音楽

映画「ジョアン・ジルベルトを探して」になった『ボサノヴァの神様』の伝説50選

2019年7月6日、「ボサノヴァの父」とも「ボサノヴァの帝王」とも呼ばれた天才ミュージシャン、ジョアン・ジルベルトが逝去した。88歳だった。今年8月には映画「ジョアン・ジルベルトを探して」も公開される。

今回はボサノヴァ誕生前夜におけるジョアン・ジルベルトの貴重なエピソードを集めてみた。「天才」でありながら「変人」とも評された若き日のジョアン・ジルベルトに、ぜひ触れてみていただきたい。

下院議員の書記を解雇される

プロになる前、ジョアン・ジルベルトは叔父の紹介により、州選出の下院議員の書記として就職した。事務所はリオ中心街にあり、彼は勤務時間中も職場を離れて街をさまよった。あまりの勤務状態の悪さに、下院議員は彼を解雇せざるを得なかった。

バンドの専属歌手をクビになる

ジョアン・ジルベルトは「ガロートス・ダ・ルア」というバンドの専属歌手として働いていた。ガロートス・ダ・ルアは、クラブへの出演依頼が相次ぐ人気バンドだったが、ジョアン・ジルベルトの無断欠勤や遅刻によって、たびたび活動を休まざるを得なかった。結局、ガロートス・ダ・ルアはジョアンをクビにするしかなかった

彼女の父親に激しい非難を受ける

ジョアン・ジルベルトは友人の妹に恋をした。その頃、友人の姉妹に手を出すことはタブーと考えられており、おまけに友人の妹はまだ高校生だった。妹との交際に強く反対する友人と絶交した後、ジョアンは彼女の父親に結婚を願い出て激しく非難された。

初めてのソロ・レコーディング

1952年8月、ジョアン・ジルベルトは初めてのソロ・レコーディングを行った。録音された曲は「彼女が出かける時」と「メイア・ルス」の2曲で、彼は極めて落ち着いて、そして完璧にレコーディングを終えた。けれども、彼のレコードが街の人々の話題になることもなく、彼のデビューは何ももたらさなかった。

他人にはあらゆるものを求めた

ジョアン・ジルベルトは自分には決して厳しい人間ではなかったが、他人にはあらゆる要求をした。誰かと一緒に演奏することが苦手で、多くの場合、彼は仲間の演奏に満足することができなかった。なにより彼には、ルールを守らなければいけないという約束がなかった。

居候暮らし

リオでプロとして活動を始めた頃、ジョアン・ジルベルトには家賃を払う金さえなかった。彼は友人の好意によって、友人たちのアパートを転々として暮らした。居候は友人との友情がある間だけ続き、友人は次々と移り変わっていった。

マリファナだけが

1954年、23歳のジョアン・ジルベルトには何もなかった。仕事も、金も、友人も、何もかも。それでも彼は、マリファナをやめることだけはなかった。

ヴィオラォンの贈り物

自分のヴィオラォンが気に入らないという理由で、彼はナイトクラブでは決まった曲以外に演奏しなかった。そこで店の客がカンパを募って、彼に新しい楽器をプレゼントした。その贈り物を早速演奏したジョアンは、その贈り物はやっぱり気に入らないものだと言った。

オレンジの皮

友人の計らいでホテルで過ごしていた頃、彼の部屋のメイドは、毎日ベッドの下にオレンジの皮を見つけて掃除をした。彼はオレンジの皮を自分で置いているのだと、メイドに説明した。オレンジの皮に誘われてくる蟻と仲良しになりたいのだと、彼は言った。

引きこもり

1956年、マリファナと手を切るために、ジョアン・ジルベルトは姉夫婦の家の小さな部屋に引きこもって暮らした。彼は一日中パジャマ姿のままで、ただヴィオラォンを弾いて暮らした。姉は彼の部屋に食事を運び、彼は真夜中に姉の子供部屋の前に立ってヴィオラォンを弾きながら歌った。

バスルームにて

姉夫婦の家のバスルームで、ジョアン・ジルベルトは演奏し、歌うことを好んだ。バスルームの音響効果は、ジョアンの声とヴィオラォンの音を聴くのに最適だった。このバスルームで、好きなテンポで歌うことができるよう、ジョアンは小さな声で歌うテクニックを発見した。

精神病棟で

実家に戻されたジョアン・ジルベルトは、父親の指示に従い精神病院で治療を受けた。ある日、彼は窓の外を見ながら「風が樹木の髪を散らしていく」とつぶやいた。担当の女医が「樹木に髪はないわ」と言うと、ジョアンは「そして詩情のない人間もいる」と言った。

ナイトクラブで

ジョアン・ジルベルトはナイトクラブで歌うことを忌み嫌っていたが、今日を生きる金のためにステージに立った。そして、クラブの騒音や無理解な客に我慢できずに、たちまち店を辞めた。そんなことが繰り返されて、やはり彼は宿なしで職なしで一文無しのままだった。

ボサノヴァのバチーダ

1958年、ジョアン・ジルベルトは、女性歌手エリゼッチ・カルドーゾのアルバムの録音に参加した。彼は「想いあふれて」と「もう一度」の2曲でヴィオラォンを演奏した。このアルバムによって、ジョアン・ジルベルトが発明した「ボサノヴァのバチーダ」と呼ばれる奏法は世の中に出ることになった。

コロンビアレコード

コロンビアレコードは、ジョアン・ジルベルトのレコーディングを行うべきか否か、テストを行った。彼の「ビンボン」を聴いたディレクターは、彼に歌詞の一部を書き換えるように助言した。その結果、コロンビアレコードは、ジョアン・ジルベルトを手に入れることはできなかった。

初めてのレコーディング

初めてのレコーディングで、彼は一小節ごろに演奏を中断して、ミュージシャンたちの極めて微妙な間違いを指摘した。他のどのメンバーも気付かない過ちをジョアンは発見し、その都度、全員が初めから演奏を始めなければならなかった。無数に演奏が中断され、数人のミュージシャンが録音に参加するのをあきらめてスタジオを去って行った。

ワールドカップの陰に隠れて

ジョアン・ジルベルトのレコードは無事に発売されたが、世の中にまったく反応はなかった。すべてのブラジル国民は、ワールドカップで優勝したブラジル代表チームの話題で忙しかったのだ。ジョアンのレコードを聴くことさえ考えられないことだった。

これがリオがよこしたクソか?

レコード会社は、新人歌手ジョアン・ジルベルトのレコードを売るため、重要な販売店を説得しようと考えた。そして、サンパウロで巨大な力を持つ販売店の総支配人を呼んで、ジョアンのレコードを聴かせた。総支配人は「このレコードが、リオが寄こしたクソなのか?」と叫んだ。

気違いか、天才か

レコードを売ってもらうために、ジョアン・ジルベルトはサンパウロのレコード商と面談をした。レコード商は、ジョアンの言動を見て「こいつは気違いか、天才か、あるいはその両方だ」と思った。そして、レコードを売り込む決心をした。

想いあふれて

ラジオ番組では、ジョアン・ジルベルトの真似をして「想いあふれて」を歌う企画が始まった。予期しない個所でフレーズを個性的に区切るジョアン・ジルベルトの区切り方を真似て歌うことは、極めて困難なことだった。ラジオ番組のプロモーションによって、彼の「想いあふれて」はサンパウロでヒット曲となった。

テレビ出演

ジョアン・ジルベルトは日曜の夜のテレビ番組に出演して「想いあふれて」を歌った。テレビ番組の効果は大きかった。「想いあふれて」の七十八回転盤が、ヒットチャートに登場し始めた。

居候暮らし

「想いあふれて」がヒット曲となり、もはや彼が有名人となる頃、彼はやはり宿なしのままだった。居候をしている友人のアパートの部屋で、彼は音楽仲間を集めて楽しく騒いだ。耐えきれなくなった友人は、ジョアンを残したままで部屋を引っ越して行った。

居留守

トム・ジョビンは、ジョアン・ジルベルトが自分の部屋に転がり込んでくることを厳しく警戒していた。ある日、寝場所を求めてジョアンが現れたとき、トムの妻はこう言った。「トムが、自分は留守だと言ってくれって」

ボサノヴァ

1959年、ジョアン・ジルベルトのアルバム「想いあふれて」が発売された。トム・ジョビンは裏ジャケットのライナーノートの中で「彼は27歳、バイーア出身のボサノヴァです」と書いた。もっとも「ボサノヴァ」という言葉は、一般社会で認知されている言葉ではなかったが。

ジャケット写真のセーター

「想いあふれて」のジャケット写真の撮影の際、ジョアンは友人のセーターを借りた。写真写りが良いとは思えない、彼の半袖シャツを隠したかったからだ。そして、ジョアンは友人にセーターを返すことを忘れてしまった。

ジャケット写真の影

「想いあふれて」のジャケット写真を撮影した写真家は、フィルムを現像したときに失敗に気が付いた。頬杖をつくジョアンの背後に、スポットライトの影がシミのように映ってしまっていた。しかし、撮り直す時間もなく、写真はそのままオーケーが出て、ジャケットが完成した。

音痴のカナリア

ジョアンが居候をするアパートの上階の部屋には作曲家が住んでいた。作曲家はカナリアを飼っていて、カナリアは迷惑な時間に起きて鳴いた。カナリアの鳴き声を聴きながら、ジョアンは不愉快そうに「ブラジルじゃカナリアまで音痴だよ」とつぶやいた。

夜型の生活

ジョアン・ジルベルトは居候でありながらも、自分の生活リズムを崩すことはなかった。つまり、夜中に歌い続けて、朝9時半に就寝した。同居者たちは寝不足のままで仕事に出かけなければならなかった。

一番良いスーツ

ある日、友人は大統領との昼食会に、一番良いスーツを着て出かけようと思った。一番良いスーツは、居候のジョアン・ジルベルトが勝手に持ち出してしまっていた。友人は、やむなく二番目に良いスーツを、つまり毎日着用しているスーツを来て昼食会に出かなければならなかった。

盲目のミュージシャン

演奏旅行のために訪れた街で、ジョアン・ジルベルトは盲目のミュージシャンの面会を受けた。帰り際にジョアンの持っていたヴィオラォンを褒めた彼に、ジョアンは躊躇なく「これは君のだ。持って帰りなよ」と言った。もっとも、その楽器はジョアンのものではなく、隣に座っている彼の友人の所有物だったが。

ナラ・レオン

ボサノヴァを敬愛する若者はナラ・レオンのアパートに集まったが、ジョアン・ジルベルトが顔を出すことは滅多になかった。稀にジョアンが登場するとすれば、それは夜中の午前0時を過ぎてからだった。その頃のナラ・レオンは、まだ17歳の女の子だったというのに。

アストラッドとの結婚

1960年、ジョアン・ジルベルトは、ナラ・レオンの友人であるアストラッドと結婚をした。口説き文句のひとつは「僕と君とチェット・ベイカーの3人で永遠に歌い続ける想像上のヴォーカルトリオを作ろう」だった。そして彼は、彼女の歌のためにヴィオラォンで伴奏をつけた。

パジャマのままで

テレビの音楽番組で、ジョアン・ジルベルトは誰かの代役として、急きょヴィオラォンを演奏した。そのときジョアンは、レインコートを着たままで、女性歌手の伴奏を演奏した。彼のコートの下はパジャマのままだったからだ。

石鹸のCM曲

「想いあふれて」のヒットで有名な音楽家となった頃、ジョアン・ジルベルトは石鹸のテレビCM曲を録音した。そしてジョアンは、CM曲のギャラを受け取ろうとはしなかった。今やジョアンは、喰うために不愉快なCM曲を歌うのではなく、自分の楽しみとしてCM曲を歌える歌手になっていた。

自殺した猫

ジョアン夫妻の飼っていた猫が、窓から落ちた。音楽仲間は、猫は永遠に繰り返されるジョアンの歌に耐え切れずに自殺したのだろうと言った。猫は、ジョアン夫妻が病院へ運んでいる途中で息を引き取った。

ナット・キング・コール

ナット・キング・コールが音楽活動のためにブラジルを訪れたとき、ジョアンはレコード会社の廊下で、ナットが出てくるのを待ち続けていた。やがて、打ち合わせを終えたナット・キング・コールが、ジョアンの横を通り過ぎていった。その夜、ジョアンは興奮した声で「彼は黒くないんだ、青いんだ!」と叫んだ。

観客のユニゾン

人気歌手ジョアン・ジルベルトは、その夜のテレビ番組に出演して「オ・パト」を歌った。ジョアンの予想に反して、客席の人々はユニゾンで「クエン、クエーン!」と続けた。客席に悲しげな眼差しを向けたまま、ジョアンは演奏を中止して、そのまま会場を去った。

電話好き

ジョアン・ジルベルトは電話が好きで、友人に電話をかけて6時間も話し続けた。彼が食事をしている40分間の休憩時間を除いて。そして、その休憩時間にも電話を切らないで待っていてくれるよう、友人に頼み込んで。

ボサノヴァなんかやってない

1961年、リオにボサノヴァの嵐が吹き荒れていた頃、ジョアン・ジルベルトはボサノヴァに嫌気が差していた。僕はボサノヴァなんかやっていないよ、とジョアンは言った。「僕がやっているのはサンバなんだ」と。

カーネギーホール

ニューヨークのカーネギーホールで、ブラジルのボサノヴァミュージシャンたちによるコンサートが開かれた夜、ジョアン・ジルベルトもステージの上に立っていた。客席にはペギー・リーやマイルス・ディヴィスやディジー・ガレスピーらがいた。ジョアンはアメリカで出版される日を見越して、ステージ上で「イパネマの娘」を歌うことはしなかった。

オデオンレコード

ボサノヴァを世に送り出したレコード会社オデオンは、ボサノヴァから手を引きつつあった。オデオンに残った最後のミュージシャンがジョアンだった。けれども、ジョアンの3枚目のアルバムは以前の作品ほど売れることはなかった。

刑事事件

テレビ局主催の授賞式で、ジョアン・ジルベルトは音楽仲間チト・マヂーと、ちょっとしたいざこざを起こした。そしてチトの頭をヴィオラォンで殴りつけてしまった。チトは頭を十針も縫う怪我を負い、ジョアンは告訴された。

スタン・ゲッツ①

「ゲッツ/ジルベルト」を録音したとき、ジョアン・ジルベルトとスタン・ゲッツとの関係は音楽ほど爽やかなものではなかった。ゲッツは日常生活から酔い心地だったし、ジョアンはゲッツがボサノヴァを理解していないと信じ込んでいた。おまけに、ジョアンが囁くように歌うほど、ゲッツのサキソフォンは大きな音を鳴らした。

スタン・ゲッツ②

ジョアンは「ゲッツに『おまえはバカだ』と言ってくれ」と通訳に指示をした。通訳は「ジョアンは『あなたとレコーディングするのが夢だと言っています』」とゲッツに言った。ゲッツは「彼の声は、そんなことを言っているようではないみたいだけどね」と通訳に言った。

ゲッツとアストラッド

「ゲッツ/ジルベルト」の録音の際、同席していた妻のアストラッドが「イパネマの娘」を英語で歌いたいと申し出た。そのとき、アストラッドはプロフェッショナルの歌手ではなく、夫のジョアンは聞き流そうと努力した。もっとも、正直に言ってゲッツにとってはどうでもいい話であり、結局アストラッドはレコーディングに参加することに成功した。

イパネマの娘

アルバム盤「イパネマの娘」は5分15秒もある大作だった。そこで担当ディレクターは、録音の中からジョアン・ジルベルトのボーカルを除いて、アストラッドだけが歌う3分55秒のシングル盤を制作した。アストラッド・ジルベルトの「イパネマの娘」は、世界中で大ヒットを記録し、LP「ゲッツ/ジルベルト」の売り上げにも大きな貢献を果たした。

グラミー賞

1964年、「ゲッツ/ジルベルト」が売れたお金で、ジョアン・ジルベルトはニューヨークの住宅を買った。そして、このレコードは歌手とヴィオラォン奏者の部門でグラミー賞を受賞した。トロフィーは引っ越しの際になくなってしまった。

※参照「ボサノヴァの歴史」ルイ・カストロ/国安真菜・訳(音楽之友社)

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1967年生まれのバブル世代。80年代カルチャーしか勝たん。推しは仙道敦子。匂いガラスが欲しい。