2009年、鈴木しづ子という一人の女性に注目が集まった。
鈴木しづ子は、戦後の一時期に活躍して一瞬で姿を消した、謎多き伝説の女流俳人である。
しづ子が伝説の俳人となったのは、活躍時期が非常に短かったということ以上に、彼女が占領軍相手のダンサーであり、黒人兵と恋に落ちたという、その激しい生き様と、「夏みかん酸っぱしいまさら純潔など」の句などに象徴される、性的な主題を含む一連の作品群が強烈な印象を放っていたからである。
2009年は、鈴木しづ子生誕90年の年であり、存命していれば90歳となっているはずの、この女流俳人に対する再評価の機運が急激に盛り上がった。
本書「鈴木しづ子 伝説の女性俳人を追って」は、そのような鈴木しづ子ブームをけん引する上で、ひとつの大きな役割を果たしたムック本である。
もっとも、敗戦直後の昭和20年代の一時期に活躍しただけの、現代ではほぼ無名と言ってもいい、この女流俳人について、今さら何か新しい情報が発掘されるということはほとんど現実的ではない話だっただろう。
本書は、鈴木しづ子について寄せられた識者のエッセイと作品論がほとんどを占め、彼女の生涯を研究するノンフィクションライターのルポタージュと句集未収録作品が、そのわきを固めているといった構成である。
新たな情報はないとしても、そもそも鈴木しづ子について体系的に整理された書籍は他にないことから、これから鈴木しづ子を読みたいと考えている読者にとって、本書が貴重な資料となることは間違いない。
夏みかん酸っぱしいまさら純潔など
娼婦またよきか熟れたる柿食うぶ
夏みかん酸っぱしいまさら純潔など
鈴木しづ子は敗戦直後の十年間に、句集二冊を出して消えた。注目を集めたのは第二句集『指環』(昭和27年1月刊)だったが、その注目の渦のなかで、行方不明が囁かれるようになり、やがてその作品も見られなくなる。鈴木は私と同年で大正8年(1919年)の生れ。(金子兜太「鈴木しづ子の俳句」)
鈴木しづ子の再評価時代が到来する前、彼女の作品は図書館にでも行かなければ読めないものだった。
しづ子の作品集は「春雷」(昭和21年)と「指環」(昭和27年)の2冊だけであり、他には、戦後の俳句雑誌に掲載された、ごく僅かな彼女に関する回想録くらいの資料しか残されていない。
だから、鈴木しづ子についての知識が簡単に入手できるという意味において、本書刊行の意義は大きなものがあったが、識者の中にしづ子を記憶する者はなく、収録されたエッセイに表面的なものが多かったとしても、それはやむを得ないことだったと言うべきだろう。
それは、俳人・鈴木しづ子への違和感ではない。彼女を語る「言葉」への違和感だ。何か、一言で言うとキモいのだ。鈴木しづ子を語る男たちの口ぶりが。そこには「美貌の才女」で「娼婦」で「行方不明」になった鈴木しづ子をことさらに「伝説」に仕立て上げようとする 欲望が匂い立っていた。何か、俳句がどうこう以前に、彼女を語る多くの男性が、彼女の存在自身に欲情しているかのようなのだ。で、「欲情しているオッサン」というのは、申し訳ないがこの世でもっとも私が目にしたくないもので、しかし、彼女の資料に目を通せば、それらのオンパレードなのだからうんざりしてしまった。(雨宮処凛「もっとも大きな不幸」)
エッセイの中で面白かったのは、雨宮処凛の「もっとも大きな不幸」で、鈴木しづ子をまったく知らない彼女は、用意された資料を読んで感じた激しい嫌悪感を隠そうとしない。
多くの男性読者が、占領軍相手のダンサーとなり、恋に落ちた黒人兵を亡くし、結婚後は不倫の恋に流され、やがて行方知れずとなったというしづ子の性的な魅力と官能的な作品群に魅了されている以上、こうした反発は避けがたいものだ。
それは、もちろんエロティシズム漂う耽美的な一連の作品群が引き起こす必然的な作用ではあったが、彼女の性的な魅力が純粋な作品鑑賞の障害になっている可能性は否定できない。
鈴木しづ子は、その作品群よりも彼女自身の生き様にスポットライトが当たりがちだという意味において、不幸な俳人だった。
これは事実であり、しづ子の作品群を語る上での本質的な問題なのだ。
好きなものは玻璃薔薇雨駅指春雷
いつかの夜更け浦和の家の表戸を叩く者があった。十二時近くだった。私ら家の者は寝ていた。来たのはしづ子だった。家の中で用件をきいてみると、雑誌に発表してある自分の句を雑誌発送前に全部墨で抹消してくれという。(松村巨湫「慎ましい野生」)
本書で貴重なのは、むしろ、古い俳句雑誌に掲載された鈴木しづ子関連の評伝ではなかっただろうか。
引用の松村巨湫は、昭和26年の「樹海」に掲載されたもので、しづ子の作品と最も多く接してきた師の視点から、鈴木しづ子という一人の若き俳人について、淡々と綴っている。
結局、しづ子は師匠の説得に納得したらしく、この回想を巨湫は「翌朝はけろりとし「左様なら」と右手を高く挙げながら躑躅の植込みを喜々として帰ってゆくのだった。しづ子とはそんな女の子である」という文章で締めくくっている。
「しづ子とはそんな女の子である」の一文は、鈴木しづ子という「伝説の俳人」が伝説になる前の姿を見ているようで、何ということもなく安堵感を覚える表現だ。
そして、こういう回想を読んでいると、我々は鈴木しづ子という俳人の作品と、もっと虚心坦懐の気持ちを持って接しなければいけないと思うに至る。
そろそろ余計な詮索の態度を改めて、「好きなものは玻璃薔薇雨駅指春雷」のように美しくて純粋な作品の中に、鈴木しづ子を論じても良い時期なのではないだろうか。
鈴木しづ子という女性が、結局のところ、追いかけても追いかけきれない、そんな女性なのだとしたら。
書名:鈴木しづ子 伝説の女性俳人を追って
発行:2009/8/20
出版社:河出書房新社