1983年『宝島』の書評で読む『中国行きのスロウ・ボート』(村上春樹の処女短編集が2024年に復刊された)

『宝島』1983年(昭和58年)8月号に、村上春樹の処女短編集『中国行きのスロウ・ボート』の書評が載っている。

おもしろいので、全文を転載してみたい。

村上春樹の初短編集で、7つのショートストーリーが書かれた年代順につまっている。村上春樹のショートストーリーは涼しくてイイ。なぜ涼しいのかというと、文章に虚飾がないから。特に最近書かれたものの方が、よりライト。次に涼しい理由。事件とかストーリーがほとんどないから。これはショートストーリーならばアタリマエといえば言えるけど、頭の中がユッタリする。次の理由。デキゴトがつづられていくうちに、アブノーマルな設定や人物がどんどんモノトーンに落ちついていって、最後にチラッと光るキメ文章。この息遣いも涼しい。この際、うんと暑苦しい場所で読むのがイイね。ただし…帯の文はイヨーにダサイので読まない事。(『宝島』1983年8月号)

この書評を読み解くには、当時の村上春樹の置かれた立ち位置を理解する必要がある。

1980年代前半の村上春樹

村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』初版本村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』初版本

1979年(昭和54年)4月、『風の歌を聴け』で第22回群像新人文学賞を受賞した村上春樹は、『群像』1979年(昭和54年)6月号で『風の歌を聴け』を発表し、作家としてデビューする。

本人の話では、『風の歌を聴け』が、初めて書いた小説だったらしい(当時は、千駄ヶ谷で「ピーターキャット」というジャズ喫茶を経営していた)。

従来の日本文壇にない作風は、社会の注目を集め、第81回芥川賞候補となる(受賞には至らず)。

1980年(昭和55年)3月号『群像』に発表した二作目の長篇小説「1973年のピンボール」も芥川賞候補となるが、受賞には至らず。

この後、村上春樹の作品が、芥川賞候補となることはなかった。

1980年(昭和55年)4月号『海』に、最初の短編小説となる「中国行きのスロウ・ボート」を発表。

1980年(昭和55年)9月号『文学界』に中編小説「街と、その不確かな壁」を発表するが、納得のいく作品ではなかったらしく、単行本には未収録となる(後の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『街とその不確かな壁』の原型となった)。

1980年(昭和55年)12月号『新潮』に「貧乏な叔母さんの話」を発表。

翌年の1981年(昭和56年)3月号『ブルータス』に「ニューヨーク炭鉱の悲劇」を発表。

当時は、村上春樹の作品を『ブルータス』で読むことができる時代だったのだ。

1981年(昭和56年)10月号『新潮』に「カンガルー通信」を発表。

この年(1981年)に発表された小説は「ニューヨーク炭鉱の悲劇」と「カンガルー通信」の二作のみだったが、翌年の1982年(昭和57年)に大きな作品が発表される。

それが、1982年(昭和57年)8月『群像』に発表された「羊をめぐる冒険」で、「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」に続く「羊をめぐる冒険」は、「鼠三部作」の完結編として大きな話題となった。

「いるかホテル」や「羊男」など、村上春樹ワールドを象徴するアイコンが初めて登場
するのも、「羊をめぐる冒険」だった。

短篇作品では、1982年(昭和57年)9月号『宝島』に「午後の最後の芝生」が発表されている。

村上春樹史上、最も人気のある短編小説のひとつである「午後の最後の芝生」は、なんと『宝島』で発表されていたのだ。

『ブルータス』とか『宝島』とか、初期の村上春樹は、中央文壇以上にサブカルチャーの場面で話題となることが多かったような気がする。

1982年(昭和57年)11月号『すばる』に「土の中の彼女の小さな犬」を発表。

そして、長篇『羊をめぐる冒険』のスピンオフ的な作品と言える「シドニーのグリーン・ストリート」が、1982年(昭和57年)12月号『海』臨時増刊『子どもの宇宙』に発表されて、村上春樹の充実した1982年(昭和57年)が終わる。

ジャズ喫茶をやめて専業作家となったことも、充実した作品群の背景となっているのかもしれないが、これらの短編小説を集めた、初めての作品集『中国行きのスロウ・ボート』が講談社から刊行されるのは、1983年(昭和58年)5月のことだった。

そして、1983年(昭和58年)8月号『宝島』に、『中国行きのスロウ・ボート』の書評掲載。

これが、『宝島』に書評が掲載されるまでの、村上春樹の作家歴ということになる。

村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』の魅力

村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』帯の文章村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』帯の文章

『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』という初期三部作に続いて、最初の作品集『中国行きのスロウ・ボート』を刊行する村上春樹は、若者たちから支持される人気の若手作家だった。

とは言え、1983年(昭和58年)には既に34歳だったから、若者たちの代弁者と言うには、村上春樹は年を取り過ぎている。

ある意味では、青春を終えた大人としての立場から読むことができるいうところに、村上春樹という作家の存在意義があったのかもしれない。

書評には「村上春樹のショートストーリーは涼しくてイイ」と書かれている。

「特に最近書かれたものの方が、よりライト」ともあるが、村上春樹の小説を「クール」とか「ライト感覚」とかいう言葉で表現するのは、当時のトレンドだった。

ライト感覚で読むことができるクールな青春小説。

それが、村上春樹という作家を評する、基本的なラインだったのかもしれない(それが正解だったか否かは置いておいて)。

「事件とかストーリーがほとんどないから、頭の中がユッタリする」という評価には注目したい。

後年の村上春樹は、事件とかストーリーがほとんどないからこそ、暗示に満ちた小説として、無限の謎解き(いわゆる「ハルキ・クエスト」)が始まることになるからだ。

次の「アブノーマルな設定や人物がどんどんモノトーンに落ちついていって」という文章とも併せて、村上春樹の読み方が、まだまだ定着していなかったんだなあという感じがする。

シンプルに読もうと思えばシンプルに読めるし、深読みしようと思えば深読みすることもできる。

それが、村上春樹の小説の奥深いところなのだろう。

ただし、1980年代的宝島的サブカルチャー的ライト感覚な村上春樹の読み方も、僕は決して悪くないと思う。

つまり「最後にチラッと光るキメ文章」に着目した村上春樹の読み方だ。

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僕はそれから二十年経った今でもときどき、この文句を頭の中で転がしてみる。大丈夫、埃さえ払えばまだ食べられる。(村上春樹「中国行きのスロウ・ボート」)

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我々は髪を切り、毎朝髭を剃った。我々はもう詩人でも革命家でもロックンローラーでもないのだ。(村上春樹「ニューヨーク炭鉱の悲劇」)

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なにしろ、もう28だものな……(村上春樹「ニューヨーク炭鉱の悲劇」)

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セックスについて話したいと思います。コン・コン・コン。ノックです。(村上春樹「カンガルー通信」)

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やれやれ。僕はほんとうにやれやれと思った。十四、五年前といえば、僕が芝生を刈っていたころじゃないか。(村上春樹「午後の最後の芝生」)

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そうじゃないか、と僕は声に出して言ってみた。返事はなかった。(村上春樹「午後の最後の芝生」)

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キメ言葉かどうかは置いておいても、当時の村上春樹の文章はオシャレだった。

まさしく、クールでドライな日本語。

1980年代には、村上春樹もどきのオシャレ文章が日本中で氾濫していたのだ。

そういう楽しみ方も、村上春樹にはあるということを、『宝島』の書評は思い出させてくれる。

トレンディな小説の、トレンディな楽しみ方。

個人的には、『宝島』に発表された人気作品「午後の最後の芝生」が一番のお気に入り。

本人不在の女子大生の部屋に入って、洋服だんすの洋服や下着を観察する場面は、女性の内面の奥深くまで潜入していく感じがして、ゾクゾクする。

それは、失恋した主人公が、自分の心の内面と向き合う意味もあって、村上文学の省察性を象徴する作品となっているのだが、当時の自分は、そこまで読み切れていなかっただろう(でも、感覚的におもしろかった)。

わたせせいぞうの『ハートカクテル』に「グリーンの軌跡」というエピソードがある(「モーニング・オールカラー・コミックブック」1巻に収録。VOL.4)。

別荘の芝刈りのアルバイトをしている若者が失恋をして、アルバイトを辞めるという物語だが、作者のわたせせいぞうは、村上春樹の「午後の最後の芝生」にインスパイアされて、この作品を書いたらしい。

わたせせいぞう、村上春樹ともに、現在では、1980年代のカルチャー・アイコンとなった。

それにしても、村上春樹の小説では、初期の作品からして、主人公の男の子が、恋人にフラれまくっている。

女性にフラれることによって(あるいは、妻が失踪することによって)、主人公の男性が自分自身と向き合うという構図は、もはや村上春樹の定番ストーリーと言っていい。

喪失感と自己再生。

村上春樹にとっての永遠のテーマは、『中国行きのスロウ・ボート』でも揺らぐことはなかった。

自分探しの好きな人には、絶対にお勧めだと思う。

あと、「羊男」と「羊博士」の対立を描いた「シドニーのグリーン・ストリート」は、純粋に読んで楽しい作品。

羊男をうらやむがために羊男を憎む羊博士の「願望憎悪」は、激しい学生運動を経験した団塊世代の心の叫びだったのかもしれない。

ハッピーエンドで終わる物語は、村上春樹の作品では珍しいけれど、爽やかな読後感も悪くない。

久しぶりに短編集を通読して感じたのは、僕は、やっぱり1980年代の村上春樹が好きだということ。

そして、初期の村上春樹は、今読んでも斬新で爽やかだ。

2024年に、この単行本が復刊された理由も、分かるような気がする。

最後に「ただし…帯の文はイヨーにダサイので読まない事」という書評の結びの言葉について。

手許に『中国行きのスロウ・ボート』の初版本があるから、帯を読んでみよう。

後になって、きっと僕たちはこんな風に思うだろう。1983年──あれは、ビヨン・ボルグがコートに別れを告げ、僕たちは三度目の夏をむかえた。そして、村上春樹の初めての短篇集──「中国行きのスロウ・ボート」が出版され、おかげで、僕たちは愛しあうことも忘れ夢中で読みふけった年だった。て……(村上春樹「中国行きのスロウ・ボート」帯文)

まあ、ダサいっちゃダサいかもしれない。

でも、当時は、こんな村上春樹モドキの文章は、あちこちに転がっていたような気がする。

なにしろ、中毒性症状を持って現れるのが、村上春樹の文学だったからね。

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