文学鑑賞

サリンジャー「小舟のほとりで」反ユダヤ主義から息子を守る家族の愛

サリンジャー「小舟のほとりで」あらすじと感想と考察

サリンジャー「小舟のほとりで」読了。

本作「小舟のほとりで」は、1949年(昭和24年)4月『ハーパーズ』に発表された短編小説である。

この年、著者は30歳だった。

作品集としては、1953年(昭和28年)にリトル・ブラウン社から刊行された『ナイン・ストーリーズ』に収録されている。

家族の絆を通して人種差別という現代社会の闇に光を当てる

本作「小舟のほとりで」は、家族の絆を通して、現代社会に巣くう人種差別という闇に光を当てた作品である。

物語は、女中<サンドラ>と掃除夫<スネル夫人>との、何やら不穏な会話から始まる。

「くよくよするのは止しなさいったら」ミセス・スネルは言った。「気にしたからって、なんの得になるっていうのよ。どっちみち、あの子が告げ口するかしないか、二つに一つにでしょ。気にしたところではじまらないわ」(サリンジャー「小舟のほとりで」)

どうやら、自分の発した言葉が「あの子」に聴かれてしまったことで、サンドラが不安になっているらしい。

それは、両親への「告げ口」に値するものらしいが、その理由は、物語の最後の場面で分かる。

「サンドラがね──スネルさんにね──パパのことを──でかくて、だらしない、ユダ公だって──そう言ったの」ブーブーは、ほんの分るか分らぬぐらい怯みを見せたけれど、息子を膝から抱き下ろすと、自分の前に立たせて額にかかった髪を掻き上げてやった。「そう、そんなこと言ったの?」(サリンジャー「小舟のほとりで」)

25歳の主婦<ブーブー・タンネンバウム>は、夫や息子と一緒に、湖の畔にある別荘に滞在している。

息子<ライオネル>は4歳で、感受性が強く、傷つきやすい性格をしているらしい。

その日も、ライオネルは、サンドラの言葉に傷付いて、別荘を抜け出し、湖の畔につながれたままになっている小舟(ディンギー)の中に隠れていたのだ。

本作は、小舟に隠れたライオネルとブーブーとの会話が、物語の主軸となっているが、母親ブーブーは、あくまでも幼いライオネルの心に寄り添い続ける。

「でもね、それはそう大したことじゃないわ」ブーブーは息子を両腕と両脚で万力のようにきつく抱きしめながら言った。「世の中にはもっともっとひどい事だってあるんだから」(サリンジャー「小舟のほとりで」)

「ユダ公」は、明らかにユダヤ人に対する蔑称であり、サンドラの反ユダヤ主義的な発言に、ブーブーは一瞬怯むが、「世の中にはもっともっとひどい事だってあるんだから」と言ってライオネルを抱きしめる。

この後、二人は駅まで父親を迎えに行き、永らく放置されていた小舟を遊びに行こうと約束する。

ブーブーは家族の絆を強めることで、ユダヤ人に対する敵意からライオネルを守ろうと考えたのだろう。

帆を外されたまま放置されている小舟で遊びに行こうというブーブーの提案は、家族の再生と新たな船出を予感させる。

美しい家族愛が、人種差別の醜さを、一層浮き上がらせている。

シーモア・グラスの妹ブーブー・グラス

本作の主人公ブーブー・タンネンバウムは、グラス家の一人である。

「旧姓グラース」「昔はシーモア伯父さんのだったんだもん」などというブーブーの台詞から、ブーブーが「バナナフィッシュにうってつけの日」で自殺した<シーモア・グラス>の妹であることが分かる。

二十五歳の小柄でヒップがないみたいな女性で、何色と言えるほどの特色もなければしなやかさもない髪の毛は、ヘア・スタイルなどあらばこそ、ただ耳の後ろに押しこくっているばかり。そのまた耳がいやに大きい。(サリンジャー「小舟のほとりで」)

「小舟のほとりで」では、旧姓<ブーブー・グラス>の外見的特徴が丹念に描写されていて興味深い。

同じくグラス・サーガの「コネティカットのひょこひょこおじさん」に登場する<ウォルト>は、まだグラス家の人間であることが明かされていないから、ブーブーは、『ナイン・ストーリーズ』で初めて登場したシーモアの兄弟ということになるだろう。

本作「小舟のほとりで」のテーマは家族愛で、ひとりぼっちで死んでいった「バナナフィッシュ」のシーモアとは、随分事情が異なっている。

それだけに、「小舟のほとりで」は重いテーマと向き合っていながら、未来への明るい予感を感じさせる作品だ。

こうした未来志向は、「対エスキモー戦争」の最後の場面でも感じられたことで、『ナイン・ストーリーズ』という作品集においても、著者サリンジャーの変化が現れている部分として読むことができそうだ。

作品名:小舟のほとりで
著者:J.D.サリンジャー
訳者:野崎孝
発行:1974/12/20(1988/1/30改版)
出版社:新潮文庫

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。