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スワロフスキーのハリネズミは、20年経った今も、あの頃と同じように輝き続けている。

スワロフスキーのハリネズミは、20年経った今も、あの頃と同じように輝き続けている。

今回の青春ベストバイは、スワロフスキーのハリネズミです。

購入から20年以上が経つけれど、輝きはあの頃のまま。

上質のものって、やっぱりいいんですね。

卒園祝いの手巻き寿司パーティー

一度だけ、スワロフスキーの小物を買ったことがある。

鋭いトゲが輝いている、小さなハリネズミだった。

あれは、おそらく2002年(平成14年)の春で、僕は35歳になろうとしていた。

もっとも、このハリネズミ、正確に言うと僕のものではない。

このハリネズミは、当時6歳だった僕の長女のために買ったものだった。

2002年(平成14年)3月、娘は1年半通った幼稚園を卒園した。

4月から小学校へ上がるためだ。

卒園式で娘は号泣した。

担任だった女の若い先生と別れることが悲しかったらしい。

普段は、あまり幼稚園に拘泥することもなく、卒園式の朝も淡々と登園していったから、僕らは娘の泣いたことが、ひどく意外だった。

娘が号泣していることで、女の先生も別れが辛くなってしまったらしい。

みんなの前で号泣しながら、娘を抱きしめている。

その先生の仕草が優しすぎたためか、娘はさらに大きな声を出して泣いた。

その夜、僕らは娘のために、卒園のお祝いの会を開いた。

親子三人だけの小さなパーティーである。

料理は娘の好きな手巻き寿司だった。

思えば、我が家ではいつでも、家族3人だけの集まりを大切にしてきた。

節目のときに手巻き寿司パーティーを開くことが定番になったのも、おそらく、この卒園パーティーが最初だったのだろう。

娘の誕生日のお祝いも、今に至るまで必ず手巻き寿司というメニューが続いている。

僕らは、娘の小学校入学を機に、新しいマンションを購入していた。

3月の春分の日が引っ越しだったから、娘の卒園式のお祝いは、僕らにとって引っ越しの前祝いのようなものでもあった。

スワロフスキーのハリネズミ

卒園式が終わった後、僕らは泣きはらした目をしている娘を連れて、街のデパートへと出かけて行った。

そして、ずっと娘がほしがっていた、ガラス製の小さな置物を買った。

それが、今回の青春ベストバイであるスワロフスキーのハリネズミである。

透明でキラキラ光るモノが好きだった娘は、親戚の家で見つけたスワロフスキーを、ずっと欲しがっていた。

もちろん、そんなものを簡単に買えるはずがない。

デパートで買うと、スワロフスキーの小物は、小さなサイズでも20,000円を超えていたし、まして、幼稚園児のオモチャとして、スワロフスキーはふさわしいものではなかったからだ。

ずっと買えないでいたスワロフスキーを、僕らは卒園の記念品として娘に贈った。

ハリネズミを選んだのは彼女自身だ。

このスワロフスキーのハリネズミは、卒園の記念品としてプレゼントするが、決してオモチャにして遊んではいけないと、僕は娘と固く約束した。

そして、スワロフスキーのハリネズミは、僕の古いガラスコップなんかと一緒に、アンティークのガラス棚の中へ飾っておくことにした。

欲しかったガラスの動物と大好物の手巻き寿司で、娘は卒園式で泣いたことなんか、すぐに忘れてしまったらしい。

新しいマンションとこれから入学する小学校のことを話しながら、卒園のお祝いパーティーは終わった。

あれから20年以上の時が経つ。

3月21日に引っ越しをした僕らは、約束どおり、ガラスケースの中にスワロフスキーのハリネズミを飾った。

大きな窓ガラスの隣で太陽の光を浴びながら、ハリネズミはいつでもキラキラと輝いている。

まるで時の流れなんか関係ないとでも言うかのように。

そして、娘は、幼稚園の卒園のお祝いに、スワロフスキーを買ってもらったことなんか、もうすっかりと忘れてしまっているようだった。

新しいマンションへの引っ越しと新しい小学校への入学。

幼い娘にとっては、激動すぎる春の訪れが、幼稚園のことなんか、すっかりと洗い流してしまったのだろう。

幼稚園で娘を担当した女の先生からは、何度か手紙が届いたようだったが、娘はあまり熱心には返事を書かなかったらしい。

やがて、結婚を機に幼稚園を退職したという連絡を最後に、先生からの手紙もすっかりと途絶えてしまった。

娘は大学を卒業して、もう6年が経とうとしている。

時の流れの中で、スワロフスキーのハリネズミだけが、今も、あの頃のままだ。

ABOUT ME
みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。源氏パイと庄野潤三がお気に入り。