宇野千代『生きて行く私』あらすじと考察|波瀾万丈の人生と「幸福」の意味
宇野千代『生きて行く私』は、85歳のときに刊行された自伝的長編作品である。
恋愛、結婚、離婚、文学、仕事――波乱万丈の人生の中で、なぜ宇野千代はこれほどまで前向きに「生きて行く」ことができたのだろうか。
この記事では、『生きて行く私』のあらすじを整理するとともに、宇野千代の人生との関係や作品の魅力について分かりやすく解説する。
3行でわかる『生きて行く私』
発端(岩国から始まる波瀾の人生)
少女時代から故郷を飛び出し、恋愛や結婚を重ねながら、自分自身の生き方を求めていく。
展開(恋愛・文学・仕事を生きる)
さまざまな男性との出会いと別れを経験する一方、小説家として創作を続け、出版や着物の世界にも活動を広げていく。
核心(「幸福は自分でつくる」という人生観)
失敗や別れさえも人生の一部として受け入れ、「生きていること」そのものを肯定していく宇野千代の人生哲学が描かれる。
宇野千代『生きて行く私』とは
『生きて行く私』は、作家・宇野千代が自らの波瀾に富んだ人生を振り返った自伝である。
山口県岩国で過ごした少女時代から、作家としての出発、尾崎士郎や東郷青児、北原武夫らとの出会いと別れ、雑誌編集や着物の仕事まで、長い人生の歩みが率直な言葉で綴られている。
| 作品名 | 生きて行く私 |
|---|---|
| 著者 | 宇野千代 |
| ジャンル | 自伝・回想記 |
| 初出 | 1982年(昭和57年)2月14日から10月31日まで毎日新聞『日曜くらぶ』において連載 |
| 初刊 | 1983年(昭和58年)、毎日新聞社 |
| 主な舞台・時代 | 明治・大正・昭和・平成の日本 |
| 主な内容 | 少女時代、恋愛・結婚、作家活動、出版・雑誌編集、着物の仕事など、宇野千代自身の人生 |
| 主な登場人物 | 宇野千代、尾崎士郎、東郷青児、北原武夫など |
| 文庫版 | 中公文庫(1992年)、角川文庫(1996年)など |
| 新装版 | 毎日新聞出版より2026年3月30日に上下巻で刊行 |
『生きて行く私』簡単なあらすじ(要約)
『生きて行く私』は、宇野千代が山口県岩国で過ごした少女時代から、作家として活躍し、晩年を迎えるまでの人生を振り返った自伝である。
故郷を飛び出した千代は、恋愛と結婚、離別を繰り返しながら、新聞の懸賞小説への入選をきっかけに作家への道を歩み始める。尾崎士郎、東郷青児、北原武夫らとの出会いと別れを経験する一方、小説を書き、雑誌を創刊し、着物の仕事にも乗り出していく。
仕事の失敗や借金など幾度も困難に直面するが、千代は過去を悔やむより、そのたびに新しい人生へ踏み出していく。恋愛、文学、仕事、老い――それまでの波瀾に富んだ人生を通して、「どんなことがあっても、生きている限り人生は続いていく」という宇野千代の生き方が浮かび上がってくる作品である。
少女時代と故郷・岩国
1897年、山口県岩国の作り酒屋に生まれた宇野千代は、まるでバルザックやドストエフスキーの小説の中にしか登場しないような変わり者の父親と、優しい継母のもとで少女時代を過ごす。
13歳のとき、父親の命令により従兄と結婚するが、十日で実家へ戻る。
女学校卒業後、小学校の代用教員として働き始めるものの、当時は禁断だった職場内恋愛により諭旨免職となる。
恋愛と結婚、作家としての出発
故郷を離れた千代は、さまざまな土地を転々としながら、多くの人々と出会っていく。
札幌時代に書いた小説が新聞の懸賞小説に入選し、本格的に小説を書く道へ進むことになる。
やがて作家の尾崎士郎と出会い、ともに生活するようになり、さらには画家の東郷青児、作家の北原武夫らとの恋愛と別れを経験するなど、その人生は大きく揺れ動いていった。
作家・編集者・着物デザイナーとして
宇野千代の活動は、小説を書くことだけには収まらなかった。1936年(昭和11年)にはファッション雑誌『スタイル』を創刊し、編集や出版事業にも乗り出す。
さらに着物のデザインにも進出し、作家であると同時に、編集者、実業家、着物デザイナーとして幅広い仕事を手がけていく。
一方、賭け麻雀の容疑で警視庁に検挙されたり、膨大な脱税が発覚したりと、その人生は波乱に満ちていた。
晩年――「生きて行く」ということ
岐阜県にある「薄墨の桜」の再生活動を牽引したり、阿波踊りに参加したり、宇野千代の活動は晩年になっても衰えることがなかった。
ポリープ手術のために胃の五分の三を切除した後も、好きなものを食べ続けた。
85歳の宇野千代は、さらに、これから先の人生を生きていこうとしていた。
『生きて行く私』に登場する著名人
滝田 樗陰(たきた・ちょいん)
『中央公論』の編集長。宇野千代が給仕を務めるレストラン「燕楽軒」の常連で、芥川龍之介や久米正雄を伴って来店した。
今東光
レストラン「燕楽軒」の常連で、二人で散歩をする仲だった。佐藤春夫を連れて、自宅に現れたこともある。胃のポリープの手術で入院中、今東光も入院していた。
尾崎士郎
新聞懸賞小説で、宇野千代が一位を獲得したとき、二位が尾崎士郎だった。札幌に夫を残したままで、千代はそのまま尾崎士郎と同棲生活に入る。尾崎は千代よりひとつ年下だった。
萩原朔太郎
馬込村のご近所同士で、時々、二人で大根畑の中を歩いたこともある。朔太郎の嫁が若い男と駆け落ちしたのは、宇野千代が与えた悪い影響のせいだと言われた。
室生犀星
萩原朔太郎の親友。朔太郎の嫁に悪い影響を与えたということで、千代を敵視していた。
川端康成
伊豆の湯ヶ島滞在中に交流を持つ。『伊豆の踊子』を書く前だった。ひとつの布団で一緒に寝たこともあるが、性的な関係ではなかった。
藤沢 桓夫(ふじさわ・たけお)
川端康成と一緒に、湯ヶ島に滞在していた。千代とふたりきりで、小さな流れに足を浸した。
梶井基次郎
湯ヶ島滞在時、毎晩のように千代の宿を訪れた。尾崎士郎は先に帰京していたため、梶井基次郎との仲が噂されるようになる。千代の作品『罌粟はなぜ紅い』のタイトルをつけた。東郷青児との結婚を知ったときは憤慨している。
牧野信一
しばしば馬込の家に長逗留していった。
吉屋信子
外人用の大きなベッドを届けてくれた。
東郷青児
パリ帰りの有名な画家で、恋人との情死事件が話題となっていた。千代は『罌粟はなぜ紅い』の取材で東郷と面会した日から一緒に暮らしはじめ、やがて結婚。千代が村田社長と寝たことでは激怒した。東郷が元カノとよりを戻したことで離婚に至る。なお、村田社長も、後に千代に失恋したことでピストル自殺している。
谷崎潤一郎
戦争中、疎開先の熱海で交流を持つ。朱色の箪笥は、谷崎潤一郎の遺品だった。
北原武夫
都新聞(現・東京新聞)学芸部の記者。千代と二人でファッション誌『スタイル』を創刊後、千代と結婚。仲人は吉屋信子と藤田嗣治だった。
藤田嗣治
パリ帰りの洋画家で、『スタイル』の表紙を描き始める。北原と千代の結婚式では、吉屋信子とともに仲人を務めた。
青山二郎
銀座のバー『ブーケ』で知り合う。
嶋中鵬二(しまなか・ほうじ)
中央公論社の社長。初めて銀座のバーに連れていってくれたのは、宇野千代だった。『おはん』の完成まで十年間待ってくれた。
宮田文子(武林文子)
武林無想庵の妻。都電の車両を利用したレストラン「電車の家」を経営。千代の親友で、一緒にパリ旅行をしている。
三島由紀夫
宮田文子の「電車の家」で出会う。
北大路魯山人
銀座にあった「スタイルの店」に来店。青山二郎と一緒に、鎌倉の仕事場を訪ねたこともある。その翌日「スタイル社」が、脱税容疑で国税庁の強制捜査を受ける。
平林たい子
「宇野千代きものの店」の顧客だった。スタイル社が倒産し、巨額の借金を背負ったとき、何も言わずに金を貸してくれた。
三好達治
湯ヶ島滞在中に交流を持つ。毎日のように自宅まで酒を飲みに来た。千代は三好から多くの骨董品をもらっている。
今日出海
三好達治が亡くなったとき、三好の自宅で一緒になる。当時、千代は腰を骨折して松葉杖をついていたため、夫の北原に「君、手を持ってやれよ」と声をかけている。「薄墨の桜」観桜会では、当時文化庁長官だった今日出海が同席している。
里見弴
那須の別荘に招待された。同席していた小林秀雄から「薄墨の桜」の話を聞いたことが、桜の再生運動を始めるきっかけとなった。
黒柳徹子
「徹子の部屋」に出演。
広津和郎
戦争中、疎開先の熱海で交流を持つ。
志賀直哉
広津和郎の自宅で、一緒に麻雀を打つ。
瀬戸内晴美
京都嵯峨にある瀬戸内晴美の自宅を訪れたとき、千代は大変な歓待を受けた。
【考察】『生きて行く私』はどんな作品なのか
本作『生きて行く私』は、宇野千代による自伝的小説である。
この物語は、私の生涯の或る一連の生活史であって、私自身にさえも、そうだ、これが私である、と思われるような何かがある。(宇野千代『生きて行く私』)
同時に、それは、大正・昭和を貫くひとつの文壇史の記録でもあった。
尾崎士郎や東郷青児、北原武夫などといった男たちとの恋愛を重ねながら、千代は多くの文士たちと交流を持っている。
宇野千代の眼から見た近代文学史の世界が、そこにはある。
もとより、作家の個人史と文壇史とを明確に分離することは不可能なことだろう。
文壇史の中で生きた作家の個人史こそが、つまりはこの『生きて行く私』という作品だったのだから。
『生きて行く私』名言集
本作『生きて行く私』には、宇野千代の人生観を表す言葉が、たくさん登場している。
一種、放蕩に似た、もっと切実なもの
尾崎士郎に惹かれたときの気持ちを、千代は次のように綴っている。
この感情は恋でもない、愛でもない、一種、放蕩に似た、いや、もっと切実なものであった。(宇野千代『生きて行く私』)
「放蕩」こそ、宇野千代という人間の人生だったのかもしれない。
私は、生涯に十三軒の家を建てた
「私は、生涯に十三軒の家を建てた」と、千代は何度も繰り返している。
千代にとって「家」は、定住するための場所ではなかった。
次から次へと男を変えていくように、千代にとって「家」もまた、ひとつの「止まり木」でしかなかったのだ。
泥棒と人殺しのほかは何でもした
宇野千代は、人生をアグレッシブに生きた女性である。
彼女にとって人生とは、常に何かに挑戦することだった。
私はこう言うとき、ひそかに、あの亡くなった父の面影を思い浮かべ、一種の感慨を持つのであった。(宇野千代『生きて行く私』)
「狂人」とさえ言われた父の血を、千代は確かに意識していたらしい。
千代にとって生きることとは、もしかすると、父の人生をやり直すことだったのかもしれない。
この桜を蘇生させたい
「薄墨の桜」は、ある意味で、宇野千代という女の生き方を象徴している。
なぜなら、彼女自身こそが、喪失と再生の中で生き抜いてきた女だったからだ。
「老残の身をよこたえている無慙な桜」は、千代にとって自分自身の化身でもあったのではないか。
そういう意味で、本作『生きて行く私』は、「薄墨の桜」の物語だったと言ってもいい。
決してあきらめることのない人生こそ、宇野千代という生き方だったのだ。
幸福は伝染する
宇野千代ほど、ポジティブ・シンキングの女性がいただろうか。
奇人と呼ばれた父親のもとで育ち、男たちの裏切りの中で暮らしながら、千代は決して自分の人生を卑下したりしない。
千代にとって人生とは、常に明るく、楽しいものだった。
私はもう、花咲婆さんになり切っている。(宇野千代『生きて行く私』)
「幸福は伝染する」と信じていたからこそ、千代は「笊の中の幸福」をばらまき続けていたのだろう。
【解説】ドラマ版『生きて行く私』
宇野千代の自伝『生きて行く私』は、これまでに1984年と1991年の2度、テレビドラマ化されている。
最初のドラマ版は1984年に毎日放送(MBS)で放送され、宇野千代役を十朱幸代が演じた。十朱幸代のほか、神田正輝、岩城滉一、三浦洋一、ハナ肇らが出演している。
1991年には、フジテレビ系の昼ドラマ枠「妻たちの劇場」で再び連続ドラマ化され、宮崎美子が宇野千代を演じた。
朝ドラ『ブラッサム』と『生きて行く私』の違い
2026年度後期のNHK連続テレビ小説『ブラッサム』は、作家・宇野千代の人生をモデルにした朝ドラだが、『生きて行く私』をそのままドラマ化した作品ということではない。
『ブラッサム』は、宇野千代の生涯をモデルとしながら、人物名などを変更し、実際の出来事を再構成したオリジナルのフィクションとなっている。
宇野千代『生きて行く私』と比較しながら、朝ドラ『ブラッサム』を観ると、その違いが分かって楽しいのでおすすめ。
まとめ│前向きに生きていくこと
宇野千代『生きて行く私』は、挫折と再生を繰り返しながら生きてきた女の自分史である。
明治、大正、昭和という激動の時代を生き抜いた彼女の人生は波瀾に満ちているが、どんなときでも前を向き続けていた。
一切の後悔というものが、彼女の人生にはない。
なぜなら、彼女は常にその瞬間を全力で生きてきたからだ。
自分の方から進んで、その日の来る方まで歩いて行く。自分の幸福も、人の幸福も同じように念願することの出来る境地にまで、歩いて行くのである。(宇野千代『生きて行く私』)
幸福に生きることこそが、宇野千代という人生の目標だった。
僕たちは、彼女の人生から、何を学ぶことができるだろうか。
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文学ブログ『時空標本』では、宇野千代の紹介に力を入れています。
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