太宰治『女生徒』あらすじと考察|「わるいのはあなた」と最後の祈り
太宰治『女生徒』は、思春期の女性が持つ心理的な葛藤を手記形式で綴った短編小説である。
愛読者からのファンレターを素材とするこの小説で、太宰治は何を伝えようとしていたのか?
この記事では、本作『女生徒』のあらすじを整理するとともに、この作品が持つ主題について、独自の視点から考察していきたい。
3行でわかる『女生徒』
発端(朝の憂鬱と世界への違和感)
朝目覚めた瞬間の虚無感や眼鏡を通した現実の生々しさに苛まれながら、思春期の少女は家族や周囲の大人が見せる欺瞞に息苦しさを募らせる。
展開(通学路の思考とロココの憧れ)
学校や日常のなかで自他のあさましさに身悶えしつつも、自然の美しさや「ロココ」の軽やかな世界に惹かれ、少女の心は激しく揺れ動く。
結末(夜の絶望と明日への祈り)
大人になれば純粋さを失い汚れてしまうという恐怖を抱きながら、少女は世間の不条理に抵抗するように「よい明日」を願い眠りにつく。
『女生徒』の簡単なあらすじ
多感な女学校生活を送る少女が、朝目覚めてから夜床に就くまでのわずか一日の内面を描いた独白形式の短編小説である。
朝、目覚めた瞬間に押し寄せる得体の知れない憂鬱と虚無感のなか、少女は眼鏡をかけることで外界の無残な現実が生々しく見えてしまうことに苛立ちを覚える。最愛の父を亡くし、母と二人で暮らす生活のなかで、少女は母の卑屈さや客僧たちの俗っぽさ、学校の友人や教師たちの欺瞞に過敏に反応し、同時にそうした他者を冷ややかに批判しながら俗物に憧れてしまう自身の卑しさにも激しく自己嫌悪する。
通学電車の乗客、道端の花、洋服のほころびといった些細な日常の断片に触れるたび、少女の心は絶望と幸福の間を振り子のように揺れ動く。彼女は「ロココ」のような無駄で軽やかな美しさに憧れながらも、歳を重ねるにつれて世間に順応し、無神経な「大人」へと変貌していく自らの未来をひどく恐れていた。
夜、ひとりで床に入った少女は、「わるいのは、あなただ」と自らを規定しようとする不条理な世間へ心の中で激しく抗議する。そして、明日もまた同じ苦しみが訪れる予感を抱きながらも、夜の闇に守られた純粋な祈りとともに、かすかな希望を込めて静かに眠りへ落ちていくのだった。
【考察】悪いのは誰か?
本作『女生徒』は、ひとりの人間の中に潜む多重人格的で複雑な感情を可視化した物語である。
①思春期の葛藤
物語の主人公が「女生徒」に設定されているのは、思春期の女性が持つ心理的な葛藤を、分かりやすく浮き彫りにするためだろう。
物語の語り手でもある「私」は、ひとつの価値観では推し量ることのできない、複雑な感情の中で生きている。
「カアは、きたない」「カアは、悲しくて、いやだ」「おまえは誰にも可愛がられないのだから、早く死ねばいい」と言った朝の彼女と、「カアは、可哀想。けさは、意地悪してやったけれど、あすは、かわいがってあげます」と言った夜の彼女とはまったく同じ人物で、この情緒の揺れが、この小説の大きな軸となっている。
気持ちの揺れは、彼女の生活の中から生まれてくるものだ。
「こんな傘を持って、パリイの下町を歩きたい」という憧れと、「現実は、この古ぼけた奇態な、柄のひょろ長い雨傘一本」という現実との大きな乖離の中で、彼女は生きていた。
「夢と現実」「善と悪」「社会と個人」という、様々なコントラストの中で、彼女は彼女自身の居場所を確保しなければならない。
美しく生きたいと思います。(太宰治『女生徒』)
受け容れることのできない俗悪な社会の中で、それでも「美しく生きたい」と願う気持ち。
こうした感情は、一般に「思春期の葛藤」と呼ばれて、本作『女生徒』の大きな主題としてとらえられている。
②人間としての葛藤
一方で、彼女が抱える葛藤は、大人も含めた人間としての葛藤でもあった。
嘘をつかない人なんて、あるかしら。あったら、その人は、永遠に敗北者だ。(太宰治『女生徒』)
道徳と倫理などという「きれいごと」だけでは、世の中、生きていけないことを、我々は知っている。
それは、人間社会に与えられた普遍的な葛藤である。
その葛藤を言い訳として、我々は「きれいごと」では済まされない社会を生きていかなければならないからだ。
そう考えたとき、本作『女生徒』は、単なる少女小説でもノスタルジーなお伽噺でもなくなる。
ある意味で、この小説は、厳しい現実社会を生き延びていくための応援メッセージとして機能しているのだ。
③「わるいのは、あなただ」の意味
物語の終盤、彼女は有名な言葉を綴っている。
きっと、誰かが間違っている。わるいのは、あなただ。(太宰治『女生徒』)
間違っているのは我々であり、彼女自身でもある。
「幸福は一生、来ないのだ」とわかっていても、彼女は「きっと来る、あすは来る」と信じて寝なければならない。
それは、彼女が、この「現実社会」を許容して生き続けていくことを示唆している。
ほんとうに私は、どれが本当の自分だかわからない。(太宰治『女生徒』)
いろいろな「自分」を抱えて、生きていかなければならない我々の人生。
そこに、この作品の命題があり、生きていくことの難しさがある。
それでも「私は、王子さまのいないシンデレラ姫」という最後の言葉には、彼女の希望が託されていたのかもしれない。
【解説】『女生徒』のモデルとなった女性
本作『女生徒』は、昭和14年4月『文学界』に発表され、第四回北村透谷記念文学賞を受賞した作品である。
太宰の愛読者だった19歳の女性「有明 淑」(ありあけ・しず)から送られた日記が、この小説の題材となった。
当時のことは、太宰の妻・津島美知子の著作『回想の太宰治』に詳しい説明がある。
『女生徒』は若い女性愛読者の日記に拠っている。練馬に住み洋裁教室に通っていたS子さん(大正八年生まれ)は昭和十三年四月三十日から日記を伊東屋の大判ノートブックに書きはじめ、八月八日、余白が無くなったときこれを太宰治宛て郵送した。(津島美知子「『女生徒』のこと」)
春から夏までの日々が綴られていた日記を、太宰は「初夏の一日」に圧縮する形で、一篇の物語としてまとめた。
その頃、太宰の家へ遊びに来ていた友人・塩月赳(しおつき・たけし)が、日記を見て「有明 淑と結婚したい」と言い出したという有名なエピソードがある。
太宰治が仲介する形で、二人はお見合いにまでこぎつけているが、「有明 淑の背が高い」ことが理由で、この結婚は成立しなかった。
その後、有明 淑は「太宰とも文学とも無縁の人」と結婚したという。
まとめ│「お化けの眼鏡」をかけて
『女生徒』を読むと「世の中の成り立ち」に改めて気づかされることがある。
それは、『女生徒』の主人公がかけている「眼鏡」のせいかもしれない。
なぜなら、毎朝「眼鏡」をかけることによって、彼女は現実社会を直視することになるからだ。
眼鏡は、お化け。(太宰治『女生徒』)
大人になったとき、人はいつの間にか「あの違和感」を忘れてしまう。
本当のところ、何も変わっていないのに、ただ我々は「世の中」に慣れてしまうのだ。
『女生徒』は、昔に感じていた「あの違和感」を可視化した物語である。
誰だって「本当の自分」を探し続けているし、「本音と建て前」の使い分けには苦労している。
それが、この世の中の「生きづらさ」である。
それでも、我々は、この世の中を生きていかなければならない。
何かを棄てて、何かを飲みこんで。
だから『女生徒』は、ある意味で「お化けの眼鏡」である。
世の中が見えなくなったとき、僕たちは『女生徒』を読もう。
忘れていた何かが、そこにはきっとあるはずだから。
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文学ブログ『時空標本』では、太宰治の紹介に力を入れています。
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