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生きている生身の人間を描いた『そこのみにて光輝く』の「そこ」とはどこだったのか?

生きている生身の人間を描いた『そこのみにて光輝く』の「そこ」とはどこだったのか?

佐藤泰志『そこのみにて光輝く』読了。

本作『そこのみにて光輝く』は、1989年(平成元年)3月に河出書房新社から刊行された作品集である。

この年、著者は40歳だった。

収録作品及び初出は次のとおり。

「そこのみにて光輝く」
・1985年(昭和60年)11月『文藝』初出
・1989年(平成元年)、第2回三島由紀夫賞候補作
・2014年(平成26年)公開の綾野剛主演映画『そこのみにて光り輝く』原作小説

「滴る陽のしずくにも」
・単行本刊行時の書き下ろし作品
・1989年(平成元年)、第2回三島由紀夫賞候補作
・2014年(平成26年)公開の綾野剛主演映画『そこのみにて光り輝く』原作小説

バラック住宅は、貧困生活を強いた社会に対する憎悪の象徴

作品タイトル「そこのみにて光り輝く」にある「そこのみにて」の「そこ」とは、どこを指すのか?

「そこ」とは、拓児一家の暮らす貧しいバラック住宅を意味している。

達夫は内心驚いた。この辺一体はバラック群がひしめき、周囲は砂山だったのだ。子供の頃には近づかなかった。どの家でも犬の皮を剥ぎ、物を盗み、廃品回収業や浮浪者の溜り場で、世の中の最低の人間といかがわしい生活があると聞かされていた。(佐藤泰志「そこのみにて光輝く」)

市民から「サムライ部落」と呼ばれたバラック群は、やがて取り壊され、観光客のための美観とゴミ焼却場建設のために、六棟の真新しい高層住宅が建てられた。

砂山はコンクリートで埋められ、現在、跡地には「この地にゆかりの若くして死んだ歌人の像」が設置されている(函館市内の大森浜にある石川啄木小公園のこと)。

バラックの連中の多くは、新しい高層住宅へ移り住んだが、拓児とその家族はバラック住宅から動かなかった。

拓児(28)の姉の千夏(29)は、家族のために売春をして日銭を稼いでいる。

脳軟化症の父は3年も寝たきりで、頭もすっかりとボケていたが、性欲だけは衰えることがなく、母と千夏が交替でセックスの相手をしていた。

彼ら一家が、最下層の市民であることに間違いはないが、市が建設した高層住宅へ入居することを拒絶しているのは、彼らの方だった。

「サムライ部落の子は犬殺しだって。犬の皮を剥いで食べているって」拓児のようなひねくれた、迷路に入り込んだような口調ではなかった。達夫は立ちあがった。千夏が続けた。「あんたも子供の頃は、あたしらのことをそういって軽蔑したでしょう」(佐藤泰志「そこのみにて光輝く」)

行政のセーフティーネットに頼れば、少なくとも、もう少しは、まともな生活をすることができたかもしれない。

しかし、行政から差し伸べられる手を、彼ら一家は拒絶し続けた。

彼らが有する、市民への激しい憎悪は、続編「滴る陽のしずくにも」にも引き継がれている。

拓児は単純にお袋さんがこのバラックを引き払うのに反対しているのではない。痛切にそう思った。千夏がかつて男相手の商売をしていたことについて、からかった男を叩きのめしたのと同じだ。(佐藤泰志「滴る陽のしずくにも」)

それは、砂浜のバラック群で生きなければならなかった運命に対する呪いであり、貧しい生活を強いた社会に対する怨念でもあっただろう。

「達夫にはつまらない意地に見えるかもしれないが、ああいうお袋だ。あそこにしがみついているから、お袋はお袋なんだし、俺もそうだ」黙って耳を傾けていた。そんなことはわかっている、というつもりだった。(佐藤泰志「滴る陽のしずくにも」)

彼らの暮らすバラック住宅は、彼らに貧しい生活を強いた社会(あるいは時代)に対する憎悪の象徴である。

今さら、体裁を取り繕って、何がセーフティーネットだ。

市が建設した真新しい高層住宅は、彼らにとって、社会の欺瞞以外の何者でもなかった。

高層住宅へ引き移ることは、欺瞞に満ちた社会を、彼らが受け容れることでもあっただろう。

だからこそ、彼らは、高層住宅での生活を拒み、砂浜のバラックでの生活に甘んじていたのだ。

「そこ」こそが、彼らにとって、真の意味での生きる場所だったのである。

バラック小屋で暮らす彼ら(拓児や千夏、その両親)は、そこでしか光り輝くことのできない存在だった。

仮に、主人公(達夫)と千夏の出会った場所が、一家の住むバラック小屋でなかったとしたら、達夫は、あそこまで千夏に惹かれることはなかったかもしれない。

千夏も、また、「そこでのみ光り輝く」人間だったのだ。

綾野剛と池脇千鶴は、生身の人間を演じた

一方で、主人公(達夫)は、この春まで、造船会社の組合員として、過激な階級闘争に取り組んでいた人間である。

海面で身体を反転させ、クロールで沖へ向った。広い敷地をめぐっている土塀に立ち並んだ赤旗の数々、インターナショナルの唄声、熱っぽく精力的な、分会活動家。(佐藤泰志「そこのみにて光輝く」)

組合活動に愛想を尽かした主人公は、会社を退職し、無職となった。

拓児と知り合ったのは、そんな無職暮らしの日々の、パチンコ店だったのだ。

主人公にとって組合活動は、ひとつの社会的な欺瞞として印象付けられている。

その社会的な欺瞞は、千夏一家が社会に対して抱いている憎悪と共鳴するものだった。

千夏のような貧困家庭を抱えている一方で、見栄と自己満足にまみれた組合活動に汗を流している世の中に、主人公は居場所を見つけられないでいる。

それらを見ながら千夏を待っていると、達夫は自分のいるべき場所を見失って来たのに気づいた。唐突に彼はそう思った。昨日、例のシンポジウムの話を持ちかけて来た、元の同僚のようにではない。彼らはまだ、あの広大な敷地の、風になびきながら乱立する無数の赤旗の内側にいるのだ。(佐藤泰志「そこのみにて光輝く」)

主人公にとって「赤旗の内側」は、千夏や拓児にとっての「高層住宅での生活」と、同じものを意味している。

そのことに気づいたとき、主人公は、自分にとっての「そこ」を見つけることになる。

だから、本作「そこのみにて光り輝く」は、主人公(達夫)の、自分探しの物語として読むことができるのだ。

自分が光り輝くべき場所を、彼は、赤旗の外側で見つけたのだろう。

妹から再三督促されている見合い話も、主人公の居場所探しを暗示する、ひとつのエピソードとして機能している。

主人公も、千夏も、もうすぐ30歳になろうとしていた。

「喋りなさいよ。このあいだまでドックで赤旗を振っていたくせに。あんたのアパートで今日一日、セックスすればそれでいいじゃない。あたしも満足するし、あんたもでしょう」「わかった」「わかるもんですか。二度といい気な口を利かないでよ」(佐藤泰志「そこのみにて光輝く」)

主人公が千夏の元夫と対峙するのは、彼にとって、それが自分探しの旅の一部でもあったからだ。

組合を抜けた主人公は、千夏を求めて、バラック世界の一員となる。

ステレオ以外、すべて処分した後で、俺は街の見捨てられた場所で住むことに決めた。それも千夏と一緒にだ。たいした決断でもない。そうだ、机のひきだしを整理しただけだ。(佐藤泰志「滴る陽のしずくにも」)

主人公が、バラック世界の一員となったとき、彼が対峙すべき相手は、会社の組合運動家であり、市営の高層住宅であることが分かる。

つまり、社会運動の主体である組合活動家も、その敵である行政機関も、主人公にとっては、いずれも、社会的欺瞞の象徴にすぎない、ということである。

おそらく、この作品の本質は、セーフティーネットの管理者である行政や、市民の味方を標榜する労働運動活動家までを含めて、欺瞞に満ちた社会を告発することにあった。

千夏が暮らすバラック小屋の周囲にある高層住宅や組合活動家は、弱者たる貧困一家を取り巻く社会的な欺瞞の一部にすぎない。

そういう意味で、「そこのみにて光り輝く」は、この作品だけで完結している、完成度の高い作品だったと言えるだろう。

鉱山事故で片目を失った松本が登場する「滴る陽のしずくにも」は、主人公(達夫)と、義弟(拓児)の、新たな自分探しの物語である。

キャラクターや舞台設定こそ「そこのみにて光り輝く」を受け継いでいるものの、作品テーマはブラッシュアップされて、次のフェーズに移ったと見るべき作品だ。

挑むように拓児が酔いで濁った眼を向けた。その眼に達夫が映っている。拓児の眼の中の自分が、俺を見ている、と思った。(佐藤泰志「滴る陽のしずくにも」)

千夏の住むバラック小屋に、自分の居場所を見つけた主人公は、家庭を持ち、父親となったことで、新しい居場所を探し始める。

かつてあんたは、拓児の父親同様、栄光ある帝国陸軍の一兵士だった。ポツダム軍曹となって祖国に帰還し、行商人となり、女と家庭を持ち、二人の子供をもうけ、今はただの番号になってしまった。その息子は、いまだに迷路を踏みまよっている。(佐藤泰志「滴る陽のしずくにも」)

結局、バラック世界は、主人公にとってのゴールではなかったということだ。

敗戦とともに外地から引き揚げてきた両親世代と、彼らとでは、そもそものスタート地点が違っていたのだ。

彼は松本とはじめて会った時のことをふたたび思いだした。自分が取り残されるような気がした、あのついぞ味わったことのない感情をだ。ついで、三十二年間、この街で過ごした日々が眼の前に立ちふさがるような気がしたことも。何度それを思ったろう。(佐藤泰志「滴る陽のしずくにも」)

「そこのみにて光り輝く」とは異なり、「滴る陽のしずくにも」では、山川方夫ばりのドラマチックな結末が用意されている。

おそらく、映画は、動きのない「そこのみにて光り輝く」よりも、ストーリー展開の著しい「滴る陽のしずくにも」を主眼に置いたものだったに違いない。

下層市民とか組合活動とか、そういったものにフォーカスすべき時代ではなかった。

しかし、社会的欺瞞から最も遠いところにある世界は、人間と人間とが、生身の体で触れ合う世界である。

綾野剛と池脇千鶴は、生身の人間を演じたという意味において、高く評価されていい。

原作小説では、それぞれ異なるテーマを扱っていたが、映画では、二つの物語を併せることによって、主題を単純化することに成功した。

突きつめるところ、「そこのみにて光り輝く」は、人間の生きることについて書かれた作品だったのだ。

書名:そこのみにて光り輝く
著者:佐藤泰志
発行:2011/04/20
出版社:河出文庫

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。源氏パイと庄野潤三がお気に入り。