読書体験

阪田寛夫「どれみそら」会社員時代の庄野潤三

阪田寛夫「どれみそら」あらすじと感想と考察
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阪田寛夫『どれみそら』を読んでいたら、会社員時代の庄野潤三の話が出てきた。

若き日の庄野さんを知る貴重なエピソードなので、ここに書き留めておきたい。

朝日放送の上司が庄野潤三さんだった

卒業後は大阪へ帰って朝日放送に勤めたわけですが、ここに、のちに作家になられた庄野潤三さんが上司でおられたんですよね。しかも僕は庄野さんの隣の机でした。庄野さんとも不思議なご縁でしてね。僕は大阪の帝塚山学院の小学校に通ったのですが、その院長先生が庄野さんのお父さん。僕が入学したとき、庄野さんは六年生だったのです。こっちは庄野さんのことをよく覚えていました。(阪田寛夫「どれみそら」)

阪田さんが朝日放送に入社したのは、昭和26年9月のことだった。

昭和26年は民間放送が誕生した年で、9月の毎日放送を皮切りに、中日放送に続いて、11月に放送開始をしたのが朝日放送だった。

当時、阪田さんは25歳で、結婚するために就職しなければいけないという気持ちが強かったらしい。

9月27日に結婚、朝日放送に入社したのは9月30日だった。

童話劇をプロデュースしていた庄野さん

僕が入社した頃は体制が整っていない。それだけ自由でしたけど。部署は、今は制作部というけど、あの頃は「学芸課」といってました。学芸課長がいて、あとはみんなヒラ。九月末の入社当初は十五人だったでしょうか。(略)学芸課には音楽係、演芸係、教養係があり、僕は教養係。スタッフは初め三人です。キャプテンの庄野さんがいて、向かい側に松本克己さんという人がいて。(阪田寛夫『どれみそら』)

当時、平社員はすべて「プロデューサー」で、入社していきなり、予算を管理して、ディレクターをして編集をして、という時代だったという。

なにしろ、民間放送がスタートした瞬間だったからプロなんていなかった。

子ども用の英会話の番組を担当した阪田さんは、大阪のミッション・スクールの先生にお願いをして、マザー・グースなどを放送していたらしい(ちなみに、テーマ・ソングのピアノは自分で演奏した)。

同じころ、庄野さんは毎日15分連続の童話劇をプロデュースしていて、シナリオの発注から作曲者の選定などを行っていたという。

庄野さんの話というのが小説の話ばかりなんですよ(笑)

小説を書くのをあきらめて入社したつもりでした。ほんと、やめたつもりだったのですが、会社に庄野さんがおられて、庄野さんの話というのが小説の話ばかりなんですよ(笑)それにその課のメンバーが、みんな小説家志望か劇作の志望者だった。(阪田寛夫『どれみそら』)

大学時代、三浦朱門らと同人誌で活動していた阪田さんは、就職と同時に小説家になることをあきらめたつもりでいたらしい。

同人誌の誌名は「新思潮」で、大正時代には芥川龍之介や久米正雄、菊池寛などの「新思潮派」を輩出した雑誌の名前を復活させたものだった。

当時の「新思潮」からは、創設者である三浦朱門や阪田寛夫のほか、有吉佐和子や梶山季之などが作家として独立している。

小説をあきらめて入社した会社で庄野潤三と出会うというところが、作家としての宿命というものなのだろうか。

庄野さんは、小説を面白く語ってくれるんです。

庄野さんは、小説を面白く語ってくれるんです。たとえば「巡回牧師」という小説で、牧師さんが女の子のおしりを撫でながら説教したとか(笑)。ガーネットの「狐になった奥様」なんてのも、狐になった奥様が思わず横目で、鳥カゴの方を見てしまうくだりを、身振り手振りでやってくれるんです(笑)。聞いているわれわれが小説が好きになるような話し方で、実際の作品を読むより面白いくらい。(阪田寛夫『どれみそら』)

庄野さんの『ピアノの音』にも、ガーネットの「狐になった奥様」の話が出てくる。

私が大阪で放送会社に勤めていたころ、文学好きの同僚に『狐になった奥さま』の話をしたことがある。そのとき、この夫の朗読と鳥かごの鳥に注がれる妻の視線のことを身ぶりを入れて、つまり、夫と狐になった奥さまの一人二役を演じて、話して聞かせたのを覚えている。自分の朗読をよろこんで(以前のように)聞き入っているとばかり思っていた妻が、鳥かごの鳥を横目で見ているのに気附く場面である。(庄野潤三『ピアノの音』)

「久しぶりに『狐になった奥さま』を読みたい」と言った妻の話から、会社員時代のエピソードを思い出す場面だった。

庄野さんはその頃、毎年芥川賞候補になってました。

庄野さんはその頃、毎年芥川賞候補になってました。受賞したのは東京支社へ転勤してからで、昭和29年かな。当時、30歳そこそこでしたが、明日から社長になれと言われたら、そのままつとまるような人でした。でも、庄野さんは小説を書きたい人ですから、受賞後一年ぐらいで退社しました。(略)庄野さんと会社で一緒だったのは二年間ですが、大きな影響を受けた二年間でした。(阪田寛夫『どれみそら』)

庄野潤三は、昭和28年上期に「恋文」「喪服」で、同年下期に「流木」で、さらに翌29年上期に「黒い牧師」「桃李」「団欒」で3期連続で芥川賞候補となった後、同29年下期、”4度目の正直”と言うべきか、「プールサイド小景」で芥川賞を受賞している。

芥川賞受賞も「プールサイド小景」一作品による受賞ではなく、過去の候補作を含めた功労に対する受賞という扱いだったらしい。

当時の庄野さんの作品のレベルが、一貫して高かったことを示すエピソードではないだろうか。

ちなみに、村上春樹が芥川賞候補になったのは、昭和54年上期「風の歌を聴け」と、昭和55年上期の「1973年のピンボール」の2回で、庄野さんに比べると、「万年候補」でもなんでもなかったことが分かる。

会社をやめる時は、まず庄野さんに相談したんです。

(会社を)やめる時は、まず庄野さんに相談したんです。そしたら速達がきました。厚い速達がきてね、「何を見当違いなことを(笑)。そういう考えはやめなさい。ただちにひっこめなさい」っていう、豪速球が返ってきたんです、受けとめたら手がシビレルような(笑)(阪田寛夫『どれみそら』)

同じく、民間企業を退社して、小説家一本で家族を養っていく決断をした庄野さんは、最初、かなり苦労したらしい。

自分と同じ道を歩もうとしている後輩を思い止まらせようとしたことは、十分に理解できる。

阪田さんは一年後に再び庄野さんに独立を相談するが、再び「やめることをやめなさい」という回答が速達で返ってきた。

ただし、この頃には、阪田さんにも童謡の仕事が入ったりしていたので、最後は、庄野さんを説得する形で、阪田さんも朝日放送を退社して、作家の道を歩み始める。

朝日放送に入社してから、12年の時が流れていた。

ちなみに、阪田さんが庄野さんと同じ芥川賞を受賞するのは、昭和50年のことである(「土の器」で受賞)。

書名:どれみそら 書いて創って歌って聴いて
著者:阪田寛夫
発行:1995/1/20
出版社:河出書房新社

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。