庄野潤三「山高帽子」読了。
本作「山高帽子」は、「文芸」昭和42年1月号に掲載された短篇小説である。
作品集では『丘の明り』(1975、筑摩書房)に収録された。
父も母も若く、家族の出入りが頻繁であったあの頃が、いちばんの高みに立っていた時であったような気がする。
本作「山高帽子」は、紀行小説の形をした物語である。
語り手である「彼」(庄野さん自身だろう)は、自宅のある東京から兄のいる町を訪れていた。
兄の家を出た彼は、電車に乗って、バスに乗り継ぎ、フェリーに乗る。
<樽井>や<岡田浦>や<加太>といった駅の名前が出てくるから、やはり、これは旅行小説なのだろう。
しかし、車窓の中に彼が見ているものは、現在ではなく、思い出の中の風景である。
小学校の四年と五年と六年の三年間、臨海学舎に行った樽井。
窓の外に、あの頃に宿泊した旅館を見つけて、彼は驚く。
亡くなった彼の長兄も、二番目の兄も、姉も妹も弟も、ここへ来た。
彼の兄弟は、父が校長をしている学校へ、みんな通っていたからだ。
加太は、兄が入隊した重砲部隊のあったところだ。
昭和十二年の夏。
父や母と一緒に、彼は海のそばの旅館へ一晩泊まった。
もっとも、見送るはずだった兄の部隊は、夜明けのうちに貨車で出発してしまっていたけれども。
鉄道で移動しながら、彼は懐かしい思い出の中を旅していく。
あの時分が、と彼は思った。うちのいちばん活気のみなぎっていた頃であった。二番目の兄は、入れかわりに中支へ出発した。次の年には、姉の結婚式があった。彼はまだ中学生で、下には女学生の妹と小学生の弟がいた。
父が五十代の初めの方で、丁度、戦争がはげしくなって来たのであった。父も母も若く、家族の出入りが(出征やら結婚やらで)頻繁であったあの頃が、いちばんの高みに立っていた時であったような気がする。(庄野潤三「山高帽子」)
戦後に、長兄がまだ三十七という若い年で亡くなり、そのあと二年おいて父が死んだ。
さびしくなった家で、義姉と二人の姪と一緒に暮していた母が亡くなってから、十年になる。
いま、高校の三年生になる、下の方の姪は、眼もとが亡くなった長兄とそっくりであった。
庄野さんの母・春慧さんが亡くなったのは、昭和31年4月のこと。同じ年の2月に、次男・和也が生まれたばかりだった。
「高校の三年生になる、下の方の姪」は、昭和23年生まれの「育子ちゃん」。
それは彼の父がロンドンへ行った時に買ったものであった。
電車からバスに乗り継いでフェリーに乗る時、彼は二つの荷物を持っていた。
ひとつは旅行用の鞄であり、もうひとつは、昨夜、兄のところでもらってきた山高帽子である。
それは彼の父がロンドンへ行った時に買ったものであった。裏に貼りつけてある、金色をした、紋章のような商標を見ると、両側から二頭の獅子が向い合うようにして掲げ持っている横に、「グリン株式会社。オールド・ポンド街四十四番地」という字が入っていた。そうして、いちばん上に騎士のかぶる冑の絵があった。(庄野潤三「山高帽子」)
兄の家と同じ敷地内にある生家で、義姉が屋根の大修理をした時、ついでに父の物ばかりしまってある押入を片付けていると、その帽子が出てきたのだという。
彼がかぶると、まるで頭の寸法を測って作らせた帽子のように、頭にはまった。
「お父さんとそっくり」
兄も、兄も家族も、隣から話を聞きに来ていた義姉も、大学へ行っている上の姪も、みんな笑い出した。
結局、兄に勧められて、彼は、父の遺品であるその山高帽子を持ってきたのだ。
庄野さんの父がロンドンを訪ねたのは、昭和2年のこと。庄野さんは小学校に入学したばかりだった。
帽子を眺めながら、彼は、ついひと月ほど前にあるテレビ番組で観た、ロンドンの昔気質の商店の人たちを写したフィルムのことを思い出す。
あの爺さんのいた帽子屋も、オールド・ポンド街にあるのかも知れない。五十年も勤めている人がいるくらいだから、うちの親父もことによると、あの店へ入って行って、頭の寸法を合せて貰って、買ったかも知れない。ロンドンに帽子屋がいったい何軒あるか知らないが、そういう偶然だって起り得るのだ。(庄野潤三「山高帽子」)
旅情を漂わせつつ、懐かしい家族の記憶をたどる。
イギリスのエッセイ文学の味わいが、この短篇小説にもある。
書名:丘の明り
著者:庄野潤三
発行:1975/4/25
出版社:筑摩書房