1986年1月14日の深夜、尾崎豊の姿がテレビのブラウン管に登場しました。
当時、1月15日が「成人の日」で、尾崎豊のスペシャル番組は「成人の日」の前夜に放送されたのです。
「早すぎる伝説」と呼ばれた尾崎豊の特番は、あの頃の僕たちに何を伝えてくれたのでしょうか。
カップヌードル・ホットライブ’86 尾崎豊「早すぎる伝説」
1986年(昭和61年)1月14日の深夜、尾崎豊のライブ映像がテレビで放送されました。
番組名は「カップヌードル・ホットライブ’86 尾崎豊『早すぎる伝説』」。
尾崎豊にとって初めてのテレビスペシャルで、番組は、1985年11月15日に開催された代々木国立競技場コンサート「LAST TEENAGE APPEARANCE(ラスト・ティーンエイジ・アピアランス)」のライブ映像をメインに、尾崎豊のインタビューなどで構成されていました。
フジテレビ系全国7局ネットで、放送時間は、1986年1月14日(成人の日前夜)24時25分から25時25分まで。
ほとんどテレビに登場しない尾崎豊のスペシャル番組は、深夜の放送にもかかわらず多くの若者から圧倒的な支持を集め、あまりの要望の多さに応える形で3月には再放送もされました。
この「早すぎる伝説」の放送は、そのスペシャル番組自体が、尾崎豊にとって、新たなひとつの伝説となったのです。
20歳になる前に3作残すっていうことは、それほど意味のあることじゃない
その前年、1985年(昭和60年)11月29日、尾崎豊は20歳の誕生日を迎えました。
1983年(昭和58年)12月1日に、シングル『15の夜』とアルバム『十七歳の地図』でデビューして以来、数々の伝説を作り上げてきた「十代の教祖」が、とうとう20歳になったのです。
20歳になる誕生日前日の1985年(昭和60年)11月28日、尾崎は、同年3月21日に発売された2枚目のアルバム『回帰線』に続く3枚目のアルバム『壊れた扉から』をリリースしました。
その直前の11月14日・15日に開催された、代々木オリンピックプール第一体育館のライブでは、2日間で3万人を動員するなど、すっかりと「十代の教祖」となっていた尾崎豊が、「十代最後のアルバム」をリリースしたのです。
『十七歳の地図』『回帰線』『壊れた扉から』の3枚のアルバムは、尾崎豊「10代3部作」と呼ばれるようになりますが、この「10代3部作」について、雑誌「FM STATION」のインタビューに答える形で、尾崎はこんな発言をしています。
「10代3部作」についてはどういうふうにとらえられてもかまわない。なぜって、ボクが11月28日に3枚目のアルバムを出したっていうのも、思惑はそのへんにあるから。つまり、企業側は尾崎豊っていう人間が20歳になる、その前に3作残しておくことに何か意味がある。そういう問題提起をボクに投げかけてくれた。でも、ボクにとっては、20歳になる前に3作残すっていうことは、それほど意味があることじゃない。(FM STATION「尾崎豊『二十歳の風景』」)
「ボクにとっては、20歳になる前に3作残すっていうことは、それほど意味があることじゃない」と語っていた尾崎。
しかし、尾崎豊のキャリアにとって、この10代3部作は、間違いなく尾崎豊を象徴する作品として残り続けることになります。
俺と一緒に、本物の愛や真実を見つけようと歩いていく連中がいるならば、俺はそいつのために命を張る
それから年が明けて、1986年(昭和61年)1月1日、福岡国際センターでライブを行った尾崎は、ライブ終了後に無期限活動停止を発表します。
十代で三枚のアルバムを発表して、まさしく活動の絶頂期にある尾崎が活動を停止する。
日本全国の「尾崎信者」にとって、これは非常に衝撃的な発表でした。
この街で一番愛を求めていくうえで必要なことは、自分に関わるすべての人や物を自分の鏡として見つめてみることだ。その中にある物事の真実を自分と照らしあわし、自分が求める愛の姿をもう一度俺はよく考えてみた。そして、愛することということに自分の命を賭けて、立ち向かわなければいけないということに気づいたんだ。少なくとも、今日ここに集まってきてくれたお前らの中に俺と一緒に、本物の愛や真実を見つけようと歩いていく連中がいるならば、俺はそいつのために命を張る。(尾崎豊「LAST TEENAGE APPEARANCE」)
代々木のコンサートで「今日ここに集まってきてくれたお前らの中に俺と一緒に、本物の愛や真実をみつけようと歩いていく連中がいるならば、俺はそいつのために命を張る」と呼びかけていた尾崎が、突然、僕たちの前から姿を消してしまうというのですから、尾崎ファンの戸惑いは相当のものだったと思います。
もっとも、尾崎としても、「十代の教祖」として走り続けてきた自分が二十歳になって、どのような作品を作るべきなのか、きっと大きな戸惑いと迷いがあったんでしょうね。
尾崎豊にとって「二十歳の壁」とはどのようなものだったのか
代々木オリンピックのコンサートと10代最後のアルバム「壊れた扉から」で絶頂に達した尾崎信者の盛り上がりが、無期限の活動停止宣言によって一瞬にして崩壊。
フジテレビ「尾崎豊『早すぎる伝説』」が放送されたのは、全国の尾崎信者が尾崎ロスに陥りかけていた、まさしくそんなタイミングでした。
今、考えてみると、尾崎にとって「二十歳の壁」は、僕たちが考えている以上に、ずっと大きなものだったのかもしれません。
それは、周りの大人たちが、必要以上に尾崎を「十代の教祖」として崇め奉ってきたことと無関係ではないし、「15の夜」や「十七歳の地図」で支持を得てきた尾崎自身にとっても、10代が終わるということは、大きすぎるテーマだったのです。
やがて、1986年(昭和61年)6月、尾崎は新たなテーマを求めて単身渡米、ニューヨークで暮らし始めますが、20歳の尾崎にとって、十代の自分を乗り越えることは簡単なことではなかったようです、、、
ちなみに、当時の僕は18歳の高校3年生で、「早すぎる伝説」が放送された成人の日前夜は、大学受験の最終追い込みでかなり必死の時期でした(なにしろ志望校がギリギリの状態だったので)。
4月になって、無事に大学進学を果たした後も、僕の「尾崎教」布教活動は続いていくことになるのですが、、、
この辺りの話は、またいずれ!
まとめ
ということで、以上、今回は、1986年の成人の日前夜に放送された尾崎豊のスペシャル番組「早すぎる伝説」についてご紹介しました。
あれから36年が経って今思うことは、なんだかんだ言って、やっぱり尾崎は「十代三部作」がすべてだった、ということです(『誕生』という名作があることも事実ですが)。
ところで、「成人の日」って、いつから「1月15日」じゃなくなったんでしょうか?
答えは「2000年(平成12年)」から。
1980年代の話を書いていると、「2000年」という文字が、すごく壮大なものに見えてきて怖いです、、、