旧・文芸スノッブ

小沼丹「揺り椅子」どんな人にも過去はあり、年を取るほど過去は増えていく

小沼丹「揺り椅子」読了。

本作「揺り椅子」は、1965年(昭和40年)7月『日本』に発表された短編小説である。

この年、著者は42歳だった。

作品集としては、1969年(昭和44年)4月に講談社から刊行された『懐中時計』に収録されている。

物語の主人公が、突然にタイム・スリップしてしまう

小沼丹の作品では、物語の主人公が、突然にタイム・スリップしてしまうことが多い。

そのタイム・スリップは、肉体的なタイム・スリップではなく、精神的なタイム・スリップである。

ほんの些細な何かをきっかけとして、主人公はいきなり過去の世界へと放り込まれてしまう。

本作「揺り椅子」において、タイム・スリップのきっかけは、阿佐ヶ谷駅前にあるプールだった。

それは、中央線が高架式となったばかりのことで、この日初めてプールを高いところから見下ろしたとき、そのタイム・スリップはやって来たのだ。

これ迄長いこと中央線に乗っていて、当然、長いことプウルを見て来たが、ついぞTのことなぞ想い浮べたことは無い。それが、この日初めて高い所からプウルを見降ろす恰好になったら、ひょっこり、Tが記憶に甦った。どう云うことなのか、さっぱり判らない。(小沼丹「揺り椅子」)

この物語の語り手は<大寺さん>である。

そして、物語の主人公は、大学の予科で仲間だった<T>である。

プールをきっかけに、大寺さんは、かつて仲間だったTのことを思い出していく。

そのとき、Tの薄暗い寒い部屋で何の話をしたか、大寺さんは一向に憶えていない。いや、一つだけ憶えている。「──早く齢を取りたいよ」Tはそんなことを云った。或は、早く老人になりたいと云ったのだったかもしれない。(小沼丹「揺り椅子」)

二軒長屋の一軒の階下を借りて、Tは姉さんと二人で暮らしていた。

もちろん、「──早く齢を取りたいよ」と言った、あの頃のTの苦しみを、大寺さんたちは理解していなかった。

その理由を、大寺さんが何となくでも悟ることができるのは、もっと、ずっと後のことだった。

小沼丹の小説を読むと、年を取ることが怖くない

物語の最後の場面で、大寺さんは、揺り椅子に揺られながら昔を思い出している。

どこに行くのか? 大寺さんは知らない。Tはどんどん歩いて行って、やがて姿を消してしまう。どこに消えたのか? 大寺さんには判らない。揺り椅子に坐って、大寺さんは庭の柿を長いこと見ていた。(小沼丹「揺り椅子」)

最後に会ったとき、Tは大寺さんに柿を買ってくれたのだ。

だから、この場面で、柿は、大寺さんをタイム・スリップへと誘いこむ導入剤となっている。

この小説では、冒頭部分と最終部分とで、タイム・スリップへと入り込むきっかけが、さりげなく変化しているのだ。

冒頭のプールで、Tのことをいろいろと思い出した後、Tに関する記憶は様々なものにつながっていったのだろう。

大寺さんには、タイム・スリップ癖があったのかもしれない。

「──遠い昔のことだ」と大寺さんは思った。何だか揺り椅子を揺する度に、昔に戻る気がする。大寺さんは秋の夜新宿でTに会ってから、その后一度もTを見ていない。Tが生きているかどうかも知らない。知っているのは、Tが兵隊になったと云うことだけである。(小沼丹「揺り椅子」)

さしずめ、揺り椅子はタイム・マシーンなのだろう。

「何だか揺り椅子を揺する度に、昔に戻る気がする」というところがいい。

思うに、精神的なタイム・スリップというのは、小沼丹だけに与えられたものではない。

どんな人にも過去はあり、年を取るほど過去は増えていく。

50歳を過ぎれば、未来よりも過去の方が多いわけで、それだけタイム・スリップで楽しむことのできる思い出も多い。

小沼丹の小説を読んでいると、年を取ることが怖くなくなるから不思議だ。

作品名:揺り椅子
著者:小沼丹
書名:黒と白の猫
発行:2005/09/15
出版社:未知谷

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。メルカリ中毒、ブックオク依存症。チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。札幌在住。