷血」には一つだけ大きな創作シーンが含まれている。物語のラストシーンに僅かの安らぎを与えるため、トルーマンは物語を処刑シーンで終わらせなかったのだ。このラストシーンについてトルーマンは「なくてもよかった」と認めているが、彼は物語を「平和」をもって終わりたいと考えていた。

「冷血」発表

1965年、「冷血」は4週連続で雑誌ニューヨーカーに掲載された。掲載号は新聞雑誌の売店における販売部数の新記録を達成した。人々は「冷血」の話題で持ちきりだった。

「冷血」出版

1966年1月に「冷血」が出版されると、全国的な雑誌には12本の記事が載り、多くのテレビやラジオ、新聞記事で取り上げられた。トルーマンは「ニューズウィーク」の表紙になり、「ライフ」はかつて作家に割り当てたことがないくらいに大量のページをトルーマンのために割いた。「ニューヨークタイムズ」の記者は「一冊の本についてこれほど言葉と写真が氾濫し、降り注がれたことはない」と語っている。

新しいトルーマン・カポーティ

1966年は新しいトルーマン・カポーティが誕生した年である。「前髪を垂らした少年とはおさらばした」と彼は語っている。彼は41歳となり、金も名声もあるアメリカで最もよく知られた作家の一人だった。

黒と白の舞踏会

1966年11月、トルーマンはプラザホテルで「黒と白の舞踏会」と名付けられたパーティを主催した。トルーマンによって厳選された500名の国際的著名人がこの歴史的パーティへの招待状を受け取り、200名近くのカメラマンとレポーターが会場に入った。このパーティは「1960年代を代表するカポーティ舞踏会」と呼ばれた。

リー・ラジウィル

トルーマンは、ジャクリーン・ケネディの妹リー・ラジウィルをこよなく寵愛した。そのため、後年、リーがトルーマンから離れていったときの憎悪は激しかった。彼はテレビカメラの前で、リーのプライベートに関する多くの秘密を公開した。

骨の髄まで

「冷血」は骨の髄までトルーマンを削り取った。彼が主題をとことんまで掘りつくしたのと同じように。そして「冷血」の成功が、彼の人生を大きく変えた。

文学賞

「冷血」が文学賞を受賞できなかったことに、トルーマンは大きな衝撃を受けた。彼が必要としていたのは、目に見える形での文壇からの尊敬だった。文壇の多くの人間たちが、彼の攻撃の標的となった。

酒とドラッグ

「冷血」の頃から、トルーマンの薬とアルコールに対する依存は目に見えて多くなっていった。70年代初めには、薬であれ酒であれボトルがなければ生きてはいけない状態だった。多くの友人が、彼は長くは続かないだろうと予言した。

ロナルド・レーガン

カリフォルニアでトルーマンは州知事のロナルド・レーガンと友人になった。レーガンはトルーマンの取材のために骨を折ってくれた。そして、知事公邸修復資金集めに奔走している、妻のナンシー・レーガンを紹介した。

政治の嵐

1970年前後、世界中で政治の嵐が吹き荒れていた。暴動、抗議、暗殺。しかし、トルーマンは政治にはまったく関心がなかった。

ジャグア・コンバーティブル

トルーマンはジャグア・コンバーティブルを「緑の乙女」と呼んで溺愛した。しかし、新しく手に入れたブルドッグが、自動車から飛び降りようとしたとき、トルーマンはジャグアを木に衝突させてしまった。彼はフロントガラスに頭を打って2日間入院し、ジャグアは完全に壊れてしまった。

恋人との破局

1970年、トルーマンは21年間連れ添った恋人のジャックと破局を迎えた。二人は恋人関係に終止符を打ち、性的関係のない友人同士となった。「誰かと21年も一緒に暮らすのは長い」と、トルーマンは語っている。

禁固刑

トルーマンは、刑事事件の証人としての召喚状を無視したために逮捕された。レーガン知事の力をもってしても、トルーマンを釈放することは叶わなかった。トルーマンは、初めて刑務所で18時間の禁固刑を経験した。

華麗なるギャツビー

パラマウントは、フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」の映画脚本の作成をトルーマンに提示した。しかし、トルーマンの書いた脚本は、パラマウントの満足を得られなかった。これではまるで原作と同じ内容だという理由で。

ローリング・ストーンズ

1972年、トルーマンはローリング・ストーンズの北米ツアーに同行取材した。ストーンズのメンバーはトルーマンを気に入り、トルーマンもまた彼らを気に入ったけれども、原稿は完成しなかった。トルーマンはツアーの中に「新しい意外性」を発見することができなかったのだ。

裸のサイン

ある晩、トルーマンは混み合ったバーで一人の女性からサインをせがまれた。彼女を下着を脱いで、裸のお尻を彼に向けた。それを見ていたバーテンダーが、ズボンのジッパーを下してから自分の性器をつかみだし、同じようにサインを求めた。

ウッドワード事件

トルーマンはアン・ウッドワードが夫を誤って射殺した事件について、「叶えられた祈り」の中で再現して見せた。人々は、アンが夫を撃ち殺したのは誤りではないだろうと考えていた。トルーマンの作品を読んだアンは、まもなく服毒自殺をした。

ラ・コート・バスク

上流階級の社交界におけるゴシップを詰め込んだ「ラ・コート・バスク」の発表によって、トルーマンは上流階級の社交界から永久に追放された。作品の発表前、トルーマンは「連中は鈍いから分からないさ」と考えていたが、彼らはちゃんと分かってしまった。後年、トルーマンは「誰も傷つけるつもりはなかった」と語っている。

酒酔い運転で逮捕

1976年、トルーマンは飲酒運転で交通事故を起こした。「カポーティ、酒酔い運転で逮捕」のニュースは、トルーマンの酒に関するトラブルを全国に広めた。トルーマンは、コネチカット州の高級なアルコール中毒患者治療クリニックに入院した。

入退院

晩年のトルーマンは、酒やドラッグに関わるトラブルを解消するため、あるいは精神的疾患に関する治療のため、いくつもの病院に入退院を繰り返している。しかし、彼が入院した正確な回数は、誰も把握していない。

自殺の予言

1978年、トルーマンはテレビのトークショーに出演し、自身のアルコールとドラッグの問題について語った。「もしもトラブルを克服できなかった」と彼は語っている。「いずれトルーマンは自殺するだろうね」

アンディ・ウォーホル

1979年、トルーマンは生まれ変わった。フェイスリフトの手術をし、増毛を施し、歯を大々的に治療した。アンディ・ウォーホルは「驚いたな、トルーマン。昔ながらの君に間違いないが、まったく新しくなっている」と感嘆した。

幻覚症

トルーマンは悪い幻覚症に悩まされた。そして、発作が治まった後の彼は、自分が精神的錯乱を起こしていたことを、きちんと理解していた。友人たちはトルーマンを精神病院に入れなくてはいけないと、深刻に相談をしていた。

仮死状態

1981年の夏、トルーマンは仮死状態に陥った。医師は酒を断つよう強く警告したが、退院したその足で友人宅に立ち寄り、そこで酒を飲んだ。そして、病院での生活がなかったかのように、酒を飲み続ける暮らしは続いた。

タイニー・ルディシル

1983年、トルーマンの叔母タイニー・ルディシルが、トルーマンの子供時代に関する著作「トルーマン・カポーティ」を出版した。幼馴染のハーパー・リーは、事実と異なる記述が溢れていると指摘した。

おじいさんの思い出

叔母のタイニー・ルディシルは、トルーマンの死後に「おじいさんの思い出」というタイトルの作品を出版社に持ち込んでいる。しかし、トルーマンが書いた作品であるという確証はどこにも存在しない。

トルーマン逝去

1984年8月23日、60歳の誕生日を1か月後に控えて、トルーマンは死んだ。ロサンゼルスのジョアン宅を訪問中の出来事だった。ジョアンは救急車を呼ぼうとしたが、トルーマンはそれを許さなかった。

最後の言葉

検視の結果、トルーマンは大量の薬物を服用していたことが明らかとなったが、自殺なのか事故なのかは分からなかった。救急車を呼んでいれば助かったと言われている。ジョアンが聞いた最後の言葉は「寒い」だった。

参考「カポーティ」ジェラルド・クラーク/中野圭二・訳(文芸春秋)

http://gentle-land.com/breakfast-at-tiffanys/

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