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木山捷平「耳学問」終戦直後の長春で体験したシベリヤ行きからの脱走

木山捷平「耳学問」あらすじと感想と考察

木山捷平「耳学問」読了。

「耳学問」は、講談社文芸文庫『私小説名作選(上)』(中村光男選)に収録されている短篇小説である。

文芸文庫には、作品解説のようなものが一切ないが、「耳学問」は1956年(昭和31年)に発表されたものらしい。

このような文庫には、解説らしいものを加えてほしいところだ。

ロシア語で覚えた「私は病気です」

タイトルからは、およそ、どんな小説なのか、まったくもって判断がつかない。

舞台は、終戦直後の長春(中国の都市)である。

その頃、中国の各都市にはソ連兵が入ってきていて、囚虜としてソ連へ連れていく人間の選定作業が行われていた。

42歳だった著者(木山捷平)は神経痛を患っており、捕虜になってシベリアへ行くことは、はなはだ困難なことのように思われた。

そこで「私は病気です」という意味のロシア語を、大阪外国語学校ロシヤ語科出身である長谷川実に教えてもらった。

もちろん、正しい発音などを学んでいる時間はないから、「ヤー、ニエ、オーチェン、ズダローフ」という会話文を、日本語のカタカナで紙に書いてもらったのである。

著者は、いくつかのロシア語の単語を耳学問とやらで覚えていたが、この「私は病気です」という意味のロシア語も、言ってみれば耳学問のうちのひとつのようなものだろう。

間もなく、召集令を受け取った著者は、訊問所のようなところで、覚えたばかりのロシヤ語で「私は病気です」と訴えようとするが、相手はきれいな日本語を使った。

それは、女の下士官で、年は二十三四くらいに見えた。

ロシアの若い女性だから、さぞかし美貌だったに違いないと思うのだが、彼女の詳細については触れられていない(「ソ連の美人士官」と木山さんは言っている)。

著者の生年月日を確認した彼女は、にこっと笑って「どうも、御苦労様。すぐ、お帰りなさい」と言った。

せっかく覚えたロシヤ語を披露する機会を逸して、著者は、もっと彼女と会話をしてみたいと思うが、せっかく解放された身である。

再び声をかけられないようにして、その集合場所を後にした。

名前を聞かれた著者が「木山捷平」と答えるのを聞いて、係員が「キャーン・チエホフスキー」と台帳に記載する場面がおかしい。

この後、著者は、街で出会ったソ連兵と会話を試みたり、シベリヤ行きの捕虜の街頭徴発に捕まって逃走したりするが、耳学問で覚えたロシヤ語を発揮する機会は、なかなか訪れなかったようである。

満人巡査の街頭徴発から逃走した木山捷平

「耳学問」で木山さんは、シベリヤ行きから逃れた体験をユーモラスに綴っているが、そのおかしさの裏側には、終戦直後の日本人が背負わなければならなかった、敗戦の重みがある。

どれだけユーモラスに描かれていたところで、僕は、この小説を読んで愉快に笑うことなどできないと思った。

すぐ目の前に、ソ連の捕虜となってシベリヤへ送られるかもしれないという現実がぶら下がっているのである。

冗談など言っている余裕などなかったであろう。

ある意味で、当時の日本人は極限状態に置かれていたわけであり、そんな極限状態の中だからこそ見ることのできる人間の本質というものを、この小説は教えてくれる。

満人巡査の街頭徴発から逃走した木山さんは、高さ五尺ばかりの煉瓦の塀を乗り越えて姿をくらますが、塀の向こうはなんと、ソ連兵の営舎であった。

街頭徴発で集められた日本人は、もうすぐここに集められてくるのだろう。

せっかく巡査の元から脱走してきたのに、わざわざ自分で集合場所まで来てしまったのだ。

振り返れば笑い話だが、その瞬間の木山さんの驚きは、一体どれほどのものであっただろう。

あれから80年近い時が経つことになる。

ロシア人が今も戦争を続けているということには、まったくもって言葉を失うしかない。

書名:私小説名作選(上)
編者:中村光夫
発行:2012/5/10
出版社:講談社文芸文庫

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。