読書体験

庄野潤三「子供の盗賊」日本の随筆文学の最高峰と言いたい自選随筆集

庄野潤三「子供の盗賊」日本の随筆文学の最高峰と言いたい自選随筆集

庄野潤三「子供の盗賊」読了。

「子供の盗賊」は、庄野潤三にとって唯一となる自選随筆集である。

1984年(昭和59年)、牧羊社から刊行された。

この年、庄野さんは63歳だった。

庄野潤三版『エリア随筆』だった『子供の盗賊』

庄野さんがチャールズ・ラム『エリア随筆』の舞台である英国ロンドンを訪れたのは、1980年5月のことである。

このときのロンドン滞在は、『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』(文藝春秋)という作品となって、1983年12月に刊行された。

このイギリス訪問記を書き終わり、さて、次の仕事をどうしようかと思案しているときのことである。

文筆生活に入った最初の頃からの友人で昭和三十五年には作品集『静物』を担当してくれた牧羊社の川島勝さんからラムのことを書いたこの機会に自選随筆集を作ってみませんかという誘いを受けた。そこで、本になった順番に『自分の羽根』(昭和43年・講談社)、『クロッカスの花』(45年・冬樹社)、『庭の山の木』(48年・冬樹社)の、最初の方の三冊の中から写真帖の整理をするような気持で拾い出して、目次をこしらえてみた。都合で一篇だけ四番目の『イソップとひよどり』(51年・冬樹社)に入っているのを加えた。全部で八十八篇。(庄野潤三「子供の盗賊」あとがき)

チャールズ・ラムは『エリア随筆』で有名なイギリスのエッセイスト(随筆家)である。

ラムにあやかって、著者お気に入りの随筆作品を精選収録したものが、本書『子供の盗賊』というわけだ。

そういう意味で、本書『子供の盗賊』は、庄野潤三版『エリア随筆』と言うことができるだろう。

庄野さんは、学生時代にラムのエッセイに触れてから、英国エッセイの魅力に目覚めた。

そして、職業作家としてのほぼ全生涯をかけて、文学としての随筆を極める道を実践してきた小説家である。

庄野さんの作品が「随筆みたいな小説」と評されることが多いのは、むしろ当然のことなのかもしれない。

日本に、本当の意味で随筆文学が確立していたなら、庄野さんは小説家ではなく随筆家となっていただろう(これは、庄野さんが師と仰いだ井伏鱒二にも共通することだ)。

庄野潤三の随筆作品の魅力

「散髪屋ジム」という、とても短い作品がある。

ガンビアに滞在していたときの知人である散髪屋ジムからクリスマス・カードが届く。

カードには、庄野さんが留学していたケニオン大学の運動部の成績が報告されている。

フットボール・チームは最初と最後の試合だけ勝って、残りの試合は全部負けた。

今年はなかなかいいチームだった、と書いてある。

これを見ると、一回でも二回でも勝つと大変いいチームということになる。他の人が聞いたらおかしいだろうが、私はジムのような考え方が本当は好きである。(庄野潤三「散髪屋ジム」)

「一回でも勝てばいいチームだ」という考え方が好きだと、庄野さんは書いている。

ここに、庄野文学に通底する魅力がある。

入院している友人を見舞う「病気見舞い」では、花屋でスイートピーの切り花を買う話が出てくる。

たくさんの花を買いたいが、値段が高いので、あまりたくさん買うことができない。

どっさりとはいえない数で、まことに残念であったが、春を知らせる花がそんなに安い値段でないというのはいいことだ。(庄野潤三「病気見舞い」)

「春を知らせる花がそんなに安い値段でないというのはいい」というのも、庄野文学に流れている哲学のひとつだろう。

「黄色い帽子」は、神奈川県の生田へ引っ越してきたときに、次男の幼稚園をどこにしようかと悩む話である。

わたしはこの幼稚園を最初に見に行ったとき、案内書を持ってきてくれた保母さんから、好ましい印象を受けた。当り前のことを普通にちゃんとやっている幼稚園のように思えた。わたしはそういうのが好きなのである。(庄野潤三「黄色い帽子」)

当り前のことを普通にちゃんとやっている、そういうのが好きだと、庄野さんは書いている。

ほんの些細なことの中に、庄野潤三という作家のブレない考え方が一貫しているのだ。

「不案内」という作品もいい。

高校生の娘と渋谷で待ち合わせて早稲田へ行くことにするが、渋谷から早稲田までの行き方が分からない。

気のきいた親なら、さっさとタクシーを止めて乗るに違いない。私もそれを考えないわけではなかったが、バスでさえ行ったことのない道をいきなりタクシーで行くというのは、不安なものだ。何かとんでもないことになりはしないかという心配があって、なるべくならバスに乗って行きたい。安全を期したい。(庄野潤三「不案内」)

「なるべくならバスに乗って行きたい。安全を期したい」というのが、庄野潤三という作家の生き方である。

こうした庄野哲学は、自分のみならず周囲にも向けられている。

「都会嫌い」という作品で、都会が好きか田舎が好きかと問われて、庄野さんは都会っ子だったチャールズ・ラムのことを考え、都会嫌いだったシャルル・ルイ・フィリップのことを考えている。

物事をあまりたやすく変えたくないという気持が私にあるので、むりに変えさせようとする力が加わることを望まない。いくらか無精な性質も手伝っているのかも知れないが、いままで自分のして来たことは、それがよほど始末に困るというのでなければ、今まで通りにしておきたい。それと同じように、日本の田舎がなるべく頑固にそれぞれの固有のものを(景色も言葉も食べ物も暮らし方も)守ってくれることを私は願っている。(庄野潤三「都会ぎらい」)

「いままで自分のして来たことは、それがよほど始末に困るというのでなければ、今まで通りにしておきたい」、これは、庄野さんが一生涯貫いた、まさに庄野潤三流の生き方だった。

そんな庄野さんの随筆を一言で言い表せば、大人の随筆ということだ。

庄野さんの随筆には、無理をしない、大人のゆとりがある。

周りに乱されることも惑わされることもなく、悠々と自分のペースで生きようとする、大人の余裕がある。

だから、庄野さんの随筆は、いつも静かで落ち着いていて、ゆったりとしている。

庄野さんの随筆には、苛立ちというものがない。

焦りというものがない。

僕が、庄野さんの随筆作品を愛する理由は、そんなところにあるのではないだろうか。

書名:子供の盗賊(自選随筆集)
著者:庄野潤三
発行:1984/12/15
出版社:牧羊社

ABOUT ME
みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。