読書体験

サリンジャー「倒錯の森」知的な人妻はなぜ詩人の夫を寝取られたのか

サリンジャー「倒錯の森」あらすじと感想と考察

サリンジャー「倒錯の森」読了。

本作「倒錯の森」は、1947年(昭和22年)12月『コスモポリタン』に発表された中篇小説である。

この年、著者は28歳だった。

アメリカ本国では単行本化されていないが、日本では1968年(昭和43年)11月、荒地出版社から刊行された『サリンジャー選集3倒錯の森<短編集Ⅱ>』に収録されている。

少女時代に恋した男性と19年ぶりに再会

本作「倒錯の森」は、最愛の夫を他の女に寝取られてしまう人妻<コリーン>の悲しみを描いた物語だが、主人公は、詩人である夫<レイモンド・フォード>だ。

そもそも、コリーンとフォードは、子ども時代の友人同士だったが、コリーンの11歳の誕生日の夜、フォードはシングルマザーの母親に連れられて、遠い街へ行ってしまう。

コリーンは、フォードのことが忘れられないまま大人になり、彼女を愛する雑誌編集者<ロバート・ウェイナー>からの婚約指輪も受け取ることができない。

30才の誕生日の贈り物としてウェイナーからもらった詩集の作者が、偶然にもレイモンド・フォードだったことから、二人は19年ぶりに再会し、やがて結婚をする。

フォードの本の中にあったひとつの詩が、この作品タイトルの由来となっている。

荒地ではなく/木の葉がすべて地下にある/大きな倒錯の森なのだ(サリンジャー「倒錯の森」刈田元司・訳)

実は、フォードは、一般社会との交際が苦手な芸術家であり、通俗的な世の中に迎合することができない。

通俗社会にとってそこが荒れ地であっても、芸術家は、俗人からは見えない地下に大きな森を持っている。

「倒錯の森」は、そんな芸術家に恋をした女性の悲劇の物語なのだ。

彼の詩集のファンだという女子大生<バニー・クロフト>が自作の詩の批評を求めたとき、フォードは、彼女の作品を厳しく非難する。

「詩人は詩を創作するのではないのです──詩人は見つけるのです」特にだれに言うのでもなくそう言った。「聖なるアルフ河の流れている場所というのは」と、彼はゆっくりとつけ加えた、「創作されたのではなく、発見されたのです」(サリンジャー「倒錯の森」刈田元司・訳)

「聖なるアルフ河の流れている場所」は、もちろん、コールリッジ「クーブラ・カーン」からの引用だろう。

ちなみに、村上春樹の新作『街とその不確かな壁』においても、コールリッジの「クーブラ・カーン」がエピグラムとして引用されている。

少女時代に恋した男性と19年ぶりに再会するところなど、村上春樹的と言えなくもない(「地下にある大きな森」は、「大きな壁の中にある街」を連想させる)。

彼女を愛するウェイナーは、フォードとの結婚に強く反対するが、コリーンには芸術に生きる男の異常性を、しっかりと理解できてはいなかったようだ。

倒錯の森は、他の誰にも見ることのできない人間の内面だ

最愛の夫フォードが、自称女子大生のバニーと駆け落ちしてから、コリーンは、二人の行き先を粘り強く探し続ける。

二人が姿を消してから一年半後、彼らの住んでいる場所を突きとめてきたのは、コリーンを愛するウェイナーだった。

興奮したコリーンは、直ちに二人が暮らしている街へ乗り込むが、夫フォードは、既に昔のフォードではなかった。

結婚当時には、一度も酒を飲んだことのなかったフォードが、今やアル中となり、女房のバニーからは「この馬鹿」などと呼ばれている。

惨めな暮らしをしているフォードに、コリーンは一緒に帰るよう懇願するが、フォードは首を振る。

「コリーン、ぼくは帰るわけにはいかないんだよ」「なんですって?」「まだ脳(ブレイン)が、いっしょにいるんだよ」と、フォードが簡単に説明した。コリーンは首を振ると、不可解さと絶望さのあまり息がつまりそうだった。「脳(ブレイン)だよ、脳(ブレイン)だよ」彼はひどくいらいらしながら言った。(サリンジャー「倒錯の森」刈田元司・訳)

フォードは、コリーンの11歳の誕生日の夜に、一緒に街を出た母親のことを思い出させる。

アル中で、幼い息子を虐待していた母親の姿を、フォードは、バニーの中に認めていたのだ。

コリーンが11才の頃の恋人の元へたどり着いたのと同じように、フォードもまた、11歳の頃の母親の元へ帰りたかったのだろう。

バニーは、また、通俗小説を書く作家でもあったから、創作を軽蔑するフォードが、通俗作家であるバニーと一緒に暮らすことは、芸術的な意味においても、フォード自身の破滅につながる行為だった。

芸術家は通俗社会の前に生き残ることができなかったのである。

これは、現代社会において、芸術家が生き残ることの難しさを風刺的に描いた物語ということができるだろう。

そして、結局のところ、倒錯の森は、他の誰にも見ることのできない人間の内面である。

見えないものを見ることは、サリンジャーにとって永遠の課題だったのかもしれない。

作品名:倒錯の森
著者:J・D・サリンジャー
訳者:刈田元司
書名:倒錯の森
発行:1968/11/30
出版社:荒地出版社

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ABOUT ME
みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。