サリンジャー「エズミに捧ぐ――愛と汚辱のうちに」読了。
本作「エズミに捧ぐ」は、1950年(昭和25年)4月『ザ・ニューヨーカー』に発表された短編小説である。
この年、著者は31歳だった。
作品集としては、1953年(昭和28年)にリトル・ブラウン社から刊行された『ナイン・ストーリーズ』に収録されている。
汚辱にまみれた若者の心と少女の人間愛
本作「エズミに捧ぐ」は、戦争で精神を病んだ若者が、一人の少女からの手紙によって希望を取り戻すという、破滅と再生の物語である。
1944年(昭和19年)4月、アメリカ兵の<わたし>は、イギリスのデヴォン州で、ノルマンディ上陸作戦のための特殊訓練を受けていた。
いよいよロンドンへ向かって出発するという日の夕方、<わたし>は散歩の途中で寄った喫茶店で<エズミ>という一人の少女と出会う。
13歳ぐらいの彼女は、<チャールズ>という弟を連れていたが、父と母を亡くし、伯母の家で暮らしていると言った。
今や孤児の彼女は、卑屈になることもなく、自分の両親が、いかに立派な人間であったかということを話して聞かせる。
そして、<わたし>の職業が短編作家だと知ったとき、エズミは、自分だけのための短編小説を一つ書いてほしいと乞う。
「どちらかといえば、汚辱のお話が好き」と、言った。「何の話ですって?」私は身を乗り出して言った。「汚辱。わたし、汚辱ってものすごく興味があるの」(サリンジャー「エズミに捧ぐ」野崎孝・訳)
別れる間際にも、彼女は「うんと汚辱的で感動的な作品にしてね」と、<わたし>に念を押した。
貴族の流れを汲むという彼女は、毅然としてはいたけれど、戦争による精神のダメージには、やはり計り知れないものがあったのかもしれない。
場面は変わって、1945年(昭和20年)6月。
ノルマンディ上陸作戦を成功させた見習曹長<X>は、パヴァリア(ドイツのバイエルン地方)のガウフルトにある民家の二階にいた。
後半に入って、物語の主人公は<わたし>から<X>へと転換しているが、これは明らかに同一人物だろう(神経衰弱の<わたし>に、一人称で物語を進めることは難しかったのかもしれない)。
激しい戦闘で精神を病んだXは、不眠と顔の痙攣に悩み、手が震えるため、まともに字を書くことさえできない。
「おい、じょうだんじゃねえぜ。おめえを病院で見たときよ、おらあ、もうちっとで気を失うとこだったぜ。てんで、死人そっくりなんだからな」(サリンジャー「エズミに捧ぐ」野崎孝・訳)
物語後半のほぼすべてにおいて、神経衰弱に苦しむXの汚辱的な様子が克明に描き出されている。
破滅の際にあった彼を救ったのは、ロンドンへ出発する直前に出会った13歳の少女エズミからの手紙だった。
彼女は手紙と一緒に、父の形見だという腕時計を同封していた。
腕時計はガラスのところが壊れていたが、他に故障がないかどうかを、彼は調べてみることができない。
ところが、その腕時計を手にしているうち、彼は陶然と引き込まれていくような快い眠気を覚える。
エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機──あらゆるキ─ノ─ウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね。(サリンジャー「エズミに捧ぐ」野崎孝・訳)
ガラスの壊れた腕時計は、戦争で病んだX(=<わたし>)の精神状態の象徴だろう。
しかし、極度の不眠から解放されたXには、回復へのわずかな希望を感じることができる。
「あらゆる機能」が「あらゆるキ─ノ─ウ」となっているのは、腕時計の秒針のリズムと読み解くこともできる。
つまり、彼の心は腕時計のガラスのように壊れているけれど、人間としての機能はまだ壊れてはいないということが、ここに暗示されているということだ。
副題にある「愛」とは、亡くなった両親や孤児になった弟、そして、行きずりの孤独なアメリカ兵に捧げる、エズミの愛情を意味するものだろう。
戦地での神経衰弱という汚辱にまみれた若者の心は、エズミという一人の少女の人間愛によって救われる。
「バナナフィッシュにうってつけの日」では自殺するしかなかったアメリカ兵の汚辱が、「エズミに捧ぐ」では再生の物語として描かれているのである。
なお、戦争PTSDについては、野間正二「戦争PTSDとサリンジャー 反戦三部作の謎をとく」に詳しい考察がある。
「汚辱」とは、参戦国アメリカであり、戦争そのものだ
著者サリンジャーのアメリカに対する感情は、イギリスの少女エズミの言葉によって示唆されている。
「だって」と、彼女は言った。「わたしの見たアメリカ人って、やることがまるで動物みたいなんですもの、いっつもおたがいに撲り合いをしたり、みんなを侮辱したり、それから──一人はどんなことをしたか、ご存じ?」(サリンジャー「エズミに捧ぐ」野崎孝・訳)
一人のアメリカ兵は、エズミの伯母の家の窓から、ウイスキーの空き瓶を放り込んだのだと言う。
<わたし>は、およそ兵隊というものは自家から遠く離れているし、恵まれた境遇にあった者なんかほとんどいないと釈明するが、「一人はどんなことをしたか、ご存じ?」というエズミの質問は、作中の<わたし>ではなく、本作品を読んでいる読者(戦後のアメリカ人)に向かって発せられた質問だろう。
傷付いたアメリカ兵の苦悩を描きつつ、「エズミに捧ぐ」は、戦地におけるアメリカ兵の恥ずべき姿をも同時に描いている。
アメリカ兵の神経衰弱も、アメリカ兵による乱暴な行為も、つまりは戦争に対する批判であり、戦争に参加した本国アメリカに対する批判なのだ。
「汚辱」とは、戦争に参加した故国アメリカの姿であり、戦争そのものの姿である。
汚辱を拭うことができるのは、人間による、人間同士の愛だ。
エズミが願った「うんと汚辱的で感動的な作品」、それを実現することができるのは、やはり、戦争の話しかなかったのだろうか。
作品名:エズミに捧ぐ――愛と汚辱のうちに
著者:J.D.サリンジャー
訳者:野崎孝
発行:1974/12/20(1988/1/30改版)
出版社:新潮文庫