村上春樹『1Q84 BOOK2』読了。
読後直後の感想としては「すっきりしない」というものだ。
なにより、いろいろな物事のカタが付かないままで、物語は終わってしまっている。
読者の中に、不気味な消化不良を残したままで、小説は語ることを止めてしまっている。
宙に向けて放り投げられたボールが、落下してくる途中でふっと停止してしまったみたいに。
しようがない。
中途半端な状態で終わることが、この物語には必要だったのだ(少なくともBOOK2としては)。
『1Q84 BOOK2』あらすじ
女性の敵である男たちを許すことのできない青豆は、カルト教団「さきがけ」のリーダーを始末する役割を担うことになる。
青豆がリーダーと対峙する場面は、間違いなく、この物語の核心部分だが、観念的な会話が中心で、宗教(あるいは哲学でもいい)の解説でも聴かされているような気持ちになる。
宗教学が好きな人には、うれしい場面だろう。
一方の天吾は、再会したふかえりから、リトル・ピープルや空気さなぎの持つ秘密を明かされると同時に、マザやドウタ、パシヴァやレシヴァといった、新たなメタファーを与えられることになる。
天吾とふかえりのエピソードは、情緒的で文学的な物語として綴られているが、カルト教団が重要なファクターとなっている以上、宗教観の理解なく読み進めていくことはできない(そして、この宗教観こそが、この物語の持つ最も大きなテーマなのだ)。
青豆と天吾は、<奇跡の再会>に向かって慎重に物語を進めていくが、現実世界において、<奇跡の再会>というのは、決して簡単なものではない。
それが、もちろん、小説の中の話であったとしても。
全体に救いがないように見えるかもしれないが、ラストシーンで、天吾が青豆のドウタと対面する場面は、未来への明るい希望を暗示させているような気がした。
『1Q84 BOOK2』解説
パラレルワールドに迷い込んだ青豆と天吾の物語は、BOOK2に入ってファンタジー的な要素を大きく展開していく。
死んだ山羊の口の中から<リトル・ピープル>が出現したり、リトル・ピープルが<空気さなぎ>を紡いだり、空気さなぎの中から<ドウタ>が現れたり。
話はかなり荒唐無稽だが、この物語がカルト教団の社会的な成立過程を描いているものだと考えると、それぞれの言葉は、何らかのメタファーであると考えることができる。
大切なことは、世の中を支配しているもの、それは一部の絶対的な権力者ではなく、複数のリトル・ピープルだということだ。
カルト教団の頂点に位置する<リーダー>は、リトル・ピープルに操られていて、多くの人間は、リトル・ピープルの姿を見ることはできないし、その存在にさえ気づかない。
著者は、人間社会に生じる闇の原因を、見えないリトル・ピープルという複数の不明確な存在に求めた。
つまり、リトル・ピープルは、いつでも、どこでも、もしかすると我々の周りに存在しているかもしれないものだ、ということである。
かつて、村上春樹は『羊をめぐる冒険』で、<羊つき>になった権力者(先生)の話を書いたが、<リトル・ピープル>に支配されるリーダーの姿は、どこか羊に憑かれた先生のことを思い出させる。
1984年も、1Q84年も、原理的には同じ成り立ちのものだ。君が世界を信じなければ、またそこに愛がなければ、すべてはまがい物に過ぎない。どちらの世界にあっても、どのような世界にあっても、仮説と事実とを隔てる線はおおかたの場合目には映らない。その線は心の目で見るしかない。(村上春樹『1Q84 BOOK2』)
作品中で<1Q84年>は<1984年>のパラレル・ワールドとして出発しているが、実際的に<1Q84年>は、もうひとつの<1984年>である。
つまり、ひとつのポイントが変われば、歴史は大きく変化していくということだ。
<月がふたつある世界>は、もうひとつの1984年(1Q84年)を、分かりやすく可視化したものに過ぎない。
現実的に、我々の世界は、いつでも歴史の分岐点に立ち続けているからだ。
パラレル・ワールドの問題を整理してしまうと、残るのは、やはりリトル・ピープルである。
物語は終わったけれど、リトル・ピープルはいつまでも生き続けていく。
BOOK2の中途半端な幕切れは、我々に、そんなメッセージを与えているような気がした。
『1Q84 BOOK2』読書感想
『羊をめぐる冒険』の中で、<羊>から逃れようとした<鼠>が、こんな言葉をつぶやいている。
「俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさや辛さも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。君と飲むビールや……」鼠はそこで言葉を呑み込んだ。「わからないよ」(村上春樹『羊をめぐる冒険』)
『羊をめぐる冒険』は、<羊>という見えない存在に支配されていく権力者たちの姿を描いた物語だが、羊に憑りつかれた鼠は、羊を抱えたまま死んでいくことを決意する。
「俺は俺の弱さが好きなんだよ」という言葉は、人間という存在の弱さを認めていることで、多くの読者の共感を得る名言となった。
『羊をめぐる冒険』を支えている、象徴的なフレーズのひとつである。
一方で、今回の『1Q84』では、そのように情緒的なフレーズは登場しない。
観念的なアイテムや、観念的な解説や、観点的なキャラクターが登場するだけだ。
それが『1Q84』という小説である。
壮大な舞台設定は楽しいし、先を見通せないストーリー展開は、胸をワクワクさせる。
問題は、そこから何を読み取るかという作業が、読者に委ねられているということだろう。
壮大な物語の収拾は、明らかに付いていないし、回収しきれていない負債が、あちこちに残されたままだ。
そして、そのことは、作中でふかえりが書いた『空気さなぎ』の書評という形で、著者自身が指摘していることでもある。
空気さなぎとは何か、リトル・ピープルとは何かということになると、我々は最後までミステリアスな疑問符のプールの中に取り残されたままになる。あるいはそれこそが著者の意図したことなのかもしれないが、そのような姿勢を(作家の怠慢)と受け取る読者は決して少なくはないはずだ。(村上春樹『1Q84 BOOK2』)
まるで『1Q84』に対する書評をあらかじめ予言するように、著者は、あえて『空気さなぎ』に対する書評という形で織り込んでいる。
『1Q84』は、代表作になる資格を持った小説だと思う。
『羊をめぐる冒険』のように、愛される小説になるかどうかは、ともかくとして。
書名:1Q84 BOOK2
著者:村上春樹
発行:2009/5/30
出版社:新潮社