文学鑑賞

福原麟太郎「野方閑居の記」昭和を代表する名エッセイストの自選随想集

福原麟太郎「野方閑居の記」昭和を代表する名エッセイストの自選随想集

福原麟太郎「野方閑居の記」読了。

庄野潤三の作品を読むようになって覚えたことのひとつに、「福原麟太郎の随筆を読むこと」というのがある。

福原麟太郎自選随想集「野方閑居の記」は、その庄野さんが栞文を寄せている、福原さんのエッセイ選集だ。

多くの随筆集を書いた福原さんの作品群の中から、いろいろなジャンルのものがバランスよく収録されている。

表題作「野方閑居の記」は「ある日曜日」から「ある土曜日」まで続く身辺雑記だが、その中に、庄野さんの「ガンビア滞在記」の話が出てくる。

それは、夕方に届いた「英語青年」に、成田成寿氏がオハイオ州ガンビアにあるヂョン・クロウ・ランソムの家を訪問したときの記事が掲載されているが、ランソム氏は、庄野さんの「ガンビア滞在記」に登場する、ケニヨン大学の文学教授である、というような話だった。

ついでに、同じく今日届いたばかりの「新潮」には、ガンビアの農民のことを書いた庄野さんの小説「二つの家族」が掲載されていて、福原さんは不思議な気持ちになったらしい。

「二つの家族」について、目次の謳い文句には「明と暗の正反対な二家族への人間的共感。滞米中の思い出を駆使して描く人生の機微」とあったそうだ。

福原さんは、庄野さんの「ガンビア滞在記」から引用して、ガンビアの地理を詳細に紹介している。

何と言っても『ガンビア滞在記』は名作である。ギャスケル夫人の『クランフォード(女ばかりの町)』に比すべきものである。『滞在記』をたたえたいくつかの文章が、おそらく見逃しているらしいことを、ここに一つつけ加える。それは、おそらく、ありのままの庄野氏の滞在記であろうこの小説のその一年の物語に、ちゃんと季節が織り込んであって、春夏秋冬とりどりの自然が、さりげなく書き入れてあることである。これは実に精妙と言わなければならない。(福原麟太郎「野方閑居の記」)

その庄野さんが「名エッセイ」と絶賛した「治水」も収録されている。

朝寝をして起きて見ると、雨が降っている。

おや雨かい、と言って窓の外を見ると、春の雨とは言いながら、かなりひどく降っていて、庭にはだいぶ水たまりができている。

これはどうかしないといけない。

ひげをそって、遅い朝飯を食べて、庭下駄のままで外へ出てみると、門内は満々たる洪水となっている。

福原さんは「水は低きにつく」という諺を思い浮べながら、小さな庭に水路を作って、水溜まりの水を流す。

流れてゆく水を見ているうちに、福原さんの胸には、志那や日本の多くの治水土木家のことが去来してきた。

そして、有名な治水土木家と言えば誰であったろうと、昔習った東洋史や日本史を振り返ってみるのだけれど、一つも名前が浮かんでこない。

少年の頃に読んだ偉人伝の中にも一人くらいはいたように思うが、やっぱり名前は分からない。

しからば、自分自身も、その治水工事に成功した者の一人には違いないだろう。

妙な満足感を持って、福原さんは濡れた羽織を脱ぐのである。

日常の些細な出来事の中に、ささやかなドラマを見出す福原さんのエッセイが、庄野さんは本当に好きだったのだろう。

福原麟太郎も絶賛した森田たまのエッセイ

本書を読んでいて、森田たまの名前が何度か出てきた。

森田たまについて、福原さんは素晴らしいエッセイストだと絶賛している。

もしやと思って、書棚にある追悼文集「わたしの森田たま」を開いてみると、ちゃんと福原さんのエッセイも収録されているのでびっくりした。

今まで自分の中では、森田たまと福原麟太郎という二人の著名な随筆家が、まったく結びついてはいなかったのだ。

二人は同い年だから、まったく同時代に活躍した名随筆家である。

今さらながら、新しい発見をひとつしたような気がした。

書名:野方閑居の記(福原麟太郎自選随想集)
著者:福原麟太郎
発行:1988/2/20
出版社:沖積舎

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。