福原雛惠編「福原麟太郎追悼録」読了。
本書「福原麟太郎追悼録」は、故人の七回忌の節目に作成された追悼録である。
福原麟太郎を敬愛していた庄野潤三
福原麟太郎が亡くなったのは、1981年(昭和56年)1月18日のことである。
吉澤貞「無上の幸福」によると、故人の遺志を踏まえて、棺の中には安藤鶴夫の落語の本が入れられたという。
河盛好藏「福原先生の手紙」には、安藤鶴夫の「ご縁」という随筆の話が出てくる。
ある身祝いの集まりに、先生ご夫妻がおいで下すったお礼にうかがった時、先生のおかあさまが、おつくりになったものを、三つも、わたしに、下すった。泣くように、嬉しくって、しまのは惜しく、以来、いつも、うち中で、みることの出来る茶の間に、吊ってある。<安藤鶴夫「ご縁」より>(河盛好藏「福原先生の手紙」)
美しい糸で作った古風な手毬であったらしい。
先生とはもちろん福原麟太郎のことで、河盛好藏も同じ手毬をもらっていて、「娘がお嫁に行くとき、一つずつ持たせてやった」と綴られている。
同じ河盛好藏の「福原麟太郎先生を偲ぶ」には、庄野潤三の名前がある。
庄野潤三君は、『福原さんを偲ぶ』という美しい文章のなかで、西洋文学者としての福原先生の、誰も真似のできない力量と功績を実に見事に表現した。
そのようなことを書いている、という文章だ。
この庄野潤三「福原さんを偲ぶ」と、同じ『福原麟太郎追悼録』の中に収録されている。
福原さんは英国の文学の精髄ともいうべきものをご自分の中ではぐくみ、養いながら、長い年月をかけて根気よく、丁寧に日本の風土に移し植えられた。その大きなお仕事を成就して、悠々とお亡くなりになった。イギリス風の考えかたを福原さんから手を取って教えられたという感謝の気持を抱きつつ、この人を見送る。(庄野潤三「福原さんを偲ぶ」)
庄野さんは、福原麟太郎のことを本当に敬愛していたのだろう。
著作のいろいろなところに福原麟太郎という名前が当たり前のように出てくるのを見ていると、そう思わずにいられない。
そして、僕が福原麟太郎の作品を読むようになったのも、そんな庄野潤三の影響だった。
福原麟太郎と井伏鱒二
本書には「福原さんの思い出」という庄野さんの追悼文も収録されている。
若いのがいいのではないんだ。そんなものを得意がっているようでは駄目なんだ。ひとつひとつ経験を積み重ねて、苦労しながら学んでゆかなくてはいけないことがこの世にいっぱいあるんだ。もっと早く年を取れ。そういい続けて来られた福原さんが、さっきのお手紙の中にあるように、「どうも本当のバカになったようで」といって年下のわれわれをおからかいになるのである。(庄野潤三「福原さんの思い出」)
この年の2月、庄野さんは60歳になった(大正10年生まれ)。
亡くなった福原麟太郎は86歳だったから(明治27年生まれ)、実に26歳もの年齢差がある。
二人で対談した際に「ずいぶん遅く生まれたものですね」と声をかけられたというのも、懐かしい思い出だっただろう。
ちなみに、広島県立福山中学校で福原麟太郎と同窓だった井伏鱒二は、この年83歳(明治31年生まれ)。
庄野さんは、この二人の大先輩に、生涯敬意を抱き続けていた。
本書には、庄野さんの書いた追悼文が、もう一編収録されている。
荷札までご自分の手でお書きになった小包が野方のお宅から届いて、中身は新しく出された福原さんの著書だが、勿体なくてその包み紙をどうしようかと思ったことがある。それが一回や二回ではない。『トマス・グレイ研究抄』も『チャールズ・ラム伝』もみなそのようにしてお送り下さった。(庄野潤三「野方からの小包」)
福原麟太郎の随筆にも、庄野潤三の随筆にも、まるでイギリスの随筆文学のような味わいがある。
ある意味において庄野さんは、確かに福原麟太郎の後継者だったのだ。
書名:福原麟太郎追悼録
編者:福原雛惠
発行:1987/1/18
出版社:非売品(福原麟太郎追悼録刊行会)