地域

庄野潤三の自宅(山の上の家)から、長女の餅井坂、長男の西長沢、次男の多摩美を歩く

庄野潤三の自宅(山の上の家)から、長女の餅井坂、長男の西長沢、次男の多摩美を歩く

庄野潤三の小説の舞台となった神奈川県生田を訪問。

せっかくなので、独立した子どもたちが暮らした町も歩いてみた。

生田、長沢、西長沢、餅井坂(黍坂)、そして、読売ランド前(多摩美)。

時代は変わっても、そこには、庄野文学の世界がある。

庄野潤三「山の上の家」

川崎市三田にある庄野潤三の自宅(山の上の家)川崎市三田にある庄野潤三の自宅(山の上の家)

今回の文学散歩は、庄野潤三の自宅(いわゆる「山の上の家」)からスタート。

最寄り駅は、小田急線「生田」駅で、駅からは(急な)上り坂を20分(強)ほど歩かなくてはならない。

庄野さんも、晩年はバスを利用していたらしいから、生田駅前から川崎市営バスを利用してもいい。

帰りはバスで帰る。昔は生田へ行くとき、帰りも歩いたが、近ごろはバスに乗る。(略)近ごろでは私がバスに乗りたがるので、妻はもう聞かなくなり、生田駅のエスカレーターを上って、階段を下りて、バスの乗り場へ行く。(庄野潤三「星に願いを」)

現在、生田駅周辺には、複数の大学のキャンパスがあって、生田駅は多くの大学生で混雑している(明治大学や専修大学、日本女子大学など)。

ここへ集まってくる大学生は、生田が、庄野文学の舞台であることを知っているのだろうか。

『夕べの雲』の舞台となった浄水場。『夕べの雲』の舞台となった浄水場。

庄野一家が、東京都内から生田の丘の上へと引っ越してきたのは、1961年(昭和36年)4月のこと。

当時の様子は、代表作『夕べの雲』に詳しい。

ましてここは便利のいいところではない。駅から二十分と大浦はいうが、それは彼の体力と健康からいうことで、細君にとっては二十分なんていうものではない。「行けども行けども、まだ現れない」というのが、彼女の実感なのである。(庄野潤三「夕べの雲」)

「山の上の家」の住所は、かつて自宅公開をしていたときの情報が、ネット上に今も残っているし、『庄野潤三の本 山の上の家』(夏葉社)を読んでも分かる(自宅住所が明記された郵便箱の写真あり)。

長女・夏子が暮らした餅井坂

長女・夏子が暮らした餅井坂の風景。長女・夏子が暮らした餅井坂の風景。

1970年(昭和45年)5月、長女・夏子は、今村邦夫と結婚。

新婚夫婦は、餅井坂の借家に暮らした(作品中「黍坂」のモデル)。

黍坂というところに、和子たちの入る借家がある。バスは、昼間は一時間に一本くらいしか通らない代りに、もし利用する気なら、なかなかこれで役に立つ。(庄野潤三「明夫と良二」)

「餅井坂」は、地元の人たちからは「餅坂」とも呼ばれていて、バス停にも「餅井坂」と「餅坂」の名前が残る。

餅井坂で見かけた古い民家。餅井坂で見かけた古い民家。

黍坂の手前まで来たら、下の深い谷になっているところにも、稲が植わっているのが見えた。妻がバスからおりると、あとには客がひとりだけになった。(庄野潤三「野鴨」)

餅井坂を歩くと、ブックオフやファミリーマートのある、普通の住宅街だった。

長女が暮らした時代から、なにしろ50年以上の時間が経過しているのだ。

最晩年の作品では、長女の長男夫婦(和雄と聡子ちゃん)が暮らす町としても登場。

寿司とうなぎ「益膳」

寿司とうなぎの「益膳」。寿司とうなぎの「益膳」。

餅井坂から長沢へ歩いていくと、庄野さんの小説でもおなじみの「益膳」が現れる。

益膳の会(十五日)。次男一家がインド洋のモルジブ島への旅から無事元気で帰国したのを祝う会をひらくことにして、五時半に近くのすし屋の益膳に集まる。(庄野潤三「庭の小さなばら」)

正月のお祝いで、うなぎや寿司の出前を頼んでいたのも、ここ「益膳」だ。

九時半に家を出て、南生田小学校へ。元日にみんな集まるとき、うな重やおすしを出前してもらう「益膳」の店の前を通ってまっすぐ南へ。少し遠かった。(庄野潤三「鳥の水浴び」)

孫たちが大きくなると、元日の出前も、全員がお寿司に変わった。

長男・龍也が暮らした西長沢

長男・龍也の暮らした西長沢あたりの風景。長男・龍也の暮らした西長沢あたりの風景。

「益膳」からほど近くに、長男・龍也の暮らした西長沢がある。

長男のところでは、「山の下」の大家さんの庭に建てた借家にずっと暮しているが、子供が二人になり、手狭になったので、どこかもう少し大きい家を見つけて移りたいといって、探していた。今度、西長沢──昔、長女が結婚したときに入った借家のある餅井坂の近くらしい──に二階建の手ごろな家が見つかった。(庄野潤三「山田さんの鈴虫」)

割と、昔ながらの雰囲気が残る、ゆったりとした地域だ。

西長沢には昔ながらの雰囲気が残る。西長沢には昔ながらの雰囲気が残る。

長男一家が「山の下の家」から西長沢へ引っ越しをしたのは、1999年(平成11年)6月のこと(『うさぎのミミリー』)。

中学校で次男と一緒だった松沢たけしの一族は、この辺りの大地主だったらしい(古い作品では「大沢君」として登場)。

細君が大沢君の家へ電話をかけると、最初に誰か女の人が出て、お母さんを呼んでくれた。近所に親戚がいっぱいいる。大沢君の身内だけでうしろの山にお稲荷さんを祀っているくらいである。(庄野潤三「明夫と良二」)

あちこちに「松沢」という家があり、「松沢家の墓」があった。

長男・次男の暮らした「山の下」

長男や次男が暮らした「山の下」あたりの風景。長男や次男が暮らした「山の下」あたりの風景。

結婚して家を出た長男と次男は、実家(山の上の家)から坂を下ったところにある借家で暮らした。

同じ大家さんの向い合せの家作にいる長男夫婦と次男夫婦(私たちの家の前の坂道を下りて行った先、丘と丘の間に挟まれた谷間のようなところにいるから、この二軒を合せて「山の下」と私たちは呼んでいる)のところへ、夕方、届け物をして帰った妻から最初に聞いた。(庄野潤三「さくらんぼジャム」)

長沢地区は、今も随所に畑が広がる、懐かしい風景を残している。

次男夫婦が、「山の下」で暮らすようになったのは、1985年(昭和60年)10月のこと。

一月前に結婚して、長男と同じ大家さんの、向い合せの借家で世帯を持つようになった次男だが、もと自分が寝起きしていた部屋から運び出さないといけない荷物が残っていた。(庄野潤三「世をへだてて」)

この翌月の11月に、庄野さんが脳内出血で入院したことは、闘病記『世をへだてて』に詳しい。

「山の下」から「山の上の家」へと続く道を上る。「山の下」から「山の上の家」へと続く道を上る。

子どもたちが暮らす「山の下」は、「山の上の家」から近いかもしれないが、なにしろ丘と丘の谷間にあるので、どこへ行くにも坂道を上らなければならない。

もっとも、生田駅から西三田団地を通って「Z坂」を上っていくよりは、長沢からの上り道の方が、かなり歩きやすいことは確か。

庄野潤三がタンメンを食べた「味良」

庄野潤三がタンメンを食べた「中国料理味良(みよし)」。庄野潤三がタンメンを食べた「中国料理味良(みよし)」。

長沢地区の散歩が終わったら、生田駅まで戻って、駅前を歩いてみる。

庄野さんがタンメンを食べた「中国料理 味良(みよし)」は、生田駅から歩いてすぐの国道沿いにある。

地元の人気店らしく、いつ行っても賑わっている印象だ。

柿生のだるま市の帰りに、生田の駅前の中国料理店の「味良(みよし)」に入って、窓ぎわの日当りのよい卓でたんめんを食べるのがきまり。キャベツやもやしのたっぷりのったたんめんで、スープがおいしい。(庄野潤三「けい子ちゃんのゆかた」)

庄野ファンは、ここで「たんめん」を食べる。

生田駅前「中国料理 味良」のたんめん。生田駅前「中国料理 味良」のたんめん。

席に着くなり「たんめんとギョウザ」を注文する常連客も多いらしい。

昼前だというのに店内は満席で、入り口には席待ちしている客が数組あった。

野崎書店で「庄野潤三展」のポスターを発見。野崎書店で「庄野潤三展」のポスターを発見。

「味良」の向かいにある「野崎書店」で、庄野潤三展(神奈川近代文学館)のポスターを見つけた。

次男・和也の暮らした「読売ランド前」

次男・和也の暮らした「読売ランド前」多摩美地区の風景。次男・和也の暮らした「読売ランド前」多摩美地区の風景。

「山の下」の次男一家は、1992年(平成4年)10月29日、多摩美地区へ引っ越しをした。

読売ランド前で電車を下り、跨線橋を越えて百合ヶ丘の方へ行く道を渡る青信号の手前に立っていたら、通りかかった車が停って、ミサヲちゃんが顔を出した。(略)運がよかった。たちまち丘の上の多摩美二丁目の次男の家に着く。(庄野潤三「さくらんぼジャム」)

以後、次男の家は「読売ランド前」として登場することになる。

まわりにマンションが一つも無く、派手な大きな家も無い。みんな同じくらいの敷地につつましく建てた家で、好もしい。それに次男が生田小学校のころに友達と目白やアケビを取った山のすぐそばというのがいい。(庄野潤三「さくらんぼジャム」)

つつましいのはともかく、小田急線「読売ランド前」の駅からここまでは、庄野さんの自宅に負けないくらいに坂を上らなければならない。

フーちゃんがお父さんと一緒にクワガタを取りに行ったのは、どこだろう? いつも立ち止って妻と二人で眺めては、「いいところだなあ」と感心する、生田のつづきのあの山へ入ったのだろうか?(庄野潤三「ピアノの音」)

山の森からはウグイスの声も聞こえてきて、なんだか、ずいぶん遠くまで来たような気がした。

まとめ

餅井坂から長沢、三田、多摩美と歩いた、今回の生田地区「庄野潤三」文学散歩。

とにかく、坂の上り下りが多かった(けれど、楽しかった)。

『夕べの雲』(1965)から、ほぼ60年。

景観は変わってしまったかもしれないけれど、庄野文学の舞台は、今も健在だ。

ABOUT ME
みつの沫
バブル世代の文化系ビジネスマン。源氏パイと庄野潤三がお気に入り。