村上春樹『海辺のカフカ』は、15歳の少年の成長を描いた物語である。
しかし、単なる少年成長譚と違って、そこには様々なテーマが加えられているから、主題である少年の成長でさえ、しっかりと把握することは難しい(それが「村上春樹」という作家なのだが)。
今回は『海辺のカフカ』を読み解くための基本として、まずはメインテーマである「少年の成長」という観点から、この物語を考察していきたい。
この考察記事は「深読み1万字考察(全4回)」の第2回目の考察記事です。
はじめに|不登校少年の学校復帰物語
本作『海辺のカフカ』は、15歳の少年の成長を描いた、いわゆる「少年成長譚」である。
中学3年生の主人公(田村カフカ)が家出をして、学校を不登校となり、やがて、学校へと戻っていく。
端的に言って、この物語は、不登校少年の学校復帰物語なのだ。
しかし、カフカ少年が「社会復帰しよう」と考えるに至った心の動きは、決して単純ではない。
彼は、なぜ家出をやめて社会に復帰しようと考えたのだろうか?
15歳のモラトリアム少年
主人公(田村カフカ)は、様々な葛藤を抱えた15歳のモラトリアム少年である。
① 15歳の少年の葛藤
主人公(田村カフカ)は、様々な心の葛藤を抱えた15歳の少年である。
幼少時に姉を連れて家を出た母親の顔は覚えていない。
国際的に著名な芸術家である父親は、一人息子に家族の愛情を示すことはなかった。
むしろ、父親との二人暮らしに、少年は苦痛さえ感じている。
母親に棄てられた彼にとって、家庭は決して心地良い居場所ではなかったのだ。
同じように彼は、学校にも馴染むことができなかった。
上流家庭の子どもたちが集まる私立中学で、親しい友だちもなく、彼は自分の中の「カラスと呼ばれる少年」にだけ、心を打ち明けることができる。
だから、彼の家出は、家庭から脱出するためでもあり、同時に学校から逃げ出すためでもあった。
彼は、15歳の不登校少年である。
時に彼は平静を失って、無意識のうちに誰かを傷つけていることがあった。
彼は「キレる若者たち」の一人でもある。
主人公の重すぎる課題は、主に次のようなものだ。
・幼少時、母親に棄てられた
・父親に愛されることなく育った
・中学校に馴染むことができない
・瞬間的に「キレる」ことがある
家庭環境、学校教育、制御できない感情。
実に多くの課題を抱えて、15歳の少年は生きていた。
大島さんはベッドに座って足を組んでいる。(略)「どうやら君は数々の乗り越えるべき課題を抱えこんでいるみたいだね」(村上春樹「海辺のカフカ」)
後に大島さんは彼を「15歳の、暴力的傾向のある、オブセッションを抱えた家出少年」と呼ぶことになる。
② 3人の重要人物との出会い
15歳の誕生日に家を出たカフカは、四国・高松へ向かう高速バスの中で、年上の女性(さくら)と出会う。
高松市内の私立図書館「甲村記念図書館」で、司書の青年(大島さん)と出会った彼は、大島さんの好意により、図書館に住み込みで働き始める。
カフカは、図書館長である中年女性(佐伯さん)に恋をして、やがて彼女と深い関係になっていく。
つまり、物語のあらすじを極めて簡単に言えば、次の3つに要約することができる。
①さくらさんとの出会い
②大島さんとの出会い
③佐伯さんとの出会い
このうち、佐伯さんと大島さんは図書館の職員であり、物語は「甲村記念図書館」という不思議な空間を舞台として進められていくことになる。
③ カフカ少年の不思議体験
次に、家出中のカフカがどのような体験をしたのか、簡単に整理してみよう。
四国の神社で気を失っている間に、東京の自宅で父が殺された。
衣服に大量の血が付いていたことで、カフカは、自分が父を殺害したのではないかと考える。
一方、15歳の少女時代の佐伯さんと出会った彼は、アラフィフの佐伯さんと深い恋に落ち、彼女を自分の母親ではないかと思いこむようになる。
やがて、カフカは肉体的にも佐伯さんと愛し合うようになってしまった。
佐伯さんとの初体験のあと、激しい性衝動を抱えた彼は、夢の中でさくらを激しくレイプする。
思春期の少年にとって、抑えきれいない性衝動は、彼自身を苦しめるものでしかなかった。
さらに、深い森の中で彼は、15歳の佐伯さんと静かに暮らし始める。
そこに現れたのは、大人になった現在の佐伯さんだった。
夢と現実が輻輳する物語の中で、カフカに起こった一連の出来事は次のとおりだ。
①父親を殺したかもしれない
②母親とセックスしたかもしれない
③姉をレイプしたかもしれない
④深い森の中で15歳の少女と暮らした
不思議な体験を経て、カフカは社会復帰へと心を切り替えていくことになる。
果たして、カフカはなぜ、自らの葛藤を乗り越えることができたのだろうか?
自分の殻を打ち破る
四国滞在中、カフカ少年にとって大きな出来事が三つあった。
① 父親の死がもたらしたもの
父親との生活から解放されたくて家を出たカフカにとって、東京で暮らす父親(田村浩一)の殺害事件は、紛れもなく重大事件だった。
父親の殺害を望んでいた彼は、自分こそ「父親を実際に殺した犯人」ではないかと悩み始める。
もちろん、カフカは四国に滞在中だったし、東京にいる父親を殺すことは物理的に不可能だ。
問題は、彼が父親の死を望んでおり、父親は現実的に誰かの手によって殺されてしまった、ということだった。
この「疑似的な父親殺害事件」は、カフカ少年にとってひとつの大きな転機となっていく。
② 母親との肉体関係が行き着くところ
「自分の母親かもしれない」と信じる女性(佐伯さん)との出会いは、物語における中心的なドラマとなっている。
彼は幼い頃に損なわれた母子関係を修復するかのように、佐伯さんと性的関係を持つ。
それはどこにも行き場のない、行き止まりのような恋だったかもしれない。
大切なことは、彼が自分自身の「深い傷痕」と正面から向き合ったということだ(「母親に棄てられた子ども」というトラウマ)。
自分が母親と信じる女性とセックスをすることで、カフカは自分自身の「闇」を暴き出そうとしていた。
佐伯さんとのセックスなくして、カフカ少年が再生することはなかったのだ。
③ 姉をレイプしたとき
さらに、彼は、密かに「お姉さんかもしれない」と考えている年上の女性(さくら)を、夢の中でレイプしてしまう。
疑似的な父親殺害とも、母親との近親相姦とも違うところは、彼は自らの強い意志によって「暴力的に女性を強姦した」ということだ(夢の中とは言え)。
君の中でそのなにかは、今では姿をはっきりと現している。(略)殻は完全に破られ、捨て去られている。(村上春樹「海辺のカフカ」)
こうして彼は、自分自身の殻を捨て去り、剥き出しになった自分自身と向き合うことになる。
父親を殺し、母親を犯し、さらには姉をも犯すことで、初めてカフカは、自分が抱えていた葛藤を曝け出したのかもしれない。
少年にとって再生するために必要な環境が、ようやく整いつつあった。
絶望からの再生
剥き出しになった自分自身を抱えて、彼は深い森の中へと入っていく。
自分のトラウマを曝け出した今、彼には「癒されること」が必要だったのだ。
①『サウンド・オブ・ミュージック』という喪失体験
森の中の小屋で、彼は『サウンド・オブ・ミュージック』の映画を観る。
それは、彼が子どもの頃に観た数少ない映画の一つだった。
僕はテレビの前に座って、引きこまれるようにその映画を観る。もし僕の少年時代にマリアのような人がそばにいれくれたら、僕の人生はもっとちがったものになっていたことだろう。(村上春樹「海辺のカフカ」)
幼い子どもに無条件の愛情を降り注いでくれるはずだった、優しい女性の不在。
それは、彼にとってひとつの重大な喪失体験となっている。
② 15歳の少女との再会
森の小屋で彼は、15歳の少女(佐伯さん)と暮らし始める。
それは、彼が心のどこかで待ち望んでいただろう、夢のような暮らしだった。
そこには時間という概念はなく、15歳の少女は永遠に15歳のままだ。
時間という概念のない世界では、記憶さえも重要な問題ではない(記憶は図書館で扱っている)。
記憶を棄てて、永遠の時間の中で生きるべきなのか?
彼は、自分の創りあげた夢のような世界に戸惑う。
そんなとき、彼の前に現れたのが、愛する(大人の)佐伯さんだった。
③ 佐伯さんとの別れ
佐伯さんは、カフカ少年に「ここを出ていくように」懇願する。
なぜなら、彼女にとって「記憶」は、何よりも大切なものだったからだ。
「さようなら、田村カフカくん」と佐伯さんは言う。「もとの場所に戻って、そして生きつづけなさい」(村上春樹「海辺のカフカ」)
彼は佐伯さんの「血」を受け継ぎ、生き続けていくことを決意する。
重要なことは、カフカ少年が、自分自身の判断によって「森」の中から出ることを決断したということだ。
彼の成長は、おそらく「この瞬間」に象徴されている。
二人の兵隊の忠告に従い、彼は「後ろ」を振り返ることなく、元の世界へと戻っていく。
そこは、彼が希望の欠片さえも見出すことができなかった、あの絶望の社会だった。
謎解き『海辺のカフカ』
ここで改めて、主人公(カフカ少年)の再生に至る過程を整理しながら、『海辺のカフカ』に潜む「謎」を整理していこう(カフカ少年に関わる部分のみ)。
メタフィジカルな物語
この小説は、15歳の家出少年が社会復帰するまでの経過を描いた物語である。
※カフカ少年は家出をする
①カフカ少年は、さくらさん・大島さん・佐伯さんと出会う
②父親が殺され、カフカ少年は佐伯さん・さくらさんと性交する
③森の中で、カフカ少年は佐伯さんに別れを告げる
※カフカ少年は社会復帰する
ストーリーだけを端的に整理すると、カフカ少年は、疑似的に父親を殺し、母親(佐伯さん)や姉(さくら)とセックスすることによって、生身の自分を曝け出し、剥き出しになった自我を(森の中で)佐伯さんに慰められたことで治癒された、ということになる。
もちろん、それらは、大島さんの言葉を借りると「すべてがメタファーだった」はずだ。
「世界の万物はメタファーだ。誰もが実際に父親を殺し、母親と交わるわけではない。そうだね? つまり僕らはメタファーという装置をとおしてアイロニーを受け入れる」(村上春樹「海辺のカフカ」)
村上春樹は、作品の中で、自分の小説の解説をする作家として知られている(もちろん、メタフィジカルな物語として)。
大島さんの言葉は、明らかに『海辺のカフカ』という作品に向けて発せられたメタフィクションなセリフだった。
そもそも、15歳の少年にとって、父親との確執や、母親への愛情欲求は、格別に珍しいものではない。
むしろ、(陳腐とさえ言いたいほど)ありきたりな現象を、(意味不明の)ミステリアスな物語として呈示することこそ、村上春樹という作家に期待される役割だったのではないだろうか。
『オイディプス王』の呪いの意味
この物語が伝えているものは、多くの葛藤を抱えて生きていかなければならない、モラトリアムな少年少女たちに対する応援メッセージだ。
僕は言う。「お前はいつかその手で父親を殺し、いつか母親と交わることになるって」(村上春樹「海辺のカフカ」)
多くの場合、15歳の少年少女たちは、両親の「呪い」を背負って生きているものだ。
両親の希望という名の明るい「呪い」を。
両親の願望が大きすぎるほど、子どもたちにかかるプレッシャーは大きくなり、やがて「願い」は「呪い」へと姿を変えていく。
田村カフカが背負い続けてきた『オイディプス王』の呪いは、もしかすると、どこの家庭にもあるものだったのではないだろうか。
「森」は少年の深層心理だった
カフカ少年の再生は、深い森の中の小屋で、佐伯さんと再会したことによって、得られるものだ。
言うまでもなく、「森」は、主人公カフカ少年の「深層心理」を可視化したものである。
心の傷痕を癒すためには、心の奥深いところまで潜りこんでいかなければならない。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で「壁に囲まれた街」へ入ったように、あるいは、『ねじまき鳥クロニクル』で「井戸の底」へと降りていったように、カフカ少年は二人の兵隊に案内されながら、深い森の中へと分け入っていく。
そこは、彼自身の中にある「無意識」という名の森だ。
もしかすると、彼は、彼自身の創りあげた「森」の中から戻ることができなかったかもしれない。
しかし、彼は、自ら佐伯さんとの別れを決断し、森を出た。
彼は、自らのトラウマを乗り越えることに成功したのだ(とりあえず、現段階として)。
彼を「森」へと導いたのは、疑似的な父親殺害事件と、母親や姉かもしれない女性たちとのセックスである。
それは、隠された彼自身の自我を剝き出しにする上で、必要な手順だった。
その過程をメタフィジカルな物語として描いた小説が、本作『海辺のカフカ』という作品である。
田村カフカの成長を柱として、物語は様々な展開を見せていく。
多くのテーマが盛り込まれた本作は、いわゆる「総合小説」だったからだ。
果たして、田村カフカをめぐる物語世界は、どのように構築されているのか?
次回は、主人公カフカ少年以外の登場人物が抱える「空白」について、詳しく考察していきたい。
▶『海辺のカフカ』詳細考察②歪んだ社会の実像(近日公開予定)
まとめ│キレる若者たちへ
「キレる17歳」が社会問題化したのは、2000年頃のことだった。
1997年の神戸連続児童殺傷事件(いわゆる「酒鬼薔薇聖斗事件」)以降、重大な少年事件が多発し、「17歳の少年」は社会的に大きな関心事となった。
2000年には、流行語大賞候補に「一七歳」がノミネートされている。
『海辺のカフカ』の背景となっているのは、「キレる若者たち」への共感である。
彼らは、なぜキレるのか?
家庭環境(親ガチャ)や学校教育(不登校)、性的衝動(レイプ)などを中心に、『海辺のカフカ』は不安定なモラトリアムを克明に描き出した。
居場所の不在、自分探し。
彼らはいつでも不安であり、何を信じていいのか戸惑っている。
そんな彼らの不安に対するひとつの答えが、本作『海辺のカフカ』だったのではないだろうか。
もちろん、村上春樹はメタフィジカルな作家であり、『海辺のカフカ』はメタフィジカルな物語である。
「難しい」「意味不明」「よくわからない」などの感想があって当然の作品だ。
それでも多くの読者は、この作品から何かを感じ取っている。
大島さんが言ったように「そこにある言葉から予言的なトンネルを見つける」ことによって。
もしかすると、本作『海辺のカフカ』は、感じることが最も問われる小説だったのかもしれない。
▶ 親記事│村上春樹『海辺のカフカ』なぜこの難しい物語は僕たちを惹きつけるのか?
