映画「波の数だけ抱きしめて」夏の湘南とオシャレ洋楽が爽やかだった80年代の青春

1982年の夏を描いた青春映画として有名な『波の数だけ抱きしめて』。

湘南の海岸、ミニFM放送局に情熱を燃やした大学生たちの愛と青春、「AOR」と呼ばれるオシャレな洋楽の数々、、、

爽やかな夏を感じたい人に絶対におすすめの夏映画が、つまり、この『波の数だけ抱きしめて』という映画なのです。

今回は、当時の劇場パンフレットとオリジナル・サウンドトラックCDから、夏の名作映画『波の数だけ抱きしめて』を全力でご紹介しちゃいます。

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バブルの勲章「ホリチョイ青春三部作」

日本の景気がまだ良かったバブル時代のこと。

「ビッグコミック・スピリッツ」で『気まぐれコンセプト』という漫画を連載していた<ホイチョイ・プロダクションズ>が、青春映画の制作に乗り出しました。

『私をスキーに連れてって』(1987年)、『彼女が水着にきがえたら』(1989年) 、『波の数だけ抱きしめて』 (1991年)と続いた、「ホリチョイ青春三部作」です。

「ホリチョイ青春三部作」は、時代を象徴する効果的なアイテム(スキー、スキューバダイビング、ミニFM)をテーマに、バブル期を生きる若者たちの浮かれた青春を描いて、当時の若い世代に大きな支持を得ました。

映画の中には、バブル期のカルチャーを感じさせる場面が、たくさん登場しているので、バブル文化を勉強したい人には、絶対におすすめの映画となっています。

劇中に登場する架空のミニFM「KIWI FM」の公式ロゴ。作品中のジングルは、アメリカのジングル製作会社へ発注したもの。劇中に登場する架空のミニFM「KIWI FM」の公式ロゴ。作品中のジングルは、アメリカのジングル製作会社へ発注したもの。

最後のバブル映画『波の数だけ抱きしめて』

『波の数だけ抱きしめて』は、ホリチョイ三部作の最後を締めくくる作品となりました。

公開は1991年(平成3年)8月。

バブル崩壊は1991年3月から始まったと言われているので、この映画は、バブル時代の最後を飾る映画になったとも言えます。

ホリチョイ3部作の完結編『波の数だけ抱きしめて』劇場パンフレットホリチョイ3部作の完結編『波の数だけ抱きしめて』劇場パンフレット

バブル景気が崩壊したと言っても、市民レベルの感覚としては、バブルの余韻はしばらく続いていたので、『波の数だけ抱きしめて』の公開当時、若者たちはまだまだ熱かったんですよね。

今回は、当時の劇場パンフレットとオリジナル・サウンドトラックCDから、『波の数だけ抱きしめて』という青春映画の魅力をお伝えしたいと思います。

1982年の夏を描いた『波の数だけ抱きしめて』

『波の数だけ抱きしめて』は1991年(平成3年)公開の映画ですが、映画の中では1982年(昭和57年)の夏が描かれています。

つまり、バブル全盛期に「あの頃は良かったなあ」などと言いながら、1982年を懐かしく思い出す映画なんですね。

1982。おしゃべりな夏。海辺のノン・ストップ・ミュージック。そして『波の数だけ抱きしめて』。1982。おしゃべりな夏。海辺のノン・ストップ・ミュージック。そして『波の数だけ抱きしめて』。

バブル前とバブル後では、世の中がすっかりと変わってしまった日本だけに、1990年頃には、「あの頃は良かったなあ」と80年代初期を懐かしく思い出しているアラサーの人たちが、きっとたくさんいたんでしょうね。

1982。おしゃべりな夏。海辺のノン・ストップ・ミュージック。

1976年。雑誌「ポパイ」が、ベトナム戦争後の明るいアメリカ西海岸文化を日本に紹介して以来、それまで学生運動に熱中していた日本の若者たちは、テニスにスキー、ディスコにカフェ・バー、アイビー、ニュートラと、遊びにオシャレに急速に目覚め始めた。

81年、「なんとなくクリスタル」がベストセラーに。相前後してサーフィンが大ブーム。日本中の若者がサーファーになり、真っ黒に日焼けし、アメリカ西海岸に憧れていた。

この映画は、今日の消費文化の入り口とも言えるそんな明るく伸びやかな時代を背景に、小麦色の若者達の、ひと夏の恋と遊びを描いた、懐かしくも新しい青春映画である。

製作はフジテレビジョン・小学館。

製作協力は山田洋行ライトヴィジョン。

特別協力は日本石油、協力がJ.T。

配給は東宝。

全2作で消費文化の青春増を描いたホリチョイ・ムービーが、9年前に遡り、一つのことに夢中になるというピュアな若者の生き方を描いている、そんな映画作品です。

イントロダクション — NO LIFE NO MUSIC の時代

DAT、シンセ、CDウォークマン、サンプリング・マシン。

ミュージック・ビデオ。

ライブ・ハウス。

続々来日する大物ミュージシャン。

次々に開局する民間FM曲、、、

音楽産業はハード・ソフトとも充実の極みに達し、「時間を気分のいいサウンドで埋める」という遊びが、若者たちにとって、他のどんな遊びよりも重要な生活テーマとなった1980年代。

映画『波の数だけ抱きしめて』は、それまで誰も取り上げなかった、「生活を音楽で満たす」という遊びを真正面から描いた、新しい形の青春ドラマです。

映画の公開に合わせて、劇中に登場するミニFM放送局「KIWI FM」のキャラクターグッズも販売された映画の公開に合わせて、劇中に登場するミニFM放送局「KIWI FM」のキャラクターグッズも販売された

物語は、30才を迎えた大学の同級生たちが、仲間の女のコの結婚式で再会する場面から始まって、やがて彼らが学生時代を送った1982年へとタイム・スリップしていきます。

1982年当時、日本にはCDもMTVもJ-WAVEもなく、全国に4局しかなかった民間FMは、どの局も「ステレオ放送」の音質の良さを前面に押し出し、美声の声優がカッチリした美文長の台本を一字一句間違えずに朗読するという番組が主流で、放送される曲目も、FM雑誌の締め切りに合わせ、放送1か月前には決められていました。

そんな時代、物語の主人公たちは、DJのおしゃべりを最小限に抑え、晴れた日には晴れた曲を、雨降りの日には雨降りの気分の曲を—そのときどきの気分に合わせた音楽をノンストップでかける、アメリカ式のFM局を作ろうとします。

1982年と言えば、日本は、雑誌ポパイがもたらしたアメリカ西海岸文化のまっただ中。

女のコは競って肌を焼き、髪はレイヤード・カットが全盛、若者全員がサーフィンに熱中し、原宿や六本木の街には陸サーファーが溢れていました。

若者たちは、好きな音楽を聴くために、ウォークマンやカー・ラジオ用のオリジナル・カセット作りに励み、湘南の海岸沿いにはミニFMが乱立していたのです。

夕焼けの湘南海岸。映画では、1982年の夏が美しく再現されている。夕焼けの湘南海岸。映画では、1982年の夏が美しく再現されている。

『波の数だけ抱きしめて』の主人公たちも、茅ケ崎のサーフショップを拠点にして、「Kiwi」というミニFMを放送していますが、やがて、電波を受け取って送り出す中継局を200メートルおきに設置することで、自分たちの放送を、全長20キロに及ぶ湘南の海岸線に合法的に届かせる方法を発明します。

映画の中では、クルマで湘南に来たカップルに心地良いAORを聴かせようと、本格的なFM局の設立に夢を燃やす若者たちの大学時代のひと夏の夢と恋が、日本のウエストコースト、湘南の潮風と波を舞台に、心地よいユーミン・サウンドに乗せて爽やかに描かれています。

ちなみに、『波の数だけ抱きしめて』というタイトルは、湘南の波を表すと同時に、ラジオの「周波数(波の数)」を意味しているそうです。

オシャレですね!

日本の映画史上で最も贅沢な音楽構成

1991年当時、20代後半のヤング・アダルトの胸を締めつけずにはいられなかった、この懐かしい物語を企画したのは、『私をスキーに連れてって』で日本中にスキー・ブームを、『彼女が水着にきがえたら』でスキューバ・ダイビング・ブームを巻き起こしたホリチョイ・プロダクションです。

彼らの原作を、邦画界を代表する脚本家となった一色信幸が、前2作と同様に脚本を担当。

プロデューサー・河井真也、監督・馬場康夫、撮影・長谷川元吉、編集・冨田功、音楽監督・杉山卓夫という面々は、すべて『私スキ』以来のおなじみのスタッフ。

テーマが「9年前のFM放送」ということで、製作チームは、物語上のラジオ局から当時全盛を極めていたAORの代表曲を放送させるべく、早くから全米のレコード会社と交渉を開始、多くの難関を乗り越えて、ネッド・ドヒニー、J・D・サウザー、ジェームス・テイラー、バーティー・ヒギンズ、カーラ・ボノフといったAORの大物アーチストたちの13曲の使用権を獲得します。

さらに、アメリカのテキサス州ダラスにあるジングル製作会社に、物語上のラジオ局のジングルの製作を委託。

極めつけは、ユーミン(松任谷由実)から4曲の提供を受けて、日本の映画史上で最も贅沢な音楽構成を実現しました。

千葉県千倉市に1982年の湘南を再現!

『波の数だけ抱きしめて』では、9年前の湘南の海岸を再現するため、千葉県千倉市に大掛かりなオープンセットが建設されました。

ここに、「ビッグコミック・スピリッツ」の読者から募集した小物を大量に投入しています。

全編に登場するカラフルなイラストレーションは、「オリーブ」などの女性誌でおなじみのイラストレーター・森本美由紀が担当。

さらに、時代考証は、泉麻人が監修しています。

主演は、「日経エンタティメント」誌上でマネーメイキング・アーチストNo.1に選定された日本芸能界最後のアイドル・中山美穂と、雑誌「アンアン」で「いい男No.1」に選ばれた人気頂点の織田裕二。

この今最も輝いている旬の二大スターに、トレンド・ドラマの顔とも言うべき松下由樹、ハリウッド映画『クライシス2050』に日本人として主演した別所哲也、コント・グループ「Zビーム」の阪田マサノブが共演。

誰が主役と言ってもおかしくない群像劇を、見事なチームワークで演じています。

中山美穂が見せる本物のDJテクニックや、出演者たちのカラフルなサーファー・ファッションにも注目ですね。

1982年、夏。(泉麻人)

当時のパンフレットには、『波の数だけ抱きしめて』で時代考証を監修した泉麻人さんが、1982年の夏を回想するコラムを寄せています。

このコラムによると、1982年の夏の到来(梅雨明け)は8月2日で、当時、松田聖子は「夜のヒットスタジオ」で「小麦色のマーメイド」を艶っぽく唄い、J-WAVEのない頃、FENは連日のようにサバイバーの「アイ・オブ・ザ・タイガー」を流していたそうです。

街には、頂点を過ぎたレイヤード・カットの女のコたちが、エンゼルスフライトのフレアーパンツにサンローランのウェッジ(ソールシューズ)で往き交い、男たちは、マジアかフレッドベリーのポロシャツ(襟は立っていない)にファーラーのホップザックという、イタカジとDCが力を持ち出す前の「何となく迷いのあるニュートラ」という服装の、そんな時代でした。

当時の泉さんは、大学を卒業して社会人4年目、TV情報誌の編集部にいた頃で、<レオパード・キャット>や<レキシントン・クィーン><サンバクラブ>などといったディスコや、南青山の邸宅街にオープンした洋館を改造したバー&レストラン<ハウス・オブ・1999>といったお店を舞台とするパーティーなんかにも顔を出していたそうです。

当時の湘南は、1970年代後期に雑誌「ポパイ」が海の向こうから呼び込んできた「ファッションとしてのサーファー文化」が既に根づき、暴走族から鞍替えした「パンチの名残りの或るサーファー」が、サバンナRX7で逗子マリーナへ迷い込む、といった現象が発生し始めていたんだとか。

やがて、1980年代に入り、湘南人口が急増するのに伴い、海へ行っても海水には浸からない人々が増え、ルート134沿いに充実し始めたレストランの窓越しに「環境映像としての相模湾」を眺めて帰ってくるようなデート・スタイルが定着する頃には、ウィンドサーフィンなどやらない一般的な観光客が、湘南の主役となっていました。

水着に着替える場合も、目的は「肌を焼くこと」で、「泳ぐこと」から「肌を焼くこと」が隔離されて独り歩きするようになったのは、この頃からだろうと、泉さんは回想しています。

あらすじ - SHONAN SEASIDE STORY -

1991年11月。

東京の教会で行われた真理子(31才)の結婚式に、旧友の小杉・芹沢・裕子・吉岡の4人が出席しています。

幸せな結婚式の帰り、小杉と芹沢は、真理子と遊んだ9年前の湘南の日々が懐かしくなり、クルマを飛ばして、横横経由で長柄のトンネルを抜け、134号線を茅ケ崎へと向かいました。

そして、舞台は遡って、1982年5月、、、

1991年の結婚式から、9年前の1982年夏の湘南へ。そこが物語の舞台だ。1991年の結婚式から、9年前の1982年夏の湘南へ。そこが物語の舞台だ。

小杉・芹沢・裕子・真理子の4人は、茅ケ崎生まれの茅ケ崎育ち。

地元の同じ高校を出て、今は東京の別々の大学へ通う大学4年生です。

4人は、真理子のバイト先である茅ケ崎のサーフショップ<サンデービーチ>を拠点に、晴れた日には晴れた曲を、雨の日には雨の曲を—そのときどきの気分に合わせた音楽を流すという、ノン・ストップ・ミュージックのミニFM局<Kiwi>を運営していました。

あるとき、無線マニアの芹沢が、電波法の規制により半径200メートル以内にしか発信が許されていないミニFMの電波を、中継局と送信局を交互に置くことで、合法的にどこまでも届かせる方法を発見します。

学生生活最後の夏休みに、何か大きなことをやりたいと考えていた芹沢は、小杉や裕子に声をかけて、自分たちの放送が湘南中の海岸で聴けるようにしようと考えました。

この計画の実現のためには、真理子のDJとしての才能が不可欠ですが、真理子の両親は、数か月前に転勤でロスアンジェルスへ渡っており、真理子自身も、7月にはロスの大学へ編入するため、日本を去らなければならなかったのです。

実は、真理子は、7年来思いを寄せ合ってきた幼馴染の小杉に、アメリカ行きを引き止めてほしいと思っていて、芹沢と裕子も、なんとか小杉に告白させて、真理子の渡米を阻止しようと企みますが、シャイな小杉には「好きだ」という一言が言えません。

そんな5月のある週末、茅ケ崎の海岸にドライブ・デートに来た若い広告マンの吉岡が、ふとしたきっかけでKiwiの存在を知り、DJの真理子に一目惚れしてしまいます。

真理子から、湘南中の海岸へFM放送を流す計画を聞いた吉岡は、真理子の気を惹くため、<サンデービ-チ>に足繫く通うようになり、Kiwiの中継局づくりにも積極的に協力するようになります。

吉岡の出現に焦りを感じた小杉も中継局づくりに参加するようになり、Kiwiは、二人の男性の真理子に対する熱い思いをエネルギーにして、国道134号線沿いに江ノ島方面へと急速に伸び始めていきました。

6月、専売公社(現在のJTのこと)が森戸にひと夏オープンするアンテナ・ショップで行うイベントの企画を任された吉岡は、茅ケ崎から森戸まで湘南の海辺を隈なくカバーするFM放送局<FM湘南>の設立を企画します。

映画では、1982年の夏の湘南が再現されている。小道具に対する執着心がすごかった。映画では、1982年の夏の湘南が再現されている。小道具に対する執着心がすごかった。

芹沢たちは、会社から設立準備金として1,000万円を引き出すことに成功した吉岡の援助を喜んで受け入れ、Kiwiは森戸を目指して、ますます伸びていきます。

途中で会社側は、プロのDJを起用するよう、吉岡に圧力をかけてきますが、吉岡は「地元の大学生が運営するという形でなければ、この放送は若者の支持を得られない」と、強く主張します。

さらに、吉岡は、アメリカ行きを9月まで延期するよう真理子を説得、真理子も吉岡の提案を受け入れます。

7月、中継局が葉山まで伸びて、いよいよ明日はスポンサーが試験放送を聞きに来るという慌ただしい夜に、とうとう真理子に告白することを決心した小杉は、真理子を呼び出します。

ところが、ふとした行き違いから、小杉は、真理子の気持ちが完全に吉岡へ移ってしまったものと誤解、さらに、小杉に思いを寄せている裕子が、小杉と抱き合っているところを見つけてしまった真理子も深く傷つき、アメリカへの旅立ちを決意します。

翌日、傷心の真理子が、クルマで湘南を出ていこうとしていることを知った芹沢と裕子は、試験放送を犠牲にしてでも、小杉の「愛している」という声をKiwiの電波に乗せて、真理子のクルマまで届けようとしますが、前夜の嵐で中継局が壊れてしまったため、電波は江ノ島より先には届かない状態となっていました。

壊れた中継局を見つけて、なんとか修復しようと焦る芹沢と裕子。

一方、真理子を失い、<サンデービーチ>で呆然としていた小杉は、吉岡の会社からの電話を受けて、吉岡が会社に無断で1,000万円を調達していることを知ります。

万が一、Kiwiの試験放送が失敗すれば、吉岡は会社をクビになってしまう、、、

悩んだ末に、小杉はマイクへと向かいますが、、、

『波の数だけ抱きしめて』を楽しむための1982年図鑑

映画『波の数だけ抱きしめて』の舞台は1982年の夏。

映画をより楽しめるように、劇場パンフレットには、ホリチョイ・プロダクションによる「1982年図鑑」があります。

サーファー、レイヤー、ニュートラ、ポパイ、KIKI、、、

誰もが真っ黒に日焼けしていたあの夏へ、ようこそ。

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陸サーファーのファッション

エンジェル・フライト(正式名称はエンゼルス・フライト)のフレアのパンツに花柄のシャツ、サンローランのウェッジ・ソールにヴィトンのエア・バッグ—これが当時の「陸サーファー」のファッション。

このファッションを「JJ」は強引に<シティ・サーファー>と呼びました。

お手本は、「チャーリーズ・エンジェルス」のファラ・フォーセットですが、82年には<エレガンス・サーファー>へと進化していたため、東京でこのスタイルは既に下火だったようです。

髪型はレイヤード

サーファーのメイクは、ブルーのアイシャドゥとパールの入ったピンク系の口紅とマスカラが基本。

化粧品はレブロンの全盛時代で、口紅は65番、マニキュアは04番が定番でした。

髪型は、なんといっても、サイドに流し段を入れた、渋谷「クロード・モネ」の不朽の名カット「レイヤード」。

茶色っぽい方が格上に見えて、ビールを使って脱色した女のコもいたらしいです。

とにかく、日焼けしていないことには、話にならない時代のことでした。

「1982年図鑑」の製作はホリチョイ・プロダクション。「気ままにコンセプト」の世界が、ここにあります。「1982年図鑑」の製作はホリチョイ・プロダクション。「気ままにコンセプト」の世界が、ここにあります。

テニスが先端ファッション

1982年は、まだ、テニスが先端ファッションで、フィラ、マジア、エレッセといったあたりが、現在(1991年のこと)のラルフローレン並みに街に氾濫していました。

六本木で遊ぶ女のコたちは、意味もなくテニス・ラケットを小脇に抱えていたそうです(六本木には「テニス・クラブ」というお店もあった)。

冬場のサーファーの女のコの典型的ファッションは、関西から流行からやってきた、8枚はぎのスウェードのスカートに、ムートンコートとウェスタンブーツ。

一時絶滅していましたが、去年の冬(1990-1991のこと)あたりから、ちょくちょく見かけるようになりました。

ハマトラ・ファッション

サーファーと並んで、80年代初めに全盛を極めたもうひとつのファッションが「ハマトラ」(横浜トラッドの略称)です。

雑誌「JJ」が、フェリス女学院御用達のアイテム、<フクゾー>のポロシャツや<ミハマ>の靴(横浜山手の石段を上って登校するフェリスの娘たちのために、かかとが低く作られていた)を強力にプッシュしたのは、1980年のことでした。

映画『波の数だけ抱きしめて』では、元オールナイターズの阿部由美子さんが、ハマトラ・ファッションで登場しています。

ジョギング・パンツ・スタイル

1982年はアロハも全盛で、裏地プリントのレイン・スプーナーなんていうのもありました。

ハワイアン・トラッドなんていう、妙な言葉が登場したのも、この頃のことです。

男も女も、夏はジョギング・パンツ・スタイルが定番。

映画『波の数だけ抱きしめて』では、松下由樹さんが、ふんだんに見せてくれています。

「ドルフィン・ショーツ」なんていう、やけに色っぽいのもありましたね。

トロピカル・インテリア

サーファーは、身の回りを何でもトロピカルっぽくしないと、気が済まなかったそうです。

壁にはカジキ・マグロの瀬戸物、床にはフラミンゴのスタンドというインテリアが、爆発的に流行しました。

高校生の「電車サーファー」

1981年に。国鉄(現在のJRのこと)が、相次いでサーフボードの社内持ち込みを許可して以来、湘南には、お金も自家用車も哲学も持たない、高校生の「電車サーファー」が溢れました。

湘南のサーフ・ショップのオーナーの中には、既にウェイブ・ライディング(ウィンド・サーフィンの一種)に乗り換えていた人も多く、サーフィンが湘南の表舞台からフェイド・アウトしつつあった頃のことです。

キャンパスでフリスビー

大学のキャンパスでは、これ見よがしに派手な格好でフリスビーをしている連中がいました。

フリスビーは、最近(1991年のこと)、「フライング・ディスク」の名前で復活の兆しがあります。

トロピカル・ドリンク

マイタイ、ソルティ・ドッグ、チチ、ブルー・ハワイなどなど、サーファー・ディスコでは、トロピカル・ドリンクが人気でした。

グラスの上は、傘だの花だので大賑わい。

50ccのバイク

50ccのバイクは、ノーヘルOKの全盛時代。

スズキの「ラブ」はマイケル・ジャクソン、ホンダの「リード」はビヨン・ボルグ、ヤマハの「ベルーガ」は渡辺貞夫という強力な布陣でした。

広告マンの制服は「トラッド」

1982年当時の広告マンの制服といえば「トラッド」。

電通・博報堂の営業マンは、一人残らず3つボタンの紺ブレに、レジメンタル・タイというスタイルでした。

映画『波の数だけ抱きしめて』でも、広告代理店・博放堂の社員に扮した別所哲也と勝村政信が、トラッド・ファッションで登場しています。

ちなみに、広告マンが花形職業となり、コピーライター・ブームなるものが起こったのも、1982年のことでした。

六本木<ナバーナ>

サーファーの総本山だった、六本木<キサナ>が<ナバーナ>に変わったのが、1982年のことでした。

映画『波の数だけ抱きしめて』では、別所哲也と勝村政信が、このディスコへ行くシーンが登場しています。

クール&ザ・ギャングの「セレブレーション」、アース(アース・ウィンド・アンド・ファイアーのこと)の「レッツ・グルーヴ」といったあたりが、1982年のディスコ・シーンにおける大ヒット曲でした。

MTVのビデオ・クリップ

80年代最大の音楽革命といわれる「MTV」は、1981年設立。

82年は、チャートに上るヒット曲の大半に、ビデオ・クリップが付くようになります。

日本におけるMTVの放送は1983年からですが、当時は、テレ朝の「ベスト・ヒット・USA」(土曜日の夜だった)が人気で、東京の若者たちは、この番組を通じて、オリビア・ニュートン・ジョンの「フィジカル」や、Jガイルズ・バンドの「センターフォールド」などの映像に触れ、ビデオ・クリップなるものの存在を知ったそうです。

UCLA

デイパックにアメリカの大学のマーク(ロゴ)をプリントしたTシャツというのが、当時の大学生の典型的なファッション・スタイルでした。

世の中、何でもかんでもファッションと言えば「UCLA」。

日本中の大学生が、アメリカ西海岸の大学へ留学することを夢見ていた時代のお話です。

スケートボード

スケートボードの第1次全盛時代は、1979年頃のことです。

当時、青山や原宿のど真ん中に林立していたサーフ・ショップには、必ずスケボーが置かれていました。

1982年には既に下火になりつつありましたが、1989年頃から復活。

現在(1991年のこと)、スケボー少年は、渋カジ系のファッション・リーダーになっています。

スキーもアメリカ

スキー界は、オーリン、プレ、ザ・スキー、K2など、アメリカ物が全盛の時代でした。

これらの板に、バートのバインディング、ハンソンの靴に、リバティ・ベルのダウン・ジャケットというのが、ミーハー最強の組み合わせです。

クルマはシティ

クルマはシティ。

ファミリアを初めとする直線的なデザインの2ボックス・カーが全盛でした。

ミラーは、まだボンネットの先にあるフェンダー・ミラー。

各メーカーとも、1978年の排ガス規制をクリアしたばかりで、スピードや馬力はありませんでしたが、その分、いろいろと工夫があって楽しかったそうです。

ダッシュ・ボードに椰子の木の模型を立てるのが流行ったのも、この頃のことです。

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「気まぐれコンセプト」1980年代のタイムカプセルのような四コマ漫画 1980年代、広告ブームなるものがありました。 この広告ブームを漫画の形で風刺した作品がホリチョイ・プロダクションズの「気...

1982年の洋楽

FM放送局の映画である『波の数だけ抱きしめて』では、1982年当時にヒットしていた洋楽の数々が流れるところも大きな魅力です。

青春映画であり、音楽映画でもある。

1980年代の爽やかな「AOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)」が好きな人には感動ものの映画だと思いますよ。

劇場パンフレットでは、実際に映画の中で使われている洋楽についての紹介もあります。

青い空と青い海、それが80年代AORのイメージそのものだった青い空と青い海、それが80年代AORのイメージそのものだった

当時のパンフレットを参考に、映画の中で使われている、1982年当時の洋楽を振り返ってみましょう。

遥かなる青い空 / バーティー・ヒギンズ

歌詞の中に、ボギーとバコールという名前が出てくることでも分かるように、映画『カサブランカ』にヒントを得て作られた曲です。

舞台となっているのは、アメリカ最南端に位置する町、フロリダのキー・ウエスト。

バーティー・ヒギンズは、このフロリダから登場して、マイアミの海を彷彿させる淡い色彩感を備えたサウンドや、センチメンタルな歌声で人気を集めました。

1982年の春、全米チャートで第8位まで上がった曲です。

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愛を求めて / ネッド・ドヒニー

アメリカには、その土地に所縁のある人物の名前を、通りの名前として付けるという風習があります。

ロサンゼルスのビバリーヒルズにある「ドヒニー通り」もそのひとつで、ネッド・ドヒニーは、そのドヒニー家の子孫にあたります。

甘くて、幾分の翳りを備えた歌声で、70年代後半以降のAORブームを担いました。

「愛を求めて」は、1976年のアルバム『ハード・キャンディ』に収録された作品で、ロサンゼルスの昼下がりに注ぐ陽射しにも似た、爽やかな気分を味わうことができます。

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ロザーナ / TOTO

ボズ・スキャッグスのレコーディングのために集まった若手ミュージシャンたちがスタートさせたTOTOは、その抜群のテクニックで、ソウル、ジャズ、ロックの数多くのレコーディングに引っぱり出されました。

グループとしての人気を決定づけたのは、1982年のアルバム『TOTOⅣ~聖なる剣』の成功です。

「ロザーナ」は、アルバム『TOTOⅣ~聖なる剣』に収録されたヒット曲で、グラミー賞で最優秀レコードに輝くなど、緻密なアレンジで高い評価を得ました。

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憶い出の町 / ジェームズ・テイラー& J.D.サウザー

ロサンゼルスを代表する二人のシンガーソングライターが、絶妙なデュエットを披露。

アメリカのありふれた小さな町を舞台にした、洒落た短篇小説を思い起こさせてくれます。

青春期特有の虚ろな視線を漂わせた作品。

1970年代に一時代を築いたジェームズ・テイラーが、大人の視線で人生の機微を描き始め、歌声にも円熟味を深めて話題になった、1981年の代表作『ダディーズ・スマイル』に収録されています。

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1982年の夏、それはAORの夏でもあった。爽やかで傷つきやすい青春の横で、AORはそっと寄り添ってくれた。1982年の夏、それはAORの夏でもあった。爽やかで傷つきやすい青春の横で、AORはそっと寄り添ってくれた。

パーソナリィ / カーラ・ボノフ

リンダ・ロンシュタットに作品が採りあげられたことで、ソングライターとして一躍脚光を浴びることになったカーラ・ボノフ。

本人も清楚な歌声も大歓迎され、ロサンゼルスを代表する女性シンガーとして、日本でも幅広く人気を集めました。

清楚な中にも、奥に秘めたひたむきな情熱は誰にも負けないものがあり、「パーソナリティ」では、恋人に対する一途な思いが歌われています。

1982年のアルバム『麗しの女』からの選曲で、イーグルスのメンバーがコーラスに参加しています。

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 ロンリー・フリーウェイ / ラリー・リー

1975年、オザーク・マウンテン・デアデヴィルズという愛敬のある名前のグループが、「ジャッキー・ブルー」というヒット曲を放ちました。

ラリー・リーは、そのオザーク・マウンテン・デアデヴィルズのリーダーとして活躍していたミュージッシャンです。

ソロ活動に入ったラリー・リーが最初に飛ばしたヒット曲が、この曲「ロンリー・フリーウェイ」でした。

1982年夏、全米チャートで最高位18位を記録。

恋人同士であっても、言葉によるコミュニケーションの難しさが存在することが歌われています。

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イン・ザ・ナイト / シェリル・リン

TOTOが、彼らのデビュー・アルバムの中で起用したことによって話題となった女性シンガー、シェリル・リン。

「ジョージ・ボーギー」での、ソウルフルでパンチ力のある歌声が一気に評判になり、レコード会社の間では、彼女を巡る争奪戦が繰り広げられました。

シェリル・リンのデビューにあたっては、TOTOが全面的にバックアップ。

この曲「イン・ザ・ナイト」は、1981年、レイ・パーカーJr.の協力で完成された3枚目のアルバムのタイトル・ソングでした。

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ユア・オンリー・ロンリー / J.D.サウザー

J.D.サウザーは、ロサンゼルスの黄昏時を思わせるような、哀愁味のある甘い歌声で人気を集め、ラヴ・バラードには、特に定評のあるシンガー・ソング・ライターです。

リンダ・シュロットとのロマンスが騒がれたり、「我が愛の至上」や「ニュー・キッズ・イン・タウン」などといったイーグルスのヒット曲には、J.D.サウザーが作家として協力している作品も少なくありません。

この曲「ユア・オンリー・ロンリー」は、本人の歌でヒットした唯一の曲です。

1979年暮れに、全米で最高位7位を記録しました。

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シャイン・オン / ジョージ・デューク

ジョージ・デュークは、もともと、ジャズ・シーンで頭角を現したキーボード奏者です。

その後、クロスオーバー現象とともに、ソウル、ジャズ、ロックを股にかけて活躍するようになりました。

スタンリー・クラークとのプロジェクトで話題を提供しましたが、ちょうどその頃、アース・アンド・ウインド&ファイアなどと並んで、ディスコっぽい曲を量産して人気を集めています。

この曲「シャイン・オン」も、そうしたディスコ・ナンバーのひとつで、1982年発売のアルバム『ドリーム・オン』から選曲されています。

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虹を追う男 / カラパナ

ハワイの音楽と言えば、スティール・ギターが甘いメロディを奏でるハワイアンというイメージがありますが、1970年代末に、そんなイメージを爽やかに破ってくれたのがカラパナでした。

溌剌とした演奏が素晴らしく新鮮で、同時に、彼らは、この曲「虹を追う男」に代表されるように、ハワイならではの、都会の生活からは生み出せないゆったりとしたテンポで、独特の哀愁味を楽しませてくれました。

ハワイの夕日が目に浮かんできそうなバラードです。

ワイキキの熱い砂 / カラパナ

「虹を追う男」同様に、1976年、ハワイでベスト・セラーを記録したアルバム『カラパナⅡ~ワイキキの熱い砂』に収録されていました。

サーフィン映画『メニイ・クラシック・モーメンツ』にも使われています。

バラードの演奏を得意とする一方、カラパナの演奏には、屈託のないスケール感があって、そこもまた彼らの大きな魅力のひとつでした。

この曲「ワイキキの熱い砂」もまた、豪快にうねりをあげる波間を、サーフボードですりぬけていくスリルを楽しむことができる作品です。

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『波の数だけ抱きしめて』制作裏話~劇場パンフレットから

・1982年の湘南では「日焼け」が重要なポイントだったので、中山美穂と松下由樹は、全身にドーランを塗って撮影に臨んだ。

・ロケ先の旅館では、中山美穂と松下由樹の入浴中に「風呂ノゾキ」が発生した。

・阪田マサノブは、腕時計のアップシーンを撮るために、左腕を副木(そえぎ)に2時間固定された。

芝居以上に小道具撮影に時間をかけたことが『波の数だけ抱きしめて』の特徴だったそうです(その結果、阪田マサノブの左腕が腫れあがってしまった)。

・スタッフが小道具の撮影に勤しんでいる間、織田裕二は、千葉の千倉で趣味の釣りに明け暮れていた。

「織田裕二はあきれるくらいマイペース…」と記載されています(笑)

『波の数だけ抱きしめて』キャスト紹介

劇場パンフレットでは、主要キャストがコメントを寄せています。

1991年に「1982年の若者たち」を演じた若者たちを声をお聞きください。

中山美穂(田中真理子)

映画の舞台となる1982年は、ちょうどメイクに興味を持ち始めていた年ごろで、ブルーのアイシャドゥにパールピンクの口紅という、サーファー・メイクにも憧れていました。

撮影に入る前に日焼けサロンにも通って、ある程度下地を焼いておいてファンデーションを塗ったんですけど、自分でもびっくりしちゃうような変わりよう(笑)

<田中真理子>は「風を感じるようなイメージの女の子」ということなので、洋服なども選んでいます。

一番苦労したのはDJのシーン。

ニッポン放送の方に教えていただいて、曲つなぎも実際に私がやったんです。

この映画のお話をいただいたときに、単なるアイドル映画じゃないところが、とっても嬉しかったんです。

脚本を読んでみて、みんなが主役だって思えるし、5人の親しい友だちが、夢中になってひとつのことをやり遂げる、爽やかな青春ドラマ…

こんなふうにワイワイと楽しく仲間が集まって燃えることができるなんて、いいですよね。

本当に楽しく演じられた作品です。

1970年3月1日、東京都出身。中学1年の時、原宿でスカウトされ芸能界入り。1985年、「毎度お騒がせします」で鮮烈デビュー。「ビー・バップ・ハイスクール」(1985)のヒロイン役で映画初出演。

『波の数だけ抱きしめて』主演は中山美穂と織田裕二。中山美穂が異様に黒いのは1982年のサーファー・ギャルだったから。『波の数だけ抱きしめて』主演は中山美穂と織田裕二。中山美穂が異様に黒いのは1982年のサーファー・ギャルだったから。

織田裕二(小杉正明)

1982年当時の僕はまだ14歳だったので、洋楽でパッと頭に浮かぶのはTOTOの「ロザーナ」かな。

ちょうどFM放送を聴き始めた頃で、深夜放送なんか、よく聴いていました。

サーフィンは1、2回しかやったことがなかったけど、フリスビーはよくやってたから懐かしいなあ。

今から9年前の設定だけど、若者は若者なんだから根本的に変わりはないし、僕自身を、つまり織田裕二をさらけ出すことができるモチーフだと思っています。

<小杉正明>って、とにかく情けないヤツなんです。

真理子が他の男とデートしているのを尾行しちゃったり(笑)

演じているうちに、もっと情けない方向に崩したくなっちゃって、監督からストップかけられるくらいに。

前2作と違って、この映画ではモノより精神にこだわった作品だと思います。

僕自身、もうモノにこだわらなくていいんじゃないかって気持ちがあるしね。

一番の見どころは、やっぱり31歳の田中真理子(中山美穂)じゃないですか(笑)

それから、美穂ちゃんも由樹ちゃんも、びっくりするくらい真っ黒で、近くで見ると恐いくらい…(笑)

クライマックスで、小杉がラジオの電波を使って伝えるメッセージが、真理子に届いたかどうかは、観客の皆さんの判断次第ですね。

1967年12月13日、神奈川県出身。1987年の「湘南爆走族」(東映)で映画デビュー。1989年「彼女が水着に着替えたら」で、熊本映画祭ヤングシネマ男優賞受賞。今年(1991年のこと)は、「ベストガイ」(東映)、「就職戦線異状なし」(東宝)と映画主演作が相次ぐ。テレビドラマ「東京ラブストーリー」(フジ)のほか、歌手としても「歌えなかったラブ・ソング」が50万枚を超えるヒットを記録。

松下由樹(高橋裕子)

映画の舞台となる1982年は、まだ中学生でしたから、特別な思い入れはなかったんですが、台本を読み終え、当時の様々な情報を知って、そんなに若者に影響を与えた時代だったのかと、とても不思議でしたね。

それと同時に、開放的な雰囲気に溢れていた1982年という時代に、すごく惹かれたんです。

私が演じる<高橋裕子>は、女子美に通う大学生という設定で、とても大胆で直感を信じて行動するタイプで、例えば、離婚歴が5回くらいありそうな、恋愛経験豊富な感じ。

その反面、内面的には、意外と女の子らしいところがあって、とても魅力的ですよね。

この撮影の最後の日が、ちょうど私の23歳の誕生日で、スタッフの方が特製ケーキを用意して、お祝いしてくださったんです。

1968年7月9日、名古屋出身。1982年、映画「アイコ十六歳」で鮮烈なスクリーン・デビューを飾る。「この胸のときめきを」(1988)、「ZAZIE」(1989)、「私のサンタボーイ」(1989)等に出演。人気テレビドラマ「オイシーのが好き!」(TBS)や「想い出に変わるまで」(TBS)などでも活躍中。

松下由樹と別所哲也。脇役ながら、松下由樹のスポーティーなサマー・ファッションが最高に好きだった松下由樹と別所哲也。脇役ながら、松下由樹のスポーティーなサマー・ファッションが最高に好きだった

別所哲也(吉岡卓也)

1982年当時の僕は高校2年生。

女性のサーファー・ルックが全盛期で、宮崎美子さんのCMが話題になっていたんじゃないかな。

当時、FMが走りの頃で、僕も自分でPICK-UPしてテープを作っていましたね。

「アイ・オブ・ザ・タイガー」(サヴァイバー)なんか、懐かしさがこみあげてきます。

僕の演じている<吉岡卓也>は、他のみんなが学生最後の夏に燃えられるようなことをしようというのとは違って、2歳年上の社会人。

少しずつ学生時代を忘れかけていったり、社会へのあきらめみたいなものを感じている男なんです。

その頃の広告マンは体育会系が多くて、アウトドア派だったそうなんです、週末湘南へ行っているような感じの。

この映画のステキなところは、みんなが成長する姿が見られること。

恋愛にしても、ミニFM局に賭けることにしてもね。

1965年8月31日、静岡県出身。慶應義塾大学卒業後、1987年、ミュージカル「ファンタスティックス」の主役マットを演じて舞台デビュー。その後も「スター・シャイン」(1988)や「ガラスの仮面」(1988)など話題作に出演。1990年公開の超大作「クライシス」で脚光を浴びた。

坂田マサノブ(芹沢良明)

1982年頃は、FMも聴いていたけど、AMの深夜放送なんかも、よく聴いていました。

鶴光さんの「オールナイト・ニッポン」とか。

映画のセットの中にルービック・キューブやフリスビーなんかが置いてあって、思わず懐かしかったです。

1965年3月13日、大阪府出身。劇団の養成所時代に、同期生の前田真之介とコンビを組み、以来「Z-BEAM」として活躍中。

勝村政信(池本)

1982年を振り返ってみると、友だちがカセット・テープを作ってくれて、それこそアメリカン・ポップスをガンガン鳴らして車に乗っていましたね。

当時のビルボードのヒットチャートを見ると、懐かしい曲ばかり。

「愛と青春の旅立ち」(ジョー・コッカー&ジェニファー・ウォーンズ)や「アイ・オブ・ザ・タイガー」(サヴァイバー)なんか聴いていましたよ。

助手席にロング・レイヤードの女の子を乗せてね(笑)

1963年7月21日、東京都出身。会社勤めの後、蜷川スタジオに入る。「CLOUD9」(PARCO)や「さよなら騎士(ナイト)たち」などに客演。映画「僕が病気になった理由」「神様のピンチヒッター」でも話題に。

映画『波の数だけ抱きしめて』と松任谷由実

映画『波の数だけ抱きしめて』では、1982年当時に流行っていた洋楽のほかに、日本を代表するAORミュージッシャン、松任谷由実の作品が、全部で4曲使われています。

80年代のオシャレ映画には、やっぱりユーミンの音楽が欠かせませんでした。

心ほどいて

映画『波の数だけ抱きしめて』オープニング・ナンバー。

映画の主題歌といえば、この曲を想い出す人も多いのではないでしょうか。

冒頭の結婚式のシーンから、小杉と芹沢が思い出の湘南を訪れる場面で流れています。

アルバムでは、1989年発売の『LOVE WARS』に収録されています。

結婚式を歌ったものですが、ユーミン自身が式を挙げた、横浜山手教会がイメージになっているそうです。

映画の場面、そのままの曲ですね。

ちなみに、新婦・中山美穂の結婚相手となる新郎を演じているのは、湘南出身の兄弟デュオ・ブレッド&バターの岩澤二弓(弟)で、牧師役が岩澤幸矢(兄)という驚きの配役です(笑)

どうせだったら、劇中でブレバタの作品も起用してほしかったですね。

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Valentine’s RADIO

真理子と裕子、小杉、芹沢の4人が、ミニFM<KIWI>の活動に夢中になるシーンで流れています。

ちなみに、裕子がタワーレコードで買っているレコードは、TOTOの『Toto IV~聖なる剣』(1982年)。

映画にぴったりのラジオ・チューンで、アルバムでは、1989年発売の『LOVE WARS』に収録されています。

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SWEET DREAM

嵐の公衆電話から真理子に電話をかける小杉。

『波の数だけ抱きしめて』の名場面で流れています。

1987年発売のシングル曲で、アルバムでは『ダイアモンドダストが消えぬまに』(1987年)に収録されています。

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真冬のサーファー

映画『波の数だけ抱きしめて』エンディング・テーマ曲。

バック・コーラスには山下達郎が参加しているという、豪かな作品です。

アルバムでは『流線形’80』(1978)に収録されています。

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-Kiwi FM- オリジナル・サウンドトラック

映画『波の数だけ抱きしめて』は、オリジナル・サウンドトラックのCDが発売されています。

サントラCDは、映画公開時に発売された1991年盤のほかに、DVD・Blu-rayのリリースに合わせて発売された2010年盤(『波の数だけ抱きしめて Kiwi FM オリジナル・サウンドトラック(コンプリート版)』)があります。

今回は、映画公開時の雰囲気を再現するため、1991年盤の解説を参考に、収録曲をご紹介したいと思います。

映画『波の数だけ抱きしめて』オリジナル・サウンドトラックCD映画『波の数だけ抱きしめて』オリジナル・サウンドトラックCD

ユア・オンリー・ロンリー / J.D.サウザー

1968年にイーグルスのグレン・フライとデュオを結成し、プロとしての活動をスタートさせたジョン・デヴィッド・サウザーは、1972年にソトデビュー。

イーグルスやジャクソン・ブラウンとともに、アメリカ西海岸サウンドの代名詞と呼ばれました。

1979年12月に全米第7位を記録した「ユア・オンリー・ロンリー」は、日本でも大ヒットしました。

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ロザーナ / TOTO

1976年のボズ・スキャッグスの名作「シルク・ディグリーズ」のバック・ミュージシャンを中心に結成されたTOTOは、1978年にアルバム『TOTO—宇宙の騎士』でデビュー。

1982年のアルバム『TOTO Ⅳ』は全米第4位を記録するとともに、グラミー賞7部門制覇という偉業を成し遂げています。

シングル曲「ロザーナ」は全米2位を獲得しました。

常に最高の音を追求し、提供するロック集団です。

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キー・ラーゴ、カサブランカ / バーティー・ヒギンズ

フロリダ出身で、1960年代に「ローマンズ」というグループの主柱だったバーティー・ヒギンズは、1982年にアルバム『カサブランカ』で見事なソロ・デビューを飾りました。

全米第8位を獲得した「キーラ・カーゴ」は、繊細なアレンジが施されていて、きらめく夏の海を思わせる名曲。

「カサブランカ」は、1982年の日本で最大の洋楽ヒットとなった曲です。

哀愁溢れる美しい旋律は、今でも(1991年のこと)人々の心をとらえて離さないメロディとなっています。

2曲ともに、ハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマン主演の映画「カサブランカ」の中の台詞から引用したものを歌詞にしています。

1982年当時、70年代後半からブームになっているAORの頂点を築いたアルバムが、バーティー・ヒギンズの『カサブランカ』だったと言えるでしょう。

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愛を求めて / ネッド・ドヒニー

1973年、アサイラムからデビューしたネッド・ドヒニーは、1978年にCBS移籍第1弾として、アルバム『ハード・キャンディ』を発表。

「愛を求めて」を収録したこのアルバムは、ボズ・スキャッグスに代表される、円熟し、洗練された音楽(日本ではAORと呼ばれました)が大歓迎された時代を象徴すべく内容として登場しました。

このアルバムでは、リンダ・ロンシュタット、ドン・ヘンリー、グレン・フライ、デヴィッド・フォスターなどが参加。

その瑞々しい感覚は、現在でも(1991年のこと)色褪せることなく親しまれています。

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シャイン・オン / ジョージ・デューク

卓越したテクニックを披露するベーシスト、スタンリー・クラークとのクラーク・デューク・プロジェクトなどで知られるジョージ・デュークは、マルチ・キーボーディストであると同時に、ヴォーカル、作詞作曲、編曲、プロデュースまでこなす、マルチ・ミュージシャンです。

1982年のアルバム『ドリーム・オン』のシングル「シャイン・オン」は全米41位まで上昇。

アース・ウインド&ファイアーを彷彿させるポップ感覚溢れるアレンジで、1982年のディスコ・シーンでも大ヒットしました。

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憶い出の町 / ジェイムス・テイラー&J.D.サウザー

1970年に登場したジェイムス・テイラーは、全米1位の「君の友だち(You’ve Got A Freind)」などの大ヒット曲で知られるシンガー・ソング・ライターです。

日常生活の中の孤独感や、繊細な心象風景を爽やかに歌い上げるアーティストとして、数多くのミュージシャンに影響を与えてきました。

1981年発表のアルバム『ダディーズ・スマイル』からのシングル「憶い出の町」は、前述したJ.D.サウザーとの絶妙なデュエットで、心憎いばかりのストリート・ストーリーが展開されています。

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イン・ザ・ナイト / シェリル・リン

TOTOのデビュー・アルバムへの参加がきっかけとなって、1978年にポップ・シーンに登場したシェリル・リンは、シングル「ガット・トゥ・ビー・リアル」で全米12位を獲得。

スケールの大きい歌唱力とともに、ソングライター、サウンド・プロデューサーとしての才能も証明しています。

レイ・パーカーJr.がプロデュースしたサード・アルバム『イン・ザ・ナイト』からのシングル曲である「イン・ザ・ナイト」は、1982年当時、日本のディスコ・シーンで大ヒットしました。

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パーソナリティ / カーラ・ボノフ

1977年のカーラ・ボノフのデビューのきっかけは、才能あふれる彼女の作品3曲を、リンダ・ロンシュタットがアルバムに採りあげたことから始まります。

互いに共通項のあったカーラとリンダは、その後も強い絆で結ばれ、1979年に日本でも大ヒットした「涙に染めて」も、再びリンダ・ロンシュタットによって歌われることになりました。

この曲「パーソナリティ」は、1982年に全米で9位を記録したサード・アルバム『麗しの女~香りはバイオレット』からのシングル曲。

ポール・ケリーの作品で、全米19位まで上昇しました。

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ロンリー・フリーウェイ / ラリー・リー

ラリー・リーは、1975年に全米を3位を獲得した「ジャッキー・ブルー」の大ヒットで知られる、ミズーリ州出身のグループ<オザーク・マウンテン・デアデヴィルズ>の出身。

1982年にソロとして発表したアルバム『ロンリー・フリーウェイ』は、バックに元・TOTOのデヴィッド・ハンゲイト、ニッキー・ホプキンス、デヴィッド・サンボーンなどの豪華ミュージシャンを従え、オザーク時代とは打って変わって、メロディと洗練されたサウンドを中心にしたAOR路線で、新鮮な感覚を届けてくれました。

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以上、全10曲の豪華80年代AORが収録されたオリジナル・サウンドトラック。

夏のドライブのBGMとしても最高ですよ。

携帯電話も音楽配信サービスもない80年代の青春

さて、それでは、『波の数だけ抱きしめて』という映画の魅力は、いったいどこにあるのでしょうか?

鍵は「1982年の夏」というフレーズの中にあります。

この映画は、1991年の時点から9年前の夏を懐かしく思い出している、そういう設定の映画です。

1982年という時代にポイントを置くため、当時、リアルに流行していた洋楽(AORと呼ばれた)が、盛んに登場していることでも分かりますね。

この映画は、1982年という時代に思い入れを抱く人たちにとって、郷愁を抱かせてくれる作品なんだと思います。

それは、「ALWAYS 三丁目の夕日」で現代の人々が抱いたという、昭和30年代の日本に対する郷愁と似ています。

1991年公開の映画は、既に30年前の作品となり、1982年の夏は「40年前の夏」となりました。

『波の数だけ抱きしめて』は、バブル時代を経験した世代が、青春時代を懐かしく思い出すことのできる、極めて個人的な、そして永遠の青春映画なのです。

もちろん、青春の日々が、いつの時代も不変だということを考えると、この映画は、現代の若い方々にも、ぜひお勧めしたい映画です。

トレンディードラマが全盛だった時代に製作された青春映画は、現代の恋愛映画へと続く流れの源流のようなものでもあるからです。

音楽のある日常生活が当たり前になりつつあった1980年代初頭。

携帯電話も配信アプリもないからこそ、みんな、毎日を全力で生きていたのかもしれませんね。

まとめ

ということで、以上、今回は、夏の湘南を舞台にした爽やかな青春映画『波の数だけ抱きしめて』を全力でご紹介しました。

ホリチョイ三部作の完結編ですが、夏に観る映画としては、真っ先にお勧めしたい傑作です。

爽やかなAORもおすすめですよ。

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バブル世代のビジネスマン。読書と音楽鑑賞が趣味のインドア派です。お酒が飲めないコーヒー党。洋服はアーペーセーとマーガレット・ハウエルを愛用しています。