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村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』牡蠣フライ理論で読む初期短篇集

村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』あらすじと感想と考察

村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』読了。

本作『中国行きのスロウ・ボート』は、1983年(昭和58年)5月に中央公論社から刊行された短編小説集である。

この年、著者は34歳だった。

村上春樹最初の作品集で、収録作品及び初出は、次のとおり。

「中国行きのスロウ・ボート」
1980年(昭和55年)4月『海』

「貧乏な叔母さんの話」
1980年(昭和55年)12月『新潮』

「ニューヨーク炭鉱の悲劇」
1981年(昭和56年)3月『ブルータス』

「カンガルー通信」
1981年(昭和56年)10月『新潮』

「午後の最後の芝生」
1982年(昭和57年)8月『宝島』

「土の中の彼女の小さな犬」
1982年(昭和57年)11月『すばる』

「シドニーのグリーン・ストリート」
1982年(昭和57年)12月『子どもの宇宙』(『海』臨時増刊)

村上春樹の小説は牡蠣フライ理論で読むと分かる

村上春樹の短篇小説は、すり替えの文学である。

本当に伝えたいことを、別の言葉(別の話)に置き換えて伝えようとする(置換法)。

例えば、「あなたはどんな人間ですか?」と訊かれたときに、「自分の好きな牡蠣フライ」について語る。

村上春樹は、それを「牡蠣フライ理論」と呼んだ(『雑文集』所収「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」)。

そこには、「僕って何?」と自分を掘り下げていくような、生々しさはない。

生々しくないからこそ、村上春樹の小説は、湿っぽくない小説(つまり「ドライな小説」)として受け止められたのだろう。

「この小説は、何を伝えたいのか」という主題は、読者自身が探さなければならないが、もちろん、正解なんてないから、多くの読者によって、様々な解釈が生まれた(いわゆる「ハルキ・クエスト」)。

短篇小説を理解するコツは、とにかく何度も何度も何度も繰り返し読むことだ。

そして、分からない言葉は徹底的に調べる。

この読書法は『若い読者のための短篇小説案内』(1997)で、村上春樹自身が提唱しているものだ。

村上春樹の作品には、古い時代のポップ・カルチャー(音楽や映画など)が、あちこちに登場するし、19世紀文学からの引用も少なくない。

意味の分からないものは、できれば出典に当たることが望ましい(限界があるとしても)。

初めての短篇集である『中国行きのスロウ・ボート』について、村上春樹は「僕という人間、つまり村上春樹という作家のおおかたの像は、この作品集の中に既に提出されている」と言っている(『村上春樹全作品1980-1989』所収「自作を語る 短篇小説への試み」)。

牡蠣フライ理論、うなぎ説(うなぎなるもの)、(いわゆる地下二階としての)深層心理。

小説家としての自分自身を素材としていることも、初期作品の特徴と言えるかもしれない。

中国行きのスロウ・ボート │ 居場所を探して

1980年(昭和55年)4月『海』初出。

本作「中国行きのスロウ・ボート」は、村上春樹が「生まれて初めて書いた短篇小説」である(『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』所収「るつぼのような小説を書きたい」)。

タイトル「中国行きのスロウ・ボート」は、ソニー・ロリンズの演奏で有名なジャズのスタンダードナンバー「On a slow boat to China(オン・ナ・スロウ・ボート・トゥ・チャイナ)」からの引用で、先に題名を決めてから書き始めた「タイトル先行式書き方の先駆的作品」(「自伝を語る」)。

遠い中国は「異界」であり、三人の中国人(中国人小学校の教師、アルバイト先のガールフレンド、百科事典のセールスマン)は、それぞれ、異界と現世とをつなぐ役割を担っている(「そもそもここは私の居るべき場所じゃないのよ」「時々自分でもわからなくなるんだ。いったい本当の俺は何処に生きている俺だろうってね」)。

既に三十歳を越えた一人の男としてもう一度バスケットボールのゴール・ポストに全速力でぶつかり、もう一度グローヴを枕に葡萄棚の下で目を覚ましたとしたら、僕は今度は何と叫ぶのだろう? わからない。いや、あるいはこう叫ぶかもしれない。おい、ここは僕の場所でもない、と。(村上春樹「中国行きのスロウ・ボート」)

30歳を目前にして、人生に迷い始めた男の不安が描かれている。

長篇第二作『1973年のピンボール』(1980)や『羊をめぐる冒険』(1982)の登場を予感させる作品。

貧乏な叔母さんの話 │ 執筆体験

1980年(昭和55年)12月『新潮』初出。

「中国行きのスロウ・ボート」という小説を書いた執筆体験を、「貧乏な叔母さん」という象徴に託して物語化した作品。

村上春樹は、「自分が小説を書く行為を文章的に検証してみたかった」「小説そのものも二重構造になっている」「『貧乏な叔母さんの話』という小説でありながら、同時に『メイキング・オブ・「貧乏な叔母さんの話」』になっている」としていて(「自作を語る」)、「貧乏な叔母さん」は、村上春樹の小説の象徴として読むことができるだろう。

ある夏の午後、突然「貧乏な叔母さん」が主人公の心をとらえたというエピソードは、「ある日の午後、ヤクルト=広島戦を見ているうちに、本当に空から羽根が降ってくるみたいに、「書きたい」と強く思ったんです」(「るつぼのような小説を書きたい」)という、『風の歌を聴け』の啓示体験を思い出させる。

しかし残念なことに僕の背負ったのは傘立てではなく、貧乏な叔母さんだった。時が経つにつれ、人々の僕や僕の背負った叔母さんに対する興味はどんどん薄らいでいった。そしてついには少しばかりの悪意だけを残してすっかり消え失せてしまった。(村上春樹「貧乏な叔母さんの話」)

タイトルを先に決めて、言葉遊びのように小説を書く手法は、デビュー当時、小説のテーマ(ネタ)に困っていたためらしく、「僕の場合、書きたいことがその当時とくになかったからです」という発言もある(『村上ラヂオ2 おおきなかぶ、むずかしいアボカド』所収「医師なき国境団」)。

「これは僕にとってけっこう重要な意味を持つ短篇であったように思う」(「自作を語る」)という、著者の告白にも注目したい。

ニューヨーク炭鉱の悲劇 │ 生き続けていくこと

1981年(昭和56年)3月『ブルータス』初出。

長篇第二作『1973年のピンボール』(1980)との関連を感じさせる(交通事故で死んだ女の子など)。

多くの友人が死んでいくあたりは、『ノルウエィの森』(1980)との関連を考えることもできるだろう。

村上作品では、若い女性が演じることの多い「巫女」の役を、この作品では、大学時代の友人が担っている(葬式用のスーツを貸してくれる)。

友人が愛している「台風の動物園(真夜中の動物園)」は異界だ(あちら側の世界)。

友人は、こちら側の世界と向こう側の世界を繋ぐ役割を果たしている。

小さなパーティーで出会った女性も、また、巫女であり、予言者である。

主人公にとてもよく似た男を「たった五秒で殺した」という彼女の告白は、友人たちが死んでいく中で生き続けている主人公の不安や頼りなさを暗示している(このあたりの主題は、やがて『ノルウエィの森』へと発展していくものだろう)。

地下では救助作業が、続いているかもしれない。それともみんなあきらめて、もう引きあげちまったのかな。(『ニューヨーク炭鉱の悲劇』作詞・歌 / ビージーズ)

「なにしろ、もう28だものな」という主人公の言葉には、自由な生活をあきらめて、普通の大人として生きていかなければならない男の、あきらめに似た覚悟がある。

村上春樹は「DON’T TRUST OVER THIRTY(30歳以上の人間を信用するな)」という言葉の中で生きてきた世代だから、30歳という年齢には、特別の思いがあったらしい(『村上ラヂオ2 おおきなかぶ、むずかしいアボカド』所収「三十歳を過ぎたやつら」)。

自伝的エッセイ『職業としての小説家』(2015)にも、「三十歳を前にして感じていた心の『空洞』」という表現がある。

この作品も、先にタイトルを決めてから執筆されたものだが、1980年(昭和55年)に創刊したばかりの『ブルータス』編集部からは「ビージーズはオシャレじゃない」と反対されたという(「自作を語る」)。

カンガルー通信 │ コミュニケーション障害

1981年(昭和56年)10月『新潮』初出。

主人公(デパートの苦情処理係)を通して、デパートの苦情処理のあり方を、やや寓話的に描いた作品。

この時期、デパートに苦情を言う作業に凝っていたことが背景となっている(「自作を語る」)。

特徴的なのは、顧客と苦情処理係との間にカンガルーを持ち出していることで、これは、村上春樹の「うなぎ説」を実践的に応用したものと思われる。

「うなぎ説」とは、作者と読者との間に、第三者たる「うなぎ」を配置することで(第三者協議)初めて小説が成立するという文学論のこと(柴田元幸『ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち』)。

デパートの苦情処理係とコミュニケーションを取る中で、著者は「うなぎたる第三者」の必要性を痛切に感じていたのではないだろうか(それが「カンガルー」として配置されている)。

カンガルーはとても魅力的な動物で、何時間眺めていても飽きません。カンガルーはいったい何を考えているんでしょう? 連中は意味もなく一日中柵の中を跳びまわって、時々地面に穴を掘っています。それで穴を掘って何をするかというと、何もしないのです。ただ穴を掘るだけです。ははは。(村上春樹「カンガルー通信」)

カンガルーは(村上春樹にとって)非常に象徴性の強い動物で、他に「カンガルー日和」という短篇小説もある(『カンガルー日和』所収)。

村上春樹は「これはカセット・テープ小説として書いた」としているが(「自作を語る」)、見知らぬ女性(苦情を寄越した顧客)へ録音メッセージを送りつける主人公の異常性には印象深いものがある。

現代社会のコミュニケーションのあり方に対する問題提起として読むことも可能だ。

午後の最後の芝生 │ 女の子の心

1982年(昭和57年)8月『宝島』初出。

見知らぬ女の子の部屋を通して、去って行った恋人の心を理解しようと努める若者の物語。

「女の子の部屋」は、「壁で囲まれた街」や「井戸の中」と同じく深層心理を象徴している。

恋人の心を理解しようとする作業は、主人公が、自分の内面と向き合う作業でもあるからだ。

「ボーイ・フレンドはいます」「一人か二人。わからないな。どれほどの仲かはわからない。でもそんなことはべつにどうだっていいんです。問題は…彼女がいろんなものになじめないことです。自分の体やら、自分の考えていることやら、自分の求めていることやら、他人が要求していることやら…そんなことにです」(村上春樹「午後の最後の芝生」)

初期の村上短篇の中でも、特に人気のある作品で、村上春樹を代表するひとつの短篇小説と言っていい(「その当時けっこう反響も大きかった」と「自作を語る」にある)。

この作品から長篇を書いてほしいというニーズもあったらしいが、著者は「この作品を長篇として書き直すことはない。この作品の世界はある意味で完成して集結しているから」としている(「自伝を語る」)

わたせせいぞうは、当時の人気漫画『ハートカクテル』で、この小説にインスパイアされた作品を発表した(モーニング・オールカラー・コミックブック『ハートカクテル1』所収「Vol.4 グリーンの軌跡」)。

土の中の彼女の小さな犬 │ 心の傷の治癒行為

1982年(昭和57年)11月『すばる』初出。

リゾートホテルで出会った女性との対話を通して、主人公は自己変革を遂げる(あるいは、自己変革しようと決意する)。

謎の女は、死んだ犬から始まった自身のトラウマを告白しながら、主人公の内面に働きかけていたのだ。

同時に、それは、女性自身のカタルシスでもあったかもしれない。

「とにかく……匂いよ。匂い。それを手に持つと、手にも匂いが浸みこんだの。どれだけ手を洗ってもその匂いは落ちなかったわ」(村上春樹「土の中の彼女の小さな犬」)

この小説は、「雨が降っているシーズン・オフのリゾート・ホテルの情景」や「犬の死体を庭に埋める情景」「夜中に占いのようなものをする情景」という、いずれも当時の著者に関わりのある三つの情景から生まれた(「自作を語る」)。

心に傷を持った者同士の、治癒行為の物語としても、読むことができる。

観察と洞察に優れた主人公象は、作家と主人公との距離の近さを感じさせるが、「自作を語る」では、「僕自身はこの作品がどうも気に入らなくて、あまり思い出したくなかった」と書かれている。

シドニーのグリーン・ストリート │ 願望憎悪

1982年(昭和57年)12月『子どもの宇宙』『海』臨時増刊)初出。

子ども向けハードボイルドで、本書において異彩を放っているが、ある意味で一番楽しい小説とも言える。

「羊男」や「羊博士」が登場するあたり、長篇『羊をめぐる冒険』(1982)のスピンオフとして読むこともできる。

「あなたは本当は自分も羊男になりたいのよ。でもそれを認めたくないから羊男を逆に憎むようになったのね」「そうか」と羊博士は感心したように言った。「気がつかなかったよなあ」(村上春樹「シドニーのグリーン・ストリート」)

一方で、羊博士の心の内面(願望憎悪)に潜り込んでいくプロットは、いかにもな村上文学の世界である(「あんたたちフロイトとかユングとか読んだことないの?」)。

作品名(シドニーのグリーン・ストリート)は、『マルタの鷹』や『カサブランカ』に登場する俳優「シドニー・グリーンストリート」にインスパイアされたもので、「『マルタの鷹』を見たときからいつか「シドニーのグリーン・ストリート」という題の小説を書きたいと思っていた」という(「自作を語る」)。

シリーズ化の可能性を持った作品だったが、今となっては難しいのが残念。

まとめ │ レトリックで楽しむ村上春樹

初期の村上春樹は、とにかくレトリックに人気があった。

「そう、それはたしかヨハンソンとパターソンがヘヴィー・ウェイトのチャンピオン・タイトルを争った年だった」(中国行きのスロウ・ボート)、「でもまあ、そんな話はよそう。結局のところそれは西暦一一九八〇年の出来事なのだ」(貧乏な叔母さんの話)、「なにしろ、もう28だものな」(ニューヨーク炭鉱の悲劇)、「コン・コン・コン(机を叩く音)これはノックです」「ふうん」(カンガルー通信)、「やれやれ。僕は本当にやれやれと思った」(午後の最後の芝生)、「それから僕はピザ・スタンドに行ってアンチョビのピザと生ビールを注文した」(シドニーのグリーン・ストリート)などなど。

およそ、日本の文学作品らしくない村上春樹の小説は、だからこそ、新しい時代の、新しい文学として受け止められたのだ。

その後、村上春樹の小説は、何度かの発展を経て、現在の村上スタイルというものを確立している。

ここに収録されている作品群は、完成度は高くないかもしれないが、イキのいい(ピチピチの)村上春樹を味わうことができる作品群でもある。

2024年(令和6年)2月には、40年ぶりに復刊された『中国行きのスロウ・ボート』

最近の村上春樹は苦手という方にもおすすめ。

ABOUT ME
みつの沫
バブル世代の文化系ビジネスマン。源氏パイと庄野潤三がお気に入り。