音楽

映画「マイ・フーリッシュ・ハート」チェット・ベイカーのクズな人生とは

こんにちは。「GENTLE LAND」管理人の栗好きマロンです。

ジャズミュージシャン、チェット・ベイカーの最期を描いたという映画「マイ・フーリッシュ・ハート」の公開が近づいてきました(11月8日)。

これまでも「ブルーに生まれついて」(2015年)などの映画で知られるチェット・ベイカーですが、実施はどのような人生を送ってきた人なんでしょうか。

ジェイムズ・ギャビンの「終わりなき闇 チェット・ベイカーのすべて」(河出書房新社、2006年、訳:鈴木 玲子)という本の中でチェット・ベイカーの生き様が克明に描かれているので、今回はこの本の中から重要と思われるエピソードをご紹介していきます。

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一言で言うと、ジャズとセックスとドラッグがすべてというクズ人間の物語

栗好きマロン
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想像以上にクズ男です(汗)

幼少時代

チェット誕生

1929年12月、オクラホマの小さな家でチェット・ベイカーは生まれた。父親のチェズニーは音楽家を目指していたが、大恐慌と子どもの誕生を契機に音楽をやめた。母親のベラは自分そっくりの息子を溺愛し、赤ん坊時代の息子の写真をまとめ、「The Dear Beby」と題した写真集を作ったという。

タレントショー

12歳のとき、チェットは母親に連れられてタレントショーに出演している。彼は中性的な声で大人っぽいラブソングを披露した。母親は息子の歌を褒め称えたが、同世代の子どもたちからは「女の子みたいな歌い方だ」とからかわれた。

トロンボーン

父親は「かわいい顔をした」息子が、女の子のような声で歌うことを喜ばなかった。そこで彼は息子を男らしく育てようとトロンボーンを買い与えた。しかし、トロンボーンはチェットの体にはあまりに大きすぎる代物だった。

トランペット

やむなく父は、トロンボーンをトランペットと交換してきた。そして、無言で息子の前にポンと置いた。言葉をかけるでもなく、直接手渡すわけでもなく。

欠けた前歯

ある日、近所の子どもの投げた石が、意図せずチェットの口に当たった。そして、チェットの左の前歯が折れてしまった。やがて、前歯の欠けた口で吹くトランペットは、チェットのテクニックの一部となった。

モナリザの微笑み

欠けた前歯を隠そうとして、チェットはなるべく唇を開かないようにした。そのため、彼の微笑みはモナリザのように神秘的だと受け止められた。そうして彼は人気者になっていった。

読めない楽譜

中学校時代、チェットは楽器に関するどんな基礎トレーニングもすぐにマスターしてしまった。そして、どんな曲でも一度か二度聴いただけで覚えることができた。彼に楽譜は不要であり、そのため彼はいつまで経っても楽譜を読むことができなかった。

初めてのセックス

15歳のとき、チェットは初めてのセックスを経験した。相手の15歳の少女は処女ではなく、兄弟が見ている前でチェットは童貞を失った。わずか数秒で絶頂を迎えた彼は、兄弟の失笑を買った。

ガソリン泥棒

16歳のとき、チェットは自動車の運転に夢中になった。他人の自動車からガソリンを盗む技術も上達した。もっとも、このときチェットは、まだ運転免許証を持っていなかったが。

志願兵

1946年、17歳のとき、チェットは志願兵として軍隊に入隊した。第二次世界大戦が終わった直後のことだった。学校の成績が良くなかったチェットは、ベルリンで事務員として配属された。

軍楽隊

ベルリンでチェットは軍楽隊に入隊した。けれども、その練習はチェットにとってあまりにも簡単なものだった。一度聴いた曲を彼は、二度目のときにほぼ完璧に演奏することができたのだ。

チェッティー

軍隊時代のチェットは、田舎っぽくて純朴な少年だと思われていた。煙草も酒もやらず、甲高い声で話す様子はいかにも野暮ったかった。17歳の彼は、時に12歳に見えたため「チェッティー」とかわいらしい愛称で呼ばれていた。

GI相手の売春婦

1947年の夏、チェットは22歳のブロンド美人と親密な関係になった。しかし、彼女はGI相手の売春婦で、結婚相手を相手を探している悲しい女性だった。やがて、彼女はチェットのGI仲間と結婚し、チェットはひどく傷付くこととなった。

美少年

1948年、チェットは帰国し、高校生となった。チェットは男友達からも「美少年」とからかわれるくらいの美貌を持っていた。そのたびに彼は気が狂ったかと思われるほど激怒して、暴力でカタを付けようとした。

ジャズとの出会い

ビバップ

同じ年、チェットは授業料無料の短期大学に入学した。短大生になった彼は、デイジー・ガレスピーやドン・バイアスなど最新のビバップに夢中になった。翌年、チェットは仲間の家で、自分たちの演奏を録音したレコード盤を作成している。

ジミー・ロウルズ

若きチェットは、ジミー・ロウルズの自宅を訪ねた。ロウルズはチェットを仲間たちのジャム・セッションに連れていった。チェットの攻撃的なトランペットは、どこに行っても人目を引くものだった。

マリファナ漬け

アンディ・ランバートと親しくなったとき、チェットはマリファナの魅力を知った。ジャズ仲間たちの中で、つまらない堅物だと思われたくはなかったのだ。そしてチェットはたちまちマリファナ漬けとなった。

ウエスト・コースト・ジャズ

その頃、ロサンゼルスの「ショータイム」ではウエスト・コースト・ジャズのジャム・セッションが行われていた。毎週月曜日、チェットも「ショータイム」で演奏するようになった。彼はいつもうつむきながらトランペットを吹いていたらしい

妊娠と中絶

メキシコ料理店で知り合った女の子を、チェットは妊娠させた。彼女を自宅に連れていくと、すぐに母親が中絶医を見つけてきた。そして手術が終わった後、彼は彼女と別れなければならなかった。

ボブ・ホワイトロック

1949年、チェットはボブ・ホワイトロックと一緒に暮らし始めた。音楽を愛する仲間たちが集まり、彼らはジャム・セッションばかりをして暮らした。もちろんチェットも音楽とマリファナとヘロインに溺れて暮らした

ウサギのセックス

チェットのセックスはウサギのようにせわしなかった。友人が暗闇の中でセックスをしているところに割り込んでも、女の子は気付かなかったという。チェットのセックスは、それほどすぐに終わってしまったからだ。

美人でゴージャスな恋人

チェットにとって「美人でゴージャスな恋人」は大切な存在だった。それが彼にとっての世界で一番カッコいいジャズ・ミュージシャンのイメージだったからだ。そして彼は、シャーレインという名前の、セックス好きの美人でゴージャスな恋人を手に入れた。

2度目の入隊

1950年、21歳のチェットはマリファナの不法所持で逮捕された。そして、軍隊に入るか牢獄に入るかの選択を迫られ、軍隊に舞い戻った。朝鮮動乱の時代だった。

永別ラッパ

チェットはサンフランシスコの基地で軍楽隊に配属された。彼は起床ラッパを吹き、マリファナでハイになり、戦死した仲間のために永別ラッパを吹いた。若い兵士たちはみな朝鮮半島に送り込まれる日を、怯えながら待ち続けていたのだけれど。

初めての結婚

この年、チェットはシャーレインと結婚をした。しかし、新婚生活は決して二人の暮らしを幸せなものにはしなかった。お互いの根底にあったのは愛情ではなく、互いの征服感にすぎなかったからだ。

デイブ・ブルーベック

1951年、チェットはデイブ・ブルーベックのバンドに、時折飛び入りで参加をしている。チェットはアルト・サックスのポール・デスモンドの演奏に惹かれていたのだ。もっとも、ブルーベックはチェットの参加を、必ずしも歓迎していたわけではなかったらしい。

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メキシコ国境

この年、チェットはメキシコ国境の近くにある基地へ飛ばされた。彼は精神不安定を理由に除隊を希望したが、うまくいかなかった。それどころか、反抗的な兵士が入れられる塀の中に放り込まれ、屈辱的な体罰に耐えなければならなくなった。

神経衰弱

1952年、神経衰弱を理由にチェットは軍から除隊処分を受けた。神経衰弱が本物だったのか芝居だったのか、真偽は不明である。ともかくチェットは南カリフォルニアで妻と暮らし始めた。

デキシーランドジャズ

この頃、チェットは深刻な生活苦に直面していた。金に困ったあげく、時代遅れなデキシーランドジャズのショーにも参加した。もっとも、あまりのバカバカしさに、すぐに脱退してしまっているが。

スター誕生

チャーリー・パーカー

1952年の春、チャーリー・パーカーがカリフォルニアにやってきた。このとき自分はパーカーによって見出されたのだと、チェットは自分で伝説を創り上げている。ハリウッドの「ティファニークラブ」のオーディションで、彼がパーカーから指名を受けたのだという伝説を。

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作り話の天才

チェットには自分で伝説を生みだす習性があった。それらの伝説は多くの場合彼を美化し、彼の行為を正当化するものだった。彼の話す伝説はインタビューの都度、形を変え、内容を変えていった。

デイビス気取りの白人

1952年5月29日、チェットは初めてパーカーのギグで演奏をした。彼は顔もホーンも下に向けたまま、音程を間違わないように苦労しながら演奏した。観客はチェットをマイルス・デイビス気取りの白人だとブーイングを飛ばした。

麻薬の売人

この頃既にチェットは麻薬なしで演奏することはできないジャンキーだった。なにしろ、ジャズミュージシャンの周りには常に麻薬の売人が群がっている時代だった。パーカーの「こいつらにはかかわるな」という短い忠告は役に立たなかった。

ウィリアム・クラストン

ウィリアム・クラストンの撮る写真は、1950年代におけるチェット・ベイカーのイメージを完成させた。チェットはビジュアル的にも非常に優れたジャズミュージシャンだった。カメタの前に立つ彼は映画スターのようだったと、クラストンは述懐している。

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ジェリー・マリガン

ある日、チェットはジェリー・マリガンのオーディションを受けた。ウォームアップの段階で、マリガンはチェットの振る舞いに激怒した。マリガンに怒鳴られたチェットは捨て台詞を残してさっさと帰ってしまった。

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異常な才能

パーカーと共演していたチェットをマリガンは結局採用することになる。人間的な印象は最悪だったが、音楽の相性は最高だとマリガンは感じていた。マリガンはチェットの持つ「異常な才能」に魅せられてしまったのだ。

マイ・ファニー・バレンタイン

1952年、マリガンとチェットのバンドは、ブルーベックのレーベル「ファンタジー」でレコーディングをする。このとき、マリガンが一曲の古いバラードを選曲リストに入れた。当時3人しか録音していない曲「マイ・ファニー・バレンタイン」だった。

栗好きマロン
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これがチェットベイカーの代表曲です

麻薬の不法所持

マリガンのグループは地元サンフランシスコで大人気のバンドとなった。チェットがライブで「マイ・ファニー・バレンタイン」を演奏しない夜はなかった。この年の終わり、チェットは麻薬の不法所持で逮捕された。

タイム誌

1953年、マリガンと仲間たちはタイム誌で紹介された。彼らのライブにはますます多くの客が集まるようになった。マリリン・モンローやジェーン・ラッセル、ロバート・ミッチャムなどといった有名人たちも含めて。

カーセックス

人気者となったチェットは女性と仲良くなることに心血を注いだ。妻のシャーレインが来ているというときも、ライブの休憩中には気に入った女の子とカーセックスをした。彼は目に入った女性と「片っぱしから」やりまくっていた。

愛人ジョイス

日替わりで女の子を楽しむ一方で、チェットは一人の女性と親密な関係になった。彼女はジョイスという名前で、彼女も既婚者であった。二人はステージの合間の休憩に、チェットの自動車の中で愛し合った。

ジョイスと彼の夫

ある夜のライブ後、チェットはジョイスと彼の夫と一緒に自動車で帰った。自動車を運転したのは彼らの友人で、3人は並んで後部座席に座っていた。チェットは夫の存在を無視するかのごとく、ジョイスと抱き合いながらキスをした

ベイカー夫妻、麻薬で逮捕

1953年4月、マリガン夫妻とベイカー夫妻が麻薬で逮捕された。既に有名人だった彼らの逮捕は大きなニュースとなった。彼らは音楽だけではなくスキャンダルでも有名なミュージシャンとなった。

船を買いたい

この頃、雑誌のインタビューでチェットは次のように語っている。あと2年のうちにトランペットはやめたい。そして自分の船を買って航海しながら作曲したり小説を書いたりして暮らすんだ

ラス・フリーマン

知り合ったばかりのラス・フリーマンと、ベイカー夫妻は共同で家を借りた。最低の所持品だけで彼らは暮らした。音楽とマリファナがあれば、彼らは満足だったのだ。

バンドリーダー

1953年、ディック・ボックチェットがリーダーのバンドでレコードを作った。神経質で経験不足のリーダーの影響で、レコーディングは最悪のものだった。ボックはいくつものテイクをつなぎ合わせてレコードを完成させた。

スタン・ゲッツ

自分のバンドを持ったチェットは、人気者のスタン・ゲッツと共演をした。二人はともにジャンキーで、互いの演奏をどうにかして出し抜こうと努めた。バンドがうまくいくはずもなく、予定よりも短い期間で解散をした。

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老いぼれジャンキー

チャーリー・パーカーはチェットの才能を誰よりも慈しんでいた。それに対してチェットはパーカーをただの老いぼれジャンキーだと信じ込んでいた。誰に対しても、パーカーはろくでなしの年寄りだと言いふらして歩いたのだ。

読者人気投票で1位

1953年のダウンビート誌の読者人気投票で、チェットはトランペット部門の1位を獲得した。ルイ・アームストロングやデイビス、ガレスピーを抑えて。今や彼は紛れもないスターだった。

ストリングス

スターになったチェットはストリングスを加えたレコードを録音した。その頃、ストリングスを加えたレコーディングは、ジャズミュージシャンにとってスターの証だった。このアルバムは、チェットの生涯において最大の売り上げを記録するヒットレコードとなった。

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ボーカル

1954年、チェットはボーカルをフィーチャーしたアルバムを録音した。チェットの歌は決してうまく録音することができなかった。予定の時間をオーバーして、彼らは何十回ものテイクを録音しなければならなかった。

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チェットベイカーのボーカルの魅力が詰まった名盤です

同性愛者

「チェット・ベイカー・シングス」は同性愛者に大きく支持された。甘いマスクと中性的な声が彼らの想像力をたくましくした。もっともチェットは同性愛者を激しく嫌悪していたが。

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マネジメント

バンドのリーダーとなったチェットには、リーダーとして必要な資質や知識や経験が何もなかった。つまり、スケジュールを調整したり、メンバーにギャラを支払ったり、税務署へ税金を納付したりといったことを。こうした雑務は、常にメンバーの中の誰かが担わなければならなかった。

放浪生活の始まり

1954年、チェットは妻のシャーレインを伴ってツアーに出た。しかし、実際にはそれは放浪生活の始まりにすぎなかった。住む家を持たないベイカー夫妻の旅暮らしの人生の

中産階級の田舎の少年

一般市民にとってチェットはアメリカの中産階級の田舎の少年そのものだった。兵役を2回務め、トランペットで純粋な音楽を奏でた。そのうえ彼は傷付きやすく繊細な感じを漂わせていた。

ハンサムな白人

バンドリーダーとなって1年半の間に、チェットは8枚のアルバムを乱発した。黒人ミュージシャンの中には、露骨にチェットを批判する者も少なくなかった。彼らの多くは、チェットの成功はハンサムな容姿と白い肌の色で手に入れたものだと考えていたのだ。

バードランド

1954年5月、チェットは初めてニューヨークで演奏をした。ステージは名門「バードランド」。なにより共演者は白人のクールジャズに強い憎悪を抱くマイルス・デイビスとディジー・ガレスピーだった。

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マイルス・デイビス

その月のバードランドの客の大半はチェット目当ての女の子たちだった。そして、アート・ファーマーやリー・モーガン、アート・ブレイキーといったビバップ奏者も集まっていた。怯えきった演奏を続けるチェットをマイルス・デイビスは徹底的に無視した。

愛人リリアン

バードランドでチェットは21歳のフランス系ユダヤ人の女性と親密な関係になった。リリアンは故郷のパリから2週間前にニューヨークに到着したばかりだった。チェットはいつものように自動車の中で彼女をモノにし、彼女はチェットの正式な愛人となった。

撃ち殺してやる

ある夜、妻のシャーレインはバードランドの休憩中に自動車の中で愛し合う夫とリリアンを見つけた。激怒したシャーレインは自宅に戻り、銃を持ってバードランドへ引き返した。そしてステージで演奏中のチェットに向かって「撃ち殺してやる」とヒステリックに叫んだ。

内縁の妻

チェットはシャーレインをカリフォルニアへ追い返した。そして、リリアンを新しい妻として紹介して歩いた。もっともシャーレインは決して離婚を承諾しようとはしなかったのだが。

パーカーに盗まれた金

ニューヨークのチェットをチャーリー・パーカーが訪ねている。パーカーは病気で、仕事も金も行くところもなかったのだ。ある朝、パーカーはチェットの金を盗んで姿を消してしまった

パーカーの最期

1955年、チャーリー・パーカーが死んだ。葬式はすべての大物ジャズマンを集めてカーネギー・ホールで執り行われた。チェットも会場に駆け付けたが、守衛に「チェット・ベイカー? 誰だ、そりゃ」と冷たくあしらわれた。

人気投票で連続1位

1955年初めに行われたダウンビート誌の人気投票で、チェットはまたしても1位に輝いた。彼はメトロノーム誌の投票でも1位を獲得していた。チェットは若い女性たちから誰にも負けない圧倒的な支持を得ていた。

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この頃がチェットベイカーの絶頂期ですね

女の子向けアルバム

チェットのレコードは若い女性をターゲットに製作された。ジャケット写真にも女性ファンが喜ぶようなものが採用された。10代の女の子向け雑誌みたいにかわいいアルバムの中で、チェットは甘いラブソングを囁くように歌った。

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地獄の地平線

コロムビア映画「地獄の地平線」にチェットは出演した。トランペットを吹くGI役だった。もっとも、この安っぽい映画はチェットに何物ももたらしたりはしなかった。

ディック・ツワージク

24歳のピアニストがチェットのバンドに加わった。名前をディック・ツワージクと言った。チェットは彼のピアノの虜になり、彼を「魂の友」と呼んだ。

ジェームス・ディーン

1955年、ジェームス・ディーンの「エデンの東」が公開された。チェットそっくりの少年は「理由なき反抗」を残して交通事故で死んだ。ジェームス・ディーンが死んだ後、チェットは「ジャズ界のジェームス・ディーン」と呼ばれた。

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チェットの方が先に活躍していたんだけど、、、

ジミー・ディーン

愛人リリアンは、チェットのジャガーの周りをウロウロしている少年を見つけたことがある。少年と一緒にいたチェットのエージェントは、彼を「ジミー・ディーン」と言って紹介した。もっともリリアンはジミーの顔をまともに見ようともしなかったらしいが。

初めてのヨーロッパツアー

1955年の秋、ベイカーのバンドはフランスに渡った。ヨーロッパ全土を巡るコンサートツアーの始まりだった。ツアーは様々なトラブルに見舞われ、客席が半分しか埋まらないことも多かった。

ツワージクの死

ツアーが始まって間もなく、ツワージクが心臓発作で死んだ。麻薬の過剰摂取によるものだった。この瞬間から、ベイカーの麻薬中毒の原因は「親友を失った悲しみを紛らすため」になった。

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ツワージクの死がチェットの人生に大きな影響を与えたと言われています

ヨーロッパの最終公演

1956年3月、ヨーロッパの最終公演はドイツで行われた。スタン・ゲッツやジェリー・マリガンとの共演だったこともあり、多くの観客が集まった。それにもかかわらず、チェットはツアーで味わった苦難を忘れることはできなかった。

2度目の結婚

4月、チェットはリリアンを残して単身帰国した。そしてインド出身20歳の女性ハリマと出会い、翌5月には2度目の結婚をした。愛人リリアンには「結婚した」とだけ手紙で簡単に告げた。

オールスタージャズ賞

1957年、チェットはプレイボーイ誌からオールスタージャズ賞を受賞した。トランペットの人気投票ではアームストロングに次いで2位だった。受賞式でチェットは最後の健康的な姿をテレビの前に見せた。

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人気スターチェットベイカーの最後の姿です

堕ちていくジャズ界のスター

長男誕生

この年の夏、ハリマが男の子を生んだ。チェットは麻薬で警察当局から逃亡中だった。妻は息子にチェズニーと名付けた。

ニューヨーク

チェットは警察の捜査から逃れてニューヨークに移動した。彼は最初に彼の一家が住むべき部屋を探し、次に彼が買うべき麻薬を探し求めた。もっともきちんとした定職のない彼に家賃を払えるはずもなく、一家は部屋を追い出されてしまった。

ホームレス

妻は息子を連れて実家に戻り、チェットはホームレスとなって自動車の中で暮らした。そして次には麻薬ディーラーの部屋に転がり込んだ。チェットの音楽的な才能は非常に危ういものとなりつつあった。

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チェットベイカーと言えばホームレスです

スタン・ゲッツ

1958年、チェットはスタン・ゲッツとアルバムを吹きこんだ。アルバムはジャズ界から散々な酷評を得た。チェットの演奏はあまりにも集中力を欠いていたし、音程はあまりにも不安定だった。

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愛車ジャガー

チェットの愛車ジャガーは、ただのポンコツと化していた。麻薬ディーラーともめた際に窓ガラスを割られ、車体もボコボコだった。不審に感じた警官が自動車を止め、車の中から麻薬を発見し、そしてチェットを逮捕した。

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チェットベイカーの人生は麻薬と逮捕と収監と入院の繰り返しです

ジョイスとの再会

刑を逃れるため、チェットは麻薬中毒患者のための病院に入院した。病院でチェットはかつての愛人ジョイスと再会した。チェットは生活の面倒を見てもらうためにジョイスと一緒に生活をすることに決めた。

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 ジョイスはチェットに会うために入院したそうです

売春婦の部屋

病院を出た二人はニューヨークの彼女の部屋で暮らし始めた。チェットは彼女の所持金をあっという間に使い果たしてしまった。彼は直ちにジョイスと別れて、売春婦の部屋へと転がり込んでしまった。

アルバム「チェット」

1958年の大晦日の前夜、チェットはアルバム「チェット」のレコーディングを行った。ビル・エバンスやハービー・マンらがメンバーとして集まっていた。チェットは歯切れの悪いジャンキービートを披露してみせた。

Chet [Keepnews Collection] by Chet Baker (2014-08-03)

小切手帳

麻薬を買う金が必要だったチェットは、レコード会社の小切手帳を盗んだ。小切手を現金に換える段になって、不正がバレた。自体を察知したチェットは、社員が到着する前に逃げてしまっていた。

盗んだレコード

次にチェットはレコード会社の倉庫から大量のレコードを盗んだ。レコード会社は警察に被害届を出すことをあきらめていた。とにかく早くチェットをお払い箱にしてしまいたいと考えていたのだ。

黒人受刑者

1959年2月、チェットは麻薬で逮捕され、刑務所に収容された。刑務所でチェットはある黒人受刑者と親密な関係になった。2人はまるで恋人同士のようだったと、周りの受刑者なみな考えていた。

出所

刑期を終えたチェットは、再び家族と暮らし始めた。音楽に取り組み、麻薬を買う習慣も取り戻した。この頃チェットは既に人気投票で1位を獲得するような人気者ではなくなっていた

2回目のヨーロッパ

1959年夏、チェットは家族を連れて再びヨーロッパに渡った。チェットはハンサムで麻薬中毒のミュージシャンとして注目された。イタリアで彼は劇薬パルフィウムでハイになる方法を覚えた。

ムッソリーニの息子

イタリアでチェットはムッソリーニの息子に会った。処刑された独裁者の息子を前にしてチェットは無感情な声で言った。「まったくおまえの親父にも困ったもんだ」

夜が泣いている

MGMの映画「夜が泣いている」の主人公はハンサムなトランペット吹きだった。彼はブロンドの前髪を目元まで垂らし、トランペットを下に向けて物悲しい演奏を聴かせた。明らかにチェットをモデルにしたものだったが、製作側がそれに触れたことは一度もなかった。

密輸

チェットはイタリア国内では入手できない劇薬をドイツから密輸していた。仕事があるときには、妻のハリマを騙してドイツまで行かせた。ハリマは自分の知らないところで重大な犯罪に手を染めていたのだ。

余命6か月

1959年の年末に、チェットは麻薬中毒の治療のために入院した。禁断症状を乗り越えてチェットは健康状態を回復した。医師からは、麻薬を絶たなければ余命6か月とも言われていたのだ。

キャロル・ジャクソン

1960年、チェットはキャロル・ジャクソンと出会った。ロンドン出身のキャロルは、モデルの仕事をしたりする美女だった。二人はたちまち恋に落ちて、キャロルはチェットの愛人の座を射止めた。

新しい愛人

チェットに新しい愛人ができた話は、パパラッチによって新聞記事になった。キャロルの両親は、娘が悪名高い麻薬中毒患者の愛人になったと知って大きな衝撃を受けた。父は国際刑事警察機構に娘を救出するよう要請したほどだ。

劇薬の処方箋

麻薬中毒のチェットは劇薬を手に入れるためにあちこちの医師の前で小芝居をして見せた。医師が処方箋を書いてくれないことが分かると、彼は処方箋を盗んでまで手に入れた。時には愛人のキャロルにセクシーな真似をさせてまで、医師から処方箋を手に入れることに尽力した。

刑務所行き

1960年の夏、チェットは麻薬の罪で逮捕状を持った警官に逮捕された。チェットは自分の罪を軽くするため、自分に協力した医師や麻薬仲間たちの名を告白し、妻ハリマまでもが同罪であると自供した。チェットと2番目の妻ハリマは麻薬の罪で刑務所行きとなった。

裁判

1961年1月に裁判が開かれ、多くのマスコミや野次馬が集まった。チェットに付き添っていたのは妻ではなく愛人のキャロルだった。キャロルはカメラの前でチェットと派手なキスをして、イタリア中の憎悪を買った。

刑務所暮らし

刑務所内でチェットはVIP待遇を受けたという。キャロルとの面会中にセックスをすることはもちろん、彼女が持参したプレイボーイ誌を読みながらマスターベーションをすることさえできた。

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国外追放

クリスマスの少し前にチェットは出所した。そしてイタリアを国外追放されることになった。しかし一部の友人たちの努力により国外追放は取り消されることになった。

チェッティーズ・ララバイ

チェットは息子のために「チェッティーズ・ララバイ」という曲を書いた。しかし、彼は息子にもその母親にも一切の援助をしようとしなかった。既に妻のハリマはシングルマザーとして一人で生きていく覚悟を決めていたのだ。

国外追放処分

1962年、チェットはドイツで逮捕された。罪名は麻薬取締法違反と窃盗と公文書偽造だった。チェットはドイツを国外追放処分となった後、スイスからも追放され、イタリアからは入国を拒否された。

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こうしてチェットの演奏する場所が失われていきました

ディーン

チェット夫妻はイギリスにあるキャロルの実家へ移った。そしてクリスマスの日に、キャロルは息子を出産した。息子はジェームス・ディーンの名をもらってディーンと命名された。

告白記事

1963年、金に困っていたチェットはゴシップ紙に麻薬中毒に関する告白記事を掲載した。チェットは子どもっぽい自慢話のように麻薬とセックスについて明け透けに語っていた。40人の主だった女性と数百人もの刹那的な肉体関係の話に至るまで。

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ほとんど麻薬とセックスの話ばかりというのがすごいです

イギリス追放

相変わらずチェットはジャンキーで、まるでそれが日常であるかのように警察に逮捕された。2月にチェットはイギリスを国外退去処分となり、家族と一緒にフランスへ渡った。アメリカの新聞は非常に小さな記事で、チェットのこのニュースを伝えた。

強制送還

1964年の1月、仕事でドイツに渡った彼は劇薬を違法に入手したことで逮捕された。ドイツはチェットをアメリカへ強制送還することに決めた。春早く、彼はマンハッタンへ戻り、連邦麻薬取締官の尋問を受けた。

かつてスターと呼ばれた男

ニューヨーク

イギリスのゴシップ紙に掲載された告白をFBIは重要な自白ととらえていた。ニューヨーク市はチェットが市内で労働することを認めなかった。タイム誌は「チェットは完全に落ちぶれ果てた」と伝えていた。

スピード違反

チェットはニューヨーク市内を車で疾走しまくった。数年後、彼は2,500枚以上のスピード違反切符をコレクションしていた。すべての罰金は未払いのままだった。

ニューポート・ジャズ・フェスティバル

1964年4月、チェットはニューポート・ジャズ・フェスティバルで演奏をした。彼はスタン・ゲッツのゲストプレイヤーとして参加していた。かつてのスターがその凋落した姿を大観衆の前にさらした瞬間だった。

3回目の結婚

1964年、2番目の妻ハリマから離婚届が届いた。そしてチェットは3番目の妻キャロルと正式に結婚をした。キャロルは既に2人目の子どもを妊娠していた。

2人目の息子

1965年11月、2人目の息子ポールが生まれた。さらに妻は3人目の子どもを身籠った。そして一家は家賃未払いの理由でアパートを追い出されてしまった。

麻薬取締法違反

翌12月、チェットは家族を連れて実家に引っ越しをした。彼は既に36歳になっていた。そしてまたしても彼は麻薬取締法違反の罪で逮捕された

タレこみ屋

FBIにはチェットの前科記録が増え続けていた。チェットは自分の罪を逃れるために、いとも簡単に麻薬仲間の名前を自供した。チェットの商売は警察へのタレこみ屋だと、周りは信じていた。

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チェットは平気で仲間を裏切ることができました

暴行事件

1966年7月、長女メリッサが生まれた。そして同じ頃、チェットはウエスト・コーストで暴漢に襲われて重傷を負った。チェットの前歯は折れ、上唇が裂けた。

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映画「ブルーに生まれついて」でも描かれていました

証言

1966年の暴行事件について、チェットの証言はひどく変わり続けた。事件の場所も日時も登場人物も怪我の程度も、そして事件の原因も。いつものようにチェットは自分を美化する伝説を創り続けようとしていた。

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総入れ歯

チェットはディック・ボックに金を借りて手術を受けた。上あごに入れ歯を入れてもらうためで、チェットの上あごはほぼ総入れ歯となった。金を借りに来たチェットの姿は、まるで幽霊が漂っているみたいだったという。

生活保護

1966末から1967年末までのほぼ1年間、チェットは音楽活動を休まざるを得なかった。家族を養うため、チェットは生活保護を申請した。収入を補うために始めたガソリンスタンドの仕事は2日間で辞めた。

スティーブ・アレン

1968年、スティーブ・アレンは自身のテレビ番組でチェットを起用した。そしてアレンはチェットの収入を支えるために何百という曲を書いてチェットに提供した。チェットは次々とレコードを録音し、アレンは「世界一多産なソングライター」としてギネス認定された。

アルバーツ・ハウス

もっとも完成したアルバム「アルバーツ・ハウス」は最悪の作品となった。チェットは半分意識を失ったような状態で不安定な演奏を披露していた。あり余る才能を麻薬のために捨て去ってきた、その結論みたいなものだった。

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放火

相変わらずチェットは薬局から処方箋を盗み出して劇薬を違法に入手していた。犯罪が発覚しそうになると、彼は薬局にガソリンをブチまき放火した。証拠隠滅を図るためにチェットは死に物狂いだった。

憐れみと軽蔑

1969年、チェットは小さなクラブで復活した。生活保護を受けて暮らす麻薬中毒患者を見物するために客が入った。チェットは憐れみと軽蔑の視線と、今にも彼がステージ上で倒れるのではないかという強い期待をはっきりと感じていた。

ニッキー・ブレア

クラブへの出演が、チェットに新たな何かをもたらすようなことにはならなかった。チェットはハリウッドスターのニッキー・ブレアの屋敷で下働きをして金を稼いだ。床を掃いたり使い走りをしたりするチェットの姿に胸を痛めたブレアは、チェットに服やお金を与えた。

リハリビセンター

1969年の夏、チェットはまたしても処方箋偽造罪で逮捕された。チェットは刑務所に収監された後、リハリビセンターに収容された。そして、1970年の初め、妻や母が暮らす家へと戻ることができた。

サンディ・ジョーンズ

1970年、チェットはビル・ラフバラと親友だった。チェットはビルと麻薬の注射器を共有した。そしてビルの恋人であるサンディ・ジョーンズを共有した。

妻への失望

サンディと会うとき、チェットは妻に対する失望を口にした。キャロルが麻薬にのめりこんだ責任が自分にあるとはまったく考えていなかった。それは最初の妻ハリマにダメージを与えたときとまったく同じだった。

ピザ・パーラー

トランペットは質に入れたきりだった。そこでチェットは楽器屋で古くて傷だらけのトランペットを買うことに決めた。そしてピザ・パーラーで演奏する仕事を見つけた。

ダイアン・バブラ

ピザ・パーラーでチェットはダイアン・バブラと出会った。バブラはドラマーで、まるでヒッピーのように見えるシングルマザーだった。すぐにチェットはバブラに言い寄り、二人は愛人関係で結ばれた。

家族への苛立ち

音楽雑誌に「わずか数人の前で演奏するチェット・ベイカー」の写真と記事が載った。怒り狂ったチェットは母親の家の窓ガラスを全部叩き割ったという。チェットの苛立ちは母や妻や子供たちや、つまり家族に向けられていた。

最低の人間!

暴れ回るチェットを、バブラは「最低の人間!」と罵った。チェットはすすり泣きながら、自分がいかに辛いかを語った。そしてその都度彼女はチェットを許してしまったのである。

バブラの母親

1971年、妻にバブラの存在がバレてしまった。妻はバブラの母親に電話をしてヒステリックに泣き叫んでいたという。電話の後ろにいるらしいチェットが、彼女を止めようとする気配はなかった。

メタドーン・メンテナンス・プログラム

1972年、チェットは「メタドーン・メンテナンス・プログラム」に参加した。チェットは妻キャロルから自由になりたいと考えていた。ニューヨークでバブラと一緒に新しい家庭を持つために。

デイジー・ガレスピー

1973年、チェットはニューヨークにいた。デイジー・ガレスピーが仕事を紹介してくれた。チェットはマンハッタンのクラブで2週間演奏する仕事を手に入れた。

行き倒れたジャンキーの死

チェット復活

1973年7月、ニューヨークにチェット・ベイカーが復活した。赤いブレザーと赤紫色のスボンとカウボーイブーツ、ヒッピーのようなもみあげと茶色のオールバック。こけた頬と皺だらけの顔と落ちくぼんだ目をした彼は、昔のようにクールで爽やかな男ではなかった。

落日のアイドル

若い頃チェットに憧れていた中年の客が店には集まっていた。かつてのアイドルの落ちぶれた姿を見ようとする客で店は毎晩満席の盛況だった。いかに彼が落ちぶれてしまったかということは、彼の演奏を聴けばすぐに分かったのだ。

ルース・ヤング

このクラブでチェットはルース・ヤングと出会った。このときルースは22歳のブロンド娘で、チェットはショーが終わった瞬間に彼女を口説き始めた。いつものようにチェットはごく短い時間で新しい愛人を入手していた。

経済的窮乏と孤独

チェットはいつでも数人と女性と関係を保とうとしていた。経済的窮乏と孤独への強迫観念が、チェットの言動を支配していた。妻キャロルと愛人バブラと、新たな愛人ルースを、チェットは手放したいとは思っていなかった。

負け犬

いつの間に「負け犬」がチェットのミドルネームになっていた。山ほどいる負け犬たちの中でもチェットは特に大きすぎるツケを払い続けてきた。しかもツケはまだ払い切れていない、とプレイボーイ誌は書いた。

自分は被害者だ

しかしチェットは「自分は被害者だ」と主張し続けた。痛めつけられっぱなしの生涯でなんとか苦労して生き延びてきたのだと。彼は自分がいかに辛い目に遭ってきたかということを伝えるために必死だった。

アウトロー生活

1974年、43歳の彼は依然としてアウトロー生活をしながら食いつなごうとしていた。ジーパンにフリンジ付きの革ジャケット、無精ひげとくわえ煙草。映画「ダーティ・ハリー」がお気に入りで、セックス三文小説を愛読した。

小さなマイホーム

この年、チェットはアルバム「She Was Too Good To Me」を発売した。小さなギグを繰り返し、とうとう小さなマイホームを購入し、妻や子どもたちと暮らした。その一方で、妻の目を盗んで愛人と会う回数はずっと増えていた。

妻と愛人

ある日のライブでキャロル(妻)とルース(愛人)が一緒になった。キャロルはフォークでルースをめった刺しにして壁に叩きつけテーブルの上のものを手当たり次第に投げつけた。こんなときもチェットにはどうすることもできなかった。

嫉妬深い男

ルースが昔の男性関係を告白したとき、チェットは激怒して彼女の顔を強くひっぱたいた。彼は自分の愛する女性には、常に潔癖を求めていた。嫉妬深い男だったのだ

いじめ

郊外の穏やかな住宅街でジャンキーの存在は異質だった。近所の子どもたちは彼の家に食べ物を投げつけ「ジャンキー!」と叫んだ。彼の子どもたちはあまりにもひどいいじめを受けて、学校へも行けないようになった。

夜逃げ

結局、ベイカー一家は夜中にこっそりと引っ越しをした。夢にまで見たマイホーム生活はわずか3か月で終わった。そして、またしても居候生活が始まった。

イタリア

1975年7月、チェットは愛人ルースと一緒にイタリアへ渡った。チェットはあちこちのステージでトラブルを起こして回った。誰もがチェットと一緒のステージには立ちたくないと考えていた。

ジャック・ペルツァー

チェットの居場所はベルギーにあるジャック・ペルツァーの自宅だった。ペルツァーは地元で巧妙な演奏家だった。そして彼もまたチェット・ベイカーを崇拝していた。

ディーンの楽器

チェットの長男ディーンはフリューゲルホーンを習い始めた。父親のように素晴らしい演奏家になりたいと思っていたのだ。しかし、彼のフリューゲルホーンは父親が持っていってしまい、彼は楽器をあきらめなければならなかった。

家族の居候先

1977年の夏、チェットは行き場のない家族をペルツァーの家に居候させた。愛人ルースには別の居候先を見つけて引っ越してもらった。相変わらずチェットは「子どもたちのことを考えての転居だった」と言い訳をした。

マンハッタン暮らし

1978年の春、一家はマンハッタン郊外のアパートで暮らし始めた。そしてチェットも市内のルースのアパートで暮らすようになった。子どもたちはキャロルの部屋とルースの部屋とを自然と行き来するようになった。

愛人の妊娠

1978年、愛人ルースが妊娠をした。凍りつく沈黙の後、チェットは「できるだけの援助はするよ」と言った。そして彼女は中絶をした。

愛人の中絶

愛人ルースはその後も妊娠しているが、チェットに中絶させられてしまった。チェットは彼女の避妊について何の関心も持たなかった。彼はただ「やりたかった」だけなのだ。

地元ミュージシャン

チェットは小さな仕事を求めて街から街へと移動し演奏した。収入の少ない彼は、ギグのたびに地元のミュージシャンを安いギャラで雇わなければならなかった。そのうえ彼は地元ミュージシャンの技術に我慢する忍耐力も持ち合わせていなかった。

ドイツ入国許可

1978年の秋、チェットはドイツへの入国許可を得ることができた。早速チェットはドイツやオーストリアやスイスやイタリアで仕事をした。どんな小さな仕事でも彼は次々と受けまくっていたのだ。

ヤク切れ

麻薬を切らしたチェットはいつでも狂乱状態だった。街のタクシーはベイカーを乗せたがらなかった。そのため彼らは重い楽器ケースを抱えて長い距離を歩いて移動しなければならなかった。

腎臓結石

49歳を目前にしたチェットは自分が胃ガンだと信じ込んでいた。彼は多くの仲間にお別れの手紙を書いて送った。病院でチェットは腎臓結石だと診断された。

ヨーロッパ諸国

1979年も彼はヨーロッパ諸国で演奏をして歩いた。どの国へ行ってもチェットは温かい待遇を受けることができた。特に若手ミュージシャンはチェットを心から崇拝していた

ライブアルバム

1980年、チェットの安易なライブアルバムが大量に出回った。彼は自分のライブを切り売りするようにレコードを作り続けた。こうしたレコードの報酬がバンドメンバーに支払われることはなかった。

国税当局

チェットは国税当局を異常なほど恐れていた。税金から免れるために、彼は銀行口座さえ持とうとはしなかった。郵送される印税小切手からさえ、彼は当局に発覚することを恐れていた。

アメリカ

1980年の春、チェットは1年以上ぶりに一時的に帰国している。しかし、アメリカはチェット・ベイカーにまったく関心を持たなかった。ニューヨークでチェットは仕事を探し歩き、そして必ずギャラの金を求めた。

ルースとの別れ

1982年に再びチェットは帰国して愛人ルースの部屋で暮らし始めた。そしてルースが彼との別れを決意すると、彼女のピアノを勝手に売り払って部屋を出て行った。ルースにとって、それがあの男との手切れ金だった。

ミシェリーヌ・ペルツァー

1983年、チェットはヨーロッパに戻った。そして夫の留守を狙って新婚のミシェリーヌ・ペルツァーと関係を持った。新婚夫婦はチェットのツアーに同行するようになった。

スタン・ゲッツ

この年、チェットはスタン・ゲッツとヨーロッパツアーを行った。もちろん、このツアーもトラブル続きで、チェットはツアー途中でクビになった。最大の誤算は、ヨーロッパでの人気がゲッツ以上に大きかったことだった。

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バブラ再び

スタン・ゲッツのツアーのクビになって間もなく、チェットは再びバブラと暮らし始めている。チェット53歳で、バブラは43歳になっていた。

駆け落ち

1984年、バブラが家族の緊急事態で帰国していたときのことだ。チェットは人妻ミシェリーヌと駆け落ちをした。ミシェリーヌは旅先のチェットのステージでドラムを叩いていた。

激しい暴行

1985年、チェットはツアーにバブラを同行させていた。そして旅先のホテルで彼女の顔面を激しく殴り続けた。彼は麻薬の服用で頭がおかしくなっていたのだ。

 

ブラジル

1985年の夏、チェットはジャズ・フェスティバルに出演するためブラジルを訪れた。ボサノヴァの一流ミュージシャンたちがチェットを心から歓迎した。1950年代のボサノヴァ生誕に「Chet Baker Sings」が大きな影響を与えていたからだ。

失望

ボサノヴァの音楽家たちは汚れたサンダルのままステージに上がる年老いたチェットを見て驚いた。なにしろ彼らは「Chet Baker Sings」のジャケット写真しか知らなかったのだ。しかもチェットは誰もが聴きたいと願った「My Funny Valentine」を演奏しようともしなかった。

初めての日本ツアー

1986年3月、チェットは初めての日本ツアーに出発した。日本で彼は素晴らしい好待遇を受けた。王様のような扱いにチェットは最初から最後まで上機嫌だったという。

エルビス・コステロ

この年の夏、チェットはテレビ番組でエルビス・コステロと共演した。コステロはチェットの古いレコードのファンで、彼のレコーディングにチェットを加えたいと考えていたこともあった。番組の収録終了後、チェットはコステロは素晴らしい才能の持ち主だと絶賛している。

ブルース・ウェーバー

1986年の年末に、チェットはブルース・ウェーバーと知り合った。このときウェーバーはカルバン・クラインやラルフ・ローレンの広告写真で有名な、超一流の写真家だった。ウェーバーは次の展覧会ではチェットの写真も使いたいと考えていた。

ドキュメンタリーフィルム

ウェーバーは写真のモデル以外でもチェットと仕事をしようと考えた。自分が製作するドキュメント・フィルムのサウンドトラックをチェットに依頼した。1987年1月にはチェットのドキュメンタリーフィルムを作る契約まで交わしていた。

アニエスベー

ウェーバーはチェット・ベイカーの映画製作に極めて真剣だった。この映画のために100万ドルの私財を投資してもよいと考えていた。ウェーバーはチェットのための衣装をアニエスベーにオーダーした

インタビュー

ウェーバーはチェットにかかわる多くの人間のインタビューをフィルムに収めた。彼の家族や愛人、かつての妻やかつての愛人たち。特に彼の家族は相場をはるかに上回る謝礼金を求めていた。

2度目の日本ツアー

1987年5月、チェットは2度目の日本ツアーに出発した。東京の人見記念講堂で収録されたテレビ番組で、彼は昔のようなダークスーツに身を包んでいた。コンサート後も彼はジャズクラブを回って、気持ちの良いジャムセッションを楽しんだ。

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膿瘍

この頃、チェットの体は長年に渡る麻薬服用の影響で極めてひどい状況にあった。彼は常に死を意識するようになった。今や彼は心だけではなく全身に膿瘍を抱えていたのだ。

チェットのロマンス

1987年、フランス人青年の製作した「チェットのロマンス」が発表された。それは9分半の短いフィルムにチェット・ベイカーを凝縮したものだった。この短い映画はセザール賞の短編映画部門で最優秀作品に選ばれた。

行き倒れたジャンキー

1988年5月13日未明、路上に倒れているチェット・ベイカーが発見された。担当の警察官は行き倒れたジャンキーの浮浪者だろうと思った。チェット・ベイカーという名前を見ても、彼にはさっぱり知らない名前だった。

死の原因

チェットの死の原因を巡って様々な推測が飛び交った。特に彼の妻のキャロルは、チェットは殺されたと主張して譲らなかった。最終的にチェットの死は麻薬を服用してホテルの窓から転落したものとして処理された。

葬儀費用

キャロルはウェーバーにチェットの葬式を映画化するよう交渉した。ウェーバーはその申し出を断る代わりに、彼の葬儀費用をすべて負担した。その上、一家の旅行費用や宿泊先まで手配しなければならなかった。

チェットの死

チェットが死んだとき、イタリアのファンは彼を「天使」とか「黄金のトランペッター」と呼んで讃えた。ベルギー出身の作家はチェットの音楽を「20世紀でもっとも美しい叫び」と表現した。しかし、母国アメリカにおいて、彼の死を悼む声はあまり高まらなかった

白人の希望の星

チェットが死んだとき、ニューヨーク・タイムズの死亡欄では、チェットの享年が誤って記載された。そして「並外れた幸運」に恵まれて麻薬で身を持ち崩したかつてのアイドルとして紹介された。おまけに「白人の希望の星」との評価は「一部の評論家による過大評価だった」として、彼の人生は総括された。

寂しい葬儀

チェットが死んだとき、新聞各紙で葬儀の日時が告知された。しかし、葬儀に集まったのはわずか35人にすぎなかった。まっとうな人生を祝福してやろうなんて感じは、まったくなかったのだ。

Let’s Get Lost

1989年「Let’s Get Lost」が公開された。ブルース・ウェーバーが製作したチェット・ベイカーのドキュメンタリー映画である。「Let’s Get Lost」はアカデミー賞ドキュメンタリー部門にノミネートされた。

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2000年、遺族はチェット・ベイカーのホームページを開設した。妻のキャロルはレコード会社を設立し、チェットのライブ録音や写真の販売を管理した。生前家族が得られなかったチェットの収入は、彼の死後になって完全に家族のものとなった。

おわりに

ジェイムズ・ギャビンの「終わりなき闇 チェット・ベイカーのすべて」は確かに面白い本でしたが、チェット・ベイカーの人生は読んでいて決しておもしろいとは思えない人生でした。

とにかく、麻薬と逮捕と入院の繰り返しで、どこまで行っても人生の大逆転なんかない。これ以上ないくらいに自己中心的で簡単に仲間を売り飛ばすし、女性をセックスの対象としか考えていない。人間として最低で嫌悪感しか感じられません。正直に言って、チェット・ベイカーの伝記を読むのに費やした膨大な時間がもったいないと感じています(笑)

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彼の生き様になんて関心を持たず、ただ彼の音楽だけを黙って聴いていればよかったんですね、きっと。

どんなに美化したところでクズはクズ

まあ、世の中にはこんなクズみたいな男がいたんだということを知っただけで良しとします。

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映画「ジョアン・ジルベルトを探して」になった『ボサノヴァの神様』の伝説50選2019年7月6日、「ボサノヴァの父」とも「ボサノヴァの帝王」とも呼ばれた天才ミュージシャン、ジョアン・ジルベルトが逝去した。88歳だっ...
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1967年生まれのバブル世代。80年代カルチャーしか勝たん。推しは仙道敦子。匂いガラスが欲しい。