大島一彦「小沼丹の藝 その他」読了。
本書は、著者の旧作である『英国滞在記』と『寄道—試論と随想—』からの抜粋に近作を加えた随筆集である。
著者は早稲田大学の大学院で小沼丹に師事した英文学者で、書名となっている「小沼丹の藝」は、小沼さんが初めて芥川賞候補となった代表作「村のエトランジェ」について論じた文芸論だが、その他、院生の目から見た小沼丹の姿が描かれている随筆がたくさん入っている。
「寄道—小沼丹先生の横顔—」は、仕事を終えて飲みに出かける小沼丹の日常を描いたもので、「志のぶ」や「くろがね」といった馴染みの飲み屋が登場する。
ある晩、「くろがね」で著者と小沼さんがサシで飲んでいると、フランス文学者で詩人の村上菊一郎が一人で入って来た。
既に酔っているらしく、「一人酒場で飲む酒は、か…」などと呟いているのが聞こえる。
やがて、村上先生は二人に気がついて、時折会話を交えつつも、相変わらずちびりちびりとやりながら「逢わなきゃよかった今夜のあなた、これが苦労の初めでしょうか…」などと、口ずさむように歌い始めた。
著者が、何だか気になる文句だなと思っているうちに、村上先生は勘定を済ませて、「とくとく帰れ善福寺…」と口ずさみながら店を出て行ったという。
「とくとく帰れ善福寺」は、庄野潤三の作品にも登場している村上先生の得意技で、いわば、自宅へ帰る際の伴奏曲のようなものであったらしい。
同じく「くろがね」では、著者たち学生が小沼先生を囲んで数人で飲んでいると、衝立を挟んだ向こう側で、作家の庄野潤三が、同じように数人で飲んでいるということがあった。
小沼先生は「おや、庄野が来てるな」と呟いただけで、特に挨拶を交わすでもなく、学生たちと歓談を続けていたが、他に客がいなくなったと思われる頃、衝立の向こう側から突然、庄野さんが「小沼、唄を歌わないか」と言った。
小沼先生は間髪入れずに「うん、やろう、やろう」と答えて、衝立を挟んだまま、互いのグループで歌合戦が始まった。
このとき、庄野さんは「愛しのクレメンタイン」を力強い英語で歌ったらしい。
互いのグループが十曲くらいずつ歌ったところで、庄野さんの組は席を立ったが、帰り際に庄野さんは初めて衝立越しにちょっと顔を覗かせて「じゃ、小沼、お先に」と声をかけ、小沼先生も「うん」と短く頷いた。
それは、呆気ないといえば呆気ない別れであったが、見方によっては何とも粋な幕切れであった。
最後に著者は「僕達教え子どもとしては、うん、これぞまさしく君子の交わり、の感を禁じえなかったが、それにしてもこの夜のお二人の阿吽の呼吸と云うか、以心伝心の妙は印象的であった」と、当時を回想している。
「くろがね」では、さらに井伏鱒二が登場する回想もあり、この店が小沼丹にとっていかに愛着の深い店であったかということが伝わってくる。
小沼丹以外のところでは、三浦哲郎や小林秀雄、福田恒存などの話が収録されている。
さらに、文学以外の文章として、「ハムステッドの日日」をはじめとする、英国滞在当時の回想記が収録されていて、イギリス文学を好きな向きには、こちらも楽しめる内容となっている。
回想記が中心ではあるが、文学者たちの意外な一面を知ることのできる貴重な文壇史のひとつとして読みたい。
書名:小沼丹の藝 その他
著者:大島一彦
発行:2005/10/14
出版社:慧文社