平中悠一「She’s Rain」(シーズ・レイン)読了。
本作「She’s Rain」は、1984年(昭和59年)12月『文藝』に発表された長篇小説である。
この年、著者は19才だった。
1984年(昭和59年)、第21回文藝賞(佳作)受賞。
単行本は、1985年(昭和60年)1月に河出書房新社から刊行されている。
1993年(平成5年)、小松千春主演映画『She’s Rain』原作小説。
スノッブでオシャレな高校生たち
本作『She’s Rain』は、上流階級に生きるスノッブな高校生のひと夏の恋を描いた、青春サマーラブストーリーである。
とにかく、登場人物が、みんなおしゃれ。
主人公(ユーイチ)は、ブルックス・ブラザーズのオックスフォードのボタン・ダウン・シャツや、アニエス・bのシャツを愛用し、ガールフレンドとお揃いのバスケット・シューズを履き(プロケッズ)、W・マルサリスみたいなセル巻のボストン眼鏡をかけている(ウディ・アレンみたいなウェリントンも愛用)。
時代は1983年(昭和58年)の7月で、主人公は17歳の高校2年生。
出会う女のコにかたっぱしから「うん、かあいいと思うよ」と言ってしまう、サービス精神に富んだ優しい男の子だ。
そして、友だち以上恋人未満のガールフレンド(レイコ)も、また、同じく17歳の女子高生だった。
1983年(昭和58年)にアニエス・ベーを着ている高校2年生なんて、どう考えても、オシャレに決まっているが、主人公は、男のコのくせにおしゃれをしているサトシが許せない。
そりゃ僕だってけっこう服とか好きだけど、男のコが外見に気をつかうなんてむなしいことなんだ、本当は。でも、おしゃれしたいから、陰でこそこそやる。そういった矛盾を抱え込んでいるから男のコのおしゃれは刹那くて、だから素的なんだ。(平中悠一「She’s Rain」)
「そういった矛盾を抱え込んでいるから男のコのおしゃれは刹那くて、だから素的なんだ」という言葉には、主人公の生き方が現れている。
泥酔してレイコの部屋に泊まり込んだ日の朝、レイコは、ユーイチのブルックス・ブラザーズを羽織っていた。
その明らかなオーバーサイズの武骨なつくりが、女のコの柔らかさを強調しているあたりの描写など、いかにもファッションが好きな男子です感が伝わってくる。
バンド仲間のクールなカズミは、Y’s(ワイズ)をうまく着こなしているし、レイコは、MILK(ミルク)やピンクハウスが好き。
ファッションにスノッブな高校生は、音楽にもスノッブだ。
「どうしてヤマハのサックスなんて使う?」アルトをソフトケースにしまおうとしている僕にカズミが話しかけてきた。デザインがいいんだ。(平中悠一「She’s Rain」)
銀色のアルト・サックスを使っているユーイチは、「ストリート・キッズ」という名前のインストゥルメンタルのグループに所属していた。
「街の子どもたち」を意味する「ストリート・キッズ」は、この小説の大きなテーマでもある。
素的な街の子供達。あるコは女のコの脚に夢中になる。あるコは信じる。あるコはままならぬ人生に悪態をつく。あるコはビールを飲んで終りにする。(平中悠一「She’s Rain」)
おそらく、彼らは、新進作家「村上春樹」の小説を読んでいたに違いない。
言ってみれば、この小説は、高校生が書いた青春讃歌のような小説なのだ。
幼い頃からクラシック音楽に親しんできた彼らのサウンド・トラックは、もちろん、クラシックとモダン・ジャズだ(そして、彼らのバンドはフュージョン系だったと思われる)。
タカノブ / 僕は言った。サティ、やってみようか。「いいね」タカノブはいった。「ショパンなんてふっとぶよ、きっと」(平中悠一「She’s Rain」)
スノッブな会話が多い割に、物語が面倒くさくないのは、まるで少女漫画を、そのまま文学化してしまったような、軽い文体にある。
たく! ほんと、無警戒で。これがレイコじゃなかったら──理性、理性。レイコのこと女のコとして意識したくはない。(平中悠一「She’s Rain」)
話し言葉による地の文章と、短いセンテンスは、いかにも80年代という感じがする(つまり、軽い)。
主人公の台詞に鍵括弧(「 」)がないのも、当時、多くの作家が挑戦していた、表現上の特徴だろう。
まるで、男子高校生の昔話を黙って聞いているかのような切なさが、この物語にはある。
主人公が最初に言っているとおり、この物語は「1983年の夏、どっかの街でおこった、夢のように純粋なラヴ・ストーリー」なのだ。
サリンジャーとウディ・アレンと村上春樹
お金の心配をすることなく、ブランドものの服を着て、ビール・パーティーを開く彼らの青春物語。
その根底にあるのは、10代の少年ゆえの純粋さである(つまり、イノセント)。
あらゆる意味でレイコを束縛したくない。いつまでもレイコは自由なままで──光っていてほしい。(平中悠一「She’s Rain」)
レイコのことが大好きなのに、レイコを恋人にしたいとは思えないという自己矛盾。
本作『She’s Rain』最大のテーマは、一緒にいたいけど、恋人にはできないという、主人公の内的葛藤にある。
僕はレイコの幻を守りたい。素的な、一人で歩いて行ける女のコのままでいてほしい。(平中悠一「She’s Rain」)
おそらく、レイコは、主人公にはない何か(強さのようなもの)を持っていたのだ。
「一体、一人で歩いて行くってことがそんなに立派なことなのかい?」と言ったのは、バンドメンバーのムツだ。
「ねえ」タカノブが言った。「みんな一生懸命なんだ。ただ行き方が違うだけさ。誰にもとやかくいう資格なんて、ないよ」(平中悠一「She’s Rain」)
おそらく、進路問題を抱えた高校生というのは、人生のターニングポイントの上にいるようなものだったのだろう。
それぞれの将来を見据えながら、みんな、頑張って生きている。
この小説からは、生きることに真面目な少年たちの、必死な息遣いが聞こえてくるかのようだ。
僕はかっこわるいコは嫌いだ。自分のスタイルのないコや、頭の良くないコ。小説を書いたりするコ。女のコに抽象的な話をするコ。一生懸命に一生懸命なコ。そういったコとはつきあいたくない、絶対。(平中悠一「She’s Rain」)
フワフワしているように見えて、実は骨のある青春が、この物語を支えていると言っていい(むしろ、そのアンバランスが魅力だ)。
作中、街の情景という描写の中で、「小さな男の子をほったらかして歩く両親」が登場している。
男のコは、歩道ではなく車道を歩いて行く。縁石のすぐそばを、まっすぐに歩いて行く。歩きながら、ところどころハミングを入れて歌をうたっている。別にわけがあってうたってるんじゃない。ただ、うたってる。(平中悠一「She’s Rain」)
幼い少年が歌っていた歌は、おそらく「Coming Through the Rye」(ライ麦畑で出会うとき)だ。
なぜなら、この場面は、明らかにサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』の引用によるものだから。
その子供がすてきだったんだよ。歩道の上じゃなくて車道を歩いてるんだ。縁石のすぐそばのとこだけどね。(略)そして歩きながら、ところどころにハミングを入れて歌を歌ってるんだ。(J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」野崎孝・訳)
このとき、子どもがハミングしていた歌は、主人公(ホールデン・コールフィールド)によって、「ライ麦畑でつかまえて」という作品タイトルへとつながっていく。
つまり、本作『She’s Rain』もまた、『ライ麦畑でつかまえて』の延長線上にある青春小説だということだ。
ねえ、いちばん大切な事は、どうにもならないの? 無力。無力感。真正面から対峙したら、ガタガタになるかもしれないね。生きて行く。危うい足場にひっかかって。ねえ、君のひっかかってるとこは、いまにも崩れ落ちそうだよ。いいんだ。だって僕にはここしかないんだもの。(平中悠一「She’s Rain」)
街の子どもたちに向けられたメッセージ。
それは、主人公自身に向けられた応援のメッセージでもある。
覚悟を決めて、僕は云った。僕はレイコのこと束縛したくないんだ。人は一人で歩いていかなきゃなんないんだ。レイコは顔を上げ、指先で顔にかかる髪をのける。僕の顔を見る。「本気でいってるの」うん。僕は肯いた。「──それって、嘘よ」(平中悠一「She’s Rain」)
自由に生きている彼らにも、将来を真剣に考えなくてはならない時期が来ていたのかもしれない。
結局、理解し合えないままに、二人は永遠の別れを迎える。
作品タイトル「She’s Rain」は、神戸でのデートに由来しているものだ。
でも、雨そのものは素的だ。街の景色が雨のフィルターをとおすと、とてもやわらかにみえる。ざわめきも雨の音と溶け合い、車のクラクションの音にさえ優しさを与える。傘の中は雨のカーテンに包まれて、外界の時の流れから遮断されているみたいだ。(平中悠一「She’s Rain」)
雨の神戸デートは、とても切なくて、既に別れの予感が感じられる。
「ねえ」レイコが雨のはねている足元の水たまりをみつめながら、云った。「あたしのこと、すき?」(平中悠一「She’s Rain」)
雨の中、主人公は、レイコの頬に、そっとキスをする。
この場面は、おそらく、この物語のクライマックスで、まるで、ウディ・アレンの映画を観ているかのように美しい(時代は違うけれど、例えば『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』のような)。
サリンジャーとウディ・アレンの影響が感じられる青春小説。
もうひとつ、忘れてはならない影響が、村上春樹だ。
電車を降りると、そこはいっぱしの田舎町だった。夕方の漁港で人が働いていた。僕の知らない場所で、僕の知らない人が、おそらく僕のことなど知らないままに、一生懸命に生きている。もっと小さかったころ、そんなことに気づいて驚いたことがある。(平中悠一「She’s Rain」)
古い記憶を、現代の生活の中に引用する手法は、初期の村上春樹の作品では普通に見られた。
そもそも、作品の冒頭に、文章についての文章があるあたり、既に村上春樹の強い影響を感じさせるではないか(特に『風の歌を聴け』の)。
僕達は苦悩を知っているだろうか。僕達に詩が書けるだろうか。──書ける。書けるんだよ。そう思わなきゃ、やりきれないよ。(平中悠一「She’s Rain」)
「涙と共にパンを食べたことのない人と詩を語りたくない」は、ゲーテの引用だろう(「涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の本当の味はわからない」)。
というわけで、この作品は、サリンジャーとウディ・アレンと、そして、村上春樹の影響を色濃く反映した青春小説として読むことができる。
送って、いこうか? レイコは、僕の目を見て、くっきりと答えた。「一人で歩いてってほしいんでしょ?」(平中悠一「She’s Rain」)
望むと望まないとにかかわらず、彼らは、一人で歩き始めるべき時期を迎えていた。
高校生の恋愛の切なさが、そこにはある(高校生の恋愛にしかないだろう切なさ)。
そして、「一人で歩いてってほしいんでしょ?」と言ったときの、レイコの気持ち。
主人公は、今も、雨の匂いの中に、レイコの匂いを感じているのだろうか(神戸デートの、雨のキスを思い出しながら)。
この物語の本質として考えられるのは、大人になる一歩手前の若者たちだけが持つ、イノセントな情熱だ。
それ以前にもそれ以降にも感じることはできない、一瞬の切なさ。
著者の言葉を借りると、それが、青春の「刹那さ(せつなさ)」ということになる。
この物語は、青春の痛みを本当に知っている人が書いたのだろう。
幻想的な物語世界の中に、そう思わせられるリアリティがある。
80年代を代表する青春小説として、長く記憶されるべき作品だ。
書名:She’s Rain(シーズ・レイン)
著者:平中悠一
発行:1993/04/05(新装初版)
出版社:河出文庫