庄野至に「三角屋根の古い家」という随筆がある。
庄野至は、庄野英二・潤三の末の弟であり、「三角屋根の古い家」というのは、幼少時代の彼らが暮らした住宅、つまり実家のことだ。
「三角屋根の古い家」は、末弟の目から見た庄野一家の思い出話である。
帝塚山学院の創設者である庄野貞一と、その妻・春慧には、男5人、女2人の子どもがいた。
男は鷗一(おういち)、英二、潤三、四郎、至だが、四男の四郎は至が生まれるより前、3歳のときに病気で他界している。
女は滋子と渥子(あつこ)。
この家族の物語は、弟にとって憧れの存在だった3人の兄が主役となっているようだ。
酒に酔った潤三が「遥かなるティペラリー」という歌をうたい始めた。
潤三がこの四月から福岡の九州大学に入学することが決まったので、そのお祝い会もかねての久しぶりの家族全員の賑やかな食事だ。少し酒に酔った潤三が、外語一年の時に主幹の先生から教わった「遥かなるティペラリー」という歌をうたい始めた。これは第一次世界大戦の時に、英軍の将兵の間で熱狂的に流行っていて、皆これを歌いながら、銃を担いで戦線へ出ていったらしい。(庄野至「三角屋根の古い家」)
昭和17年、旧制大阪外国語学校(戦前にあった官立の外国語専門学校。現在の大阪外語大学)を卒業した潤三は、旧制帝国大学である九州大学へ進学した。
家族で進学祝いをした夜、酔った潤三は「遥かなるティペラリー」を歌う。
その夜は、加太の舞台にいる鷗一も、満州で暮らしている長姉の滋子も集まっていて、著者は「戦争中に家族みんなが集まったのは、この夜が最後だった」と回想している。
潤三は府立今宮中学の歴史の教師として就職することが出来た。
下の兄潤三は、うまい具合に欠員が出た府立今宮中学の歴史の教師として就職することが出来た。そして、何事にもせっかちな性分の父の考えで、わが家から僅か十五メートルほどの至近距離に住んでいた帝塚山学院卒業の綺麗な娘さんを、潤三の嫁にと強引に決めて、終戦翌年二十一年一月には、結婚させてしまった。(庄野至「三角屋根の古い家」)
昭和20年、終戦時に伊豆半島の海軍基地にいた潤三は、従軍から解放された後、地元の今宮中学(現在の今宮高校)で、歴史の教師として就職する。
そして、父の選んだ女性とスピード結婚するのだが、著者の至は「これは驚くほどに父の早業だったが、かなり頑固者の兄潤三が、この父のすすめる縁談に素直に従ったのだから、僕は不思議でならない」と、感想を述べている。
もっとも、「それから数十年がたったが、誰から見ても、潤三はとても幸せな結婚生活をしている。父のあの時の、カンと早業には敬服せざるを得ない」と補足することも忘れていないのだが。
父はさらりと読んで、「まあまあじゃ」と言った。
早目に畑仕事は終わった。風呂から上がった潤三は、自分の詩が載っている最近出た雑誌を、(今にして思うとそれは、藤沢恒夫氏や長沖一氏などで出された『文学雑誌』創刊号に違いない)父にも読んでもらいたいと持って来ていた。父はさらりと読んで、「まあまあじゃ」と言った。(庄野至「三角屋根の古い家」)
結婚して、家族とは別に暮らしていた潤三は、自分の作品が掲載された同人誌を父に見せるが、父の反応は驚くほど呆気ないもので、「潤三は父の素っ気ない感想にがっかりしたのか、すぐに雑誌を鞄にしまった」とある。
もっとも、滅多に来ない潤三が帰ってきたことでご機嫌だった父は、大事にしているウイスキーを出してきて、潤三と飲み始める。
「潤三は酒が入ると話上手になる」らしく、「ふだん無口な潤三だが、こんなときは独特の語り口で饒舌になる」という。
この夜、潤三は、今宮中学野球部の部長になって甲子園を目指していること、九州大学の先輩の島尾敏雄と同人雑誌を始めることになったことなどを話して、父と母を楽しませた。
兄・潤三が、まだ芥川賞を受賞する前の、懐かしい家族の思い出である。
書名:三角屋根の古い家
著者:庄野至
発行:2008/12/19
出版社:編集工房ノア