旧・文芸スノッブ

メタ認知を導く文学コーデのすすめ │ 文学をファッションへ置き換えたときに見えてきたもの

メタ認知を導く文学コーデのすすめ │ 文学をファッションに置き換えたときに見えてきたもの

村上春樹に「牡蠣フライ理論」というのがある。

自分自身について語る必要があるとき、自分の好きな牡蠣フライについて語ればいい、という考え方だ。

こんにちは。原稿用紙四枚以内で自分自身を説明するのはほとんど不可能に近いですね。おっしゃるとおりです。それはどちらかというと意味のない設問のように僕には思えます。ただ、自分自身については書くのは不可能であっても、たとえば牡蠣フライについて原稿用紙四枚以内で書くことは可能ですよね。だったら牡蠣フライについて書かれてみてはいかがでしょう。(村上春樹「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」『雑文集』所収)

牡蠣フライに自分自身を投影して説明することによって、あるいは、自分自身を説明することができるかもしれない。

言葉が不完全なものである以上、そこにあるのは、あくまでも可能性への期待でしかないが、少なくとも、何も語らないよりはマシだという姿勢が、そこにはある。

それでは、牡蠣フライを文学に置き換え、さらに、文学をファッションへと変換すると、どのようなことになるだろうか。

難しい話ではない。

人は、どんな服を着ているかによって、自分自身を語ることができるように、どんな文学を愛読しているかということによっても、自分自身を語ることができる(はずだ)。

文学を分かりやすくファッションに置き換えてみることで(可視化)、あるいは、自分という人間を客観視することができるのではないだろうか(メタ認知)。

文学コーデのスタイルは5つ

我々のスタイル(コーデの考え方)は、大雑把に言って、「コンサバ(きれいめ)」と「カジュアル」に分類することができる。

ここでは、自分を語ることが主題だから、あまり細かい分類は必要ない(細かい分類にこだわらないという姿勢が、そもそも既に自分を語っているかもしれない)。

文学に置き換えると、純文学(芥川賞の対象となる)と大衆文学(直木賞の対象となる)ということになるだろうか。

ただし、純文学の世界も、時代によってかなり変化しているので、昔ながらの文豪の作品を「トラッド(トラディショナル)」とし、現代に直接つながるものを「コンサバ」としておこう。

これらの「トラッド」「コンサバ」「カジュアル」の3つが、文学コーデの基本となるが、もう少し変化をつけるために「コンテンポラリー」と「ヴィンテージ」を加えてみる。

「コンテンポラリー」というのは、新しい時代を感じさせるエポックメイキングな文学作品のことで、文芸雑誌が主催する新人文学賞では、こうした作品に受賞が与えられる傾向が強い。

あとに続くかどうかはともかく、その瞬間のインパクトはすごいことは確か(大抵は話題作となる)。

「ヴィンテージ」と言うと、ファッション界隈では古着のことを意味するが、文学コーデの上では、現在ではあまり読まれることのなくなった古い作品ということになる。

これで「トラッド」「コンサバ」「カジュアル」「コンテンポラリー」「ヴィンテージ」という5つのカテゴリーが整理できたが、さらに「絶対定番」を置いておきたい。

これは、スタイルを越えて、永遠に読み続けていきたいと思える、自分だけの定番作品のことだ。

要は「お気に入り」とか「おすすめ」のことで、「無人島へ持っていきたい10冊」とか「名刺代わりの10冊」などの作品は、この「絶対定番」の中から選ばれることになる。

文学作品をファッションコーデに置き換えてみる

次に、自分の読書傾向を、ファッションスタイルに置き換えてみよう。

まず、夏目漱石や島崎藤村、太宰治などのいわゆる文豪作品は「トラッド」である。

ブルックス・ブラザーズやJ.PRESSに代表されるアメトラは、いかにも「オシャレしてます感」があるように、「漱石や太宰が好き」と言えば、いかにも「文学好きです」というイメージを与えることができる(あまりに鉄板なので逆に通俗的な印象すらある)。

ただし、毎回トラッドばかりでは、少々堅苦しい感じがしないではないので(疲れそうだ)、日常コーデの基本は、やはりコンサバである(つまり、当たり障りのないきれいめコーデということ)。

自分の好きな作家で当てはめると、井伏鱒二や庄野潤三、小沼丹などは、コンサバな作家ということになるだろうか。

いつも、きれいめばかりでは飽きるから、時にはカジュアルコーデも入れたい(それが人情)。

カジュアルコーデに関して、自分としては、特定の作家やジャンルがあるというよりも、そのとき、気になっている作品を、手当たり次第に読むことが多い。

難しいのは村上春樹で、芥川賞候補になっているという意味ではコンサバなんだけれど、ファンタジックな要素も多かったりと、本当にコンサバか?という気持ちもしないではない。

結局、コンサバとカジュアルの良いところを組み合わせたスタイルが村上春樹という文学であって、だからこそ、我々は、村上春樹の小説を「自由で楽しい」と感じるのではないだろうか(村上春樹の言葉で言うと、レイモンド・チャンドラーとドストエフスキーを組み合わせた世界観、ということになる)。

ファッション上級者の高等テクニックだけれど、オシャレ度は、たぶん一番高いのではないかと思われる(デニムにブレザーを合わせたり、スーツにスニーカーを合わせたりするやつ)。

個人的に好きなのはヴィンテージで、特に、周りの知らないようなレアなブランド(作家や作品)を発掘してくるのが得意。

最近は、小山清とか木山捷平とか上林暁とか、ヴィンテージの復活(再評価)も進んでいるけれど、忘れられている重要ブランドは、まだまだ多い(十和田操とか島村利正とか復刻してほしい)。

いわゆるファッションブランドではないブランドが出したアイテムも大好物で(大学教授である村上菊一郎が出版したエッセイ集みたいに)、周りと差を付けるのに、ヴィンテージは極めて有効。

ただし、ジャンク(駄作)が多いのも事実なので、時間を無駄に消費することのよう、今の時代とどのように組み合わせることができるかという観点に立って精選する必要はある(現代風の解釈)。

最近凝っているのは,奇抜なデザインが特徴のコンテンポラリーで、特に80年代に現出した若手作家の作品には、目を見張るようなものが多い。

現代性を有しているかどうかはともかく、少なくとも、その時代の輝きの片鱗というものを身にまとっているし、むしろ、現代性を失ってしまっているからこそ、コンテンポラリーと言えるのかもしれない。

絶対定番から見えてくるメタ認知

こうした中から、自分だけの絶対定番を絞り込んでいくと、おぼろげながら、自分という人間が見えてくる。

数が多いのは、やはり村上春樹と庄野潤三で、自分の読書は、カジュアル寄りのコンサバが中心になっていることが分かる。

つまり、カジュアルコーデであっても、ストリートに振れたりしない、安定志向のきれいめコーデということだ。

夏目漱石や島崎藤村が、時々まじるなど、トラッドな傾向も見られるが、奇抜なものは定番として入ってこないから、オシャレで冒険するタイプではないとも読める。

一方で、ヴィンテージにこだわるなど、周りと同化することに対する拒絶反応も強く、変なところで自己主張しがちだと思われているのかもしれない。

こうやって、文学をファッションに置き換えて、自分を分析してみると、意外と客観的に自分を観察することができるから不思議だ。

「無難な安定志向が強いわりに、変なところで自己主張する」というのは、まさに、自分という人間の生き方を、そのまま表しているような気がする。

文学でファッションでも、個人的な姿勢というのは(つまりライフスタイルというのは)、案外共通しているものなのかもしれない。

「牡蠣フライ理論」からはかなり発展してしまったけれど、文学コーデで自分を占ってみるというのも、メタ認知には意外と有効なのではないだろうか。

ABOUT ME
みつの沫
バブル世代の文化系ビジネスマン。源氏パイと庄野潤三がお気に入り。