庄野潤三は「何気ない日常生活を描く」作家だと言われる。
「何気ない日常生活」というのは、殺人事件が起きたり、妻が突然失踪したり、死んで転生したりといった、そういう突飛なことが起きない日常であるばかりか、多くの場合、恋したり、失恋したり、離婚したり、パワハラで悩んだり、転職しようかどうしようか悩んだりといった、そういう難しい問題も発生しない。
つまり、どうということのない家庭の、どうということのない日常生活を、ごく淡々と当り前のように綴っていくのが、庄野潤三の小説なのである。
なぜ、それを書かなければならなかったのか?
例えば、本短編集に収録されている「休みのあくる日」「雨傘」「鷹のあし」は、電車の中でふと聞えてきた近くの乗客同士の会話を題材にしたものだが、その会話は奇天烈なものではなくて、普通であれば聞き逃していても不思議ではないような、他愛もない会話である。
「あたし、前にね、駅のフォームで電車を待っている時、倒れたの。会社へ行く前よ。蒸し暑い時だったけど。倒れてもじっとしておいてくれれば、いい気持なのに。ねえ、平気? あたしにしっかりつまかって、なあんて」(雨傘)
あるいは、この仲間同士のささやかな思いやりの言葉に、庄野さんは何かを感じたのだろうか。
庄野さんだったら、そういうことがありそうな気もするけれど、庄野さんの小説はそこまで雄弁ではない。
「なぜ、それを書かなければならなかったのか?」ということまで、庄野さんの作品は教えてくれないのだ。
ネタの宝庫だったアメリカ留学生活
キニーと私が車で出かけたあと、リンダは何遍もビビイの家へ電話をかけた。しかし、誰も出て来なかった。約束の六時四十五分から既に三十分以上たっていた。リンダは苦しそうに息をしながら、お祈りをした。次に泣き出した。(「花」)
本短編集には、庄野夫妻がアメリカオハイオ州ガンビアで生活した時のことを題材にした作品も含まれている。
「花」と「話し方研究会」がそれで、遠いアメリカの非日常的な物語のような感じもするが、一年間アメリカで生活していた時代の庄野さんにとっては、これも何気ない日常生活の一コマだろう。
「ガンビア滞在記」や「シェリー酒と楓の葉」を読んだ人には懐かしく感じられるガンビアものだ。
親友のビビイが交通事故に遭ったのではないかと心配するリンダのエピソードは、「ガンビア滞在記」にも登場していなかったような気がする。
何気ない日常を題材にした小説を得意とする庄野潤三にとって、ガンビアでの生活は小説のネタの宝庫のようなものだったのではないだろうか。
どんな人生にもドラマがあって、その主人公は自分自身である
「兄なんか好きだったんじゃないかな」雨は、もう小ぶりになっていた。降っていることは降っているが、大したことはない。傘をさしたままで、彼は片方ではブラスバンドの曲をきき、片方でプールにいる、四人きりのさびしい練習をみていた。「もういいか」いつまでも立ちどまっているわけにはゆかない。自分で問いかけて、よし、もういいと返事をすると、彼は歩き始めた。(宝石のひと粒)
「宝石のひと粒」は、庄野潤三が最も得意とする、庄野一族を題材とした短編小説である。
雨の中、散歩に出かけた主人公は、中学校のプールで練習している子どもたちや、木造校舎から聞こえてくるブラスバンドの練習を聴きながら、とうに亡くなった兄のことを思い出す。
様々によみがえる兄の記憶を振り切るように「いつまでも立ちどまっているわけにはゆかない」と自分に言い聞かせてから、また歩き始めるところは、この小さな作品が名作としての可能性を秘めていることを思わせずにはいられない。
考えてみると、我々の人生のほとんど大部分は「何気ない日常生活」であって、その何気ない日常生活の中で、我々はそれぞれの人生というドラマの主人公を演じているわけだ。
どんな人生にもドラマがあって、その主人公は自分自身であるということを、庄野潤三の小説は、何気に指し示してくれているらしい。
書名:庄野潤三
著者:休みのあくる日
発行:1975/2/10
出版社:新潮社