読書体験

車谷弘「銀座の柳」久保田万太郎から小泉信三まで、俳句とともによみがえる思い出

車谷弘「銀座の柳」あらすじと感想と考察

車谷弘「銀座の柳」読了。

最初から最後まで、なんだか隙のない随筆集だという気がした。

何かの専門家が息抜きに書いたエッセイなどという雰囲気が微塵もない。

まるで全身全霊を傾けて、ひとつひとつの文章を組み立てているような印象がある。

随筆にありがちな遊びがない分だけ、まるで短篇小説を読ませるような味わいがある。

例えば、「犀星偽墨」は、室生犀星を回想する追悼文だが、犀星という人はとにかく若い女性が好きで、犀星の書斎にはどこの出版社も未婚の女性社員をさしむけることになっていたという。

和装で室生邸を訪ねた津村節子は、「着物より洋服の方が足が見えていいですよ」と言われてからスカート姿で訪問するようになったが、犀星の書斎に上がる縁側は、犀星が女性を鑑賞しやすいように通常よりも高く作られていて苦労したという。

犀星が死んだ時、弔問に訪れた久保田万太郎が、この縁側で窮屈そうにしていたのは、そのためだったのである。

この追悼文は、ほとんどが犀星の女好きについて振り返る文章だが、最後にほんの少しだけ、尾崎士郎のエピソードが出てくる。

犀星の告別式が終わった後、著者が尾崎士郎邸を訪ねると「雪ふるといひしばかりのひとしづか」という犀星の句の色紙が飾られていた。

驚いたことに、これが実は偽物で、尾崎士郎は「犀星だけど、偽筆なんだ。室生さんが亡くなって淋しくてね、字のうまい友人に、、無理に書いて貰ったんだ」と笑う。

色紙の裏には、尾崎士郎の字で「これは友人関口良雄君の真筆である」と書いてあった、というのが、この随筆の終わりだが、女好きだった犀星の回想を、このようなエピソードで締めくくり、その作品の題名を「犀星偽筆」とするところも、いかにも創作のようで手が込んでいる。

この随筆集には、同じように故人を悼む回想文が多く収録されている。

「大洪水」は、著者の自宅を設計した清水一の回想で「住居というものはね、いくら小住宅ではあっても、合理主義一点張ではいけない。やっぱりある程度の無駄がないとあきちゃいますよ。ですからね、住居というのは、そこに住む人と、設計家とが、同世代で、趣味教養もだいたい似ているというのが理想的なんだな」という清水の言葉が紹介されている。

清水はじめ句集「匙」の跋の中で、友人の加倉井秋をは「清水さんの俳句を語る、ということは、清水さんの建築作品、並びにその随筆作品を語るということになろう。清水さんが作る建築の楽しさ、随筆が醸し出すほろっとしたたのしさは、そのまま、この独特な俳句の味につながるのである」と書いたそうだ。

著者が俳句の師とした久保田万太郎についての思い出も話も多い。

表題作「銀座の柳」では、文壇俳句会が銀座吟行を行ったときの万太郎俳句「忍(のび)空巣すり掻つぱらひ花ぐもり」は、交番の掲示に出ていたものをそのまま句の中に読み込んだものだった、ということが紹介されている。

「文学を勉強しないで、俳句ばかり勉強したって仕様がないですよ」という万太郎の台詞も印象深い(「祝辞」)。

「井伏さんの夏袴」は、文芸講演会で北九州を旅したときの回想記だが、井伏鱒二が間違えて夏袴を持参したために小倉まで袴を買いに出かけるという話だが、井伏さんの袴の話よりも、著者が深夜に浴室へ行ったときの話が楽しい。

遅い時間だったので、浴室には旅館の女中連が入浴中だったのだが、著者が素っ裸になったのを見て、女中は遠慮なく入れと言ってしきりに勧める。

躊躇いながら著者は風呂に入ったものの、若い女性だらけの中でいたたまれなくなって早々に飛び出してしまうのだが、翌朝、この体験を同行の船橋聖一に話したところ、船橋はいきなり著者の腕をつかんで「何故それを、僕に教えてくれなかったんだ」と、すごい見幕で詰め寄ったという(笑)

女婿の重篤に泣いた小泉信三

本書で一番胸を打たれたのは、小泉信三を偲ぶ「シャボン玉」である。

この随筆は、文藝春秋で先輩だった永井龍男が「銀座百点」の俳句蘭の選者を引き受けたところから話が始まるが、その頃、常連の投稿者の中に、小泉信三の娘のタエと、その婿・準三の二人がいた。

昭和四十一年四月二十九日の天皇誕生日に、永井さんを囲む句会が催され、その会に、小泉準三・タエ夫妻も参加して楽しんでいたが、その二、三日後に、夫の準三が突然の発病で重篤となった。

準三の無事を祈る信三が句会の様子を娘に尋ねると、タエは、自分の選んだ句の中に夫の作品が入っていて、それは「燈台の子は一人吹くしゃぼん玉」というものだった。

この話を聞いた途端、父の信三は「可哀想」と低い声で言い、すすりあげて泣き出したという。

小泉信三は既に実子を戦争で亡くしており、今また女婿を失うかもしれないという不安が、あのような涙を誘ったのではないかと、タエは推察している。

十日後、準三はどうにか危機を脱するのだが、周囲が安堵したその夜、信三が急死した。

著者は、昭和四十三年の暮も押しつまった「銀座百点」の忘年句会にゲストとして招いた小泉準三・タエ夫妻の様子を見ながら、在りし日の信三を思い出している。

書名:銀座の柳
著者:車谷弘
発行:1989/11/25
出版社:中公文庫

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。