野田宇太郎「文学の故郷」読了。
本作「文学の故郷」は、1965年(昭和40年)『北海道新聞』に連載された随筆である。
この年、著者は56歳だった。
単行本は、1967年(昭和42年)2月に大和書房から刊行された。
文学散歩は観光旅行ではない
野田宇太郎は、戦後日本で「文学散歩」を定着させた功労者だが、地域振興を主眼とする文学散歩ブームには、苦々しい思いを抱いていたらしい。
例えば、山陽の尾道では志賀直哉旧居を訪ねている。
尾道は直哉や芙美子の小説読者にとっての文学名所には違いなかったが、それが観光宣伝用に利用されるようになったのは戦後どさくさの間に合わせ文化ブーム、自然破壊、営利観光ブームにともなう文学碑ブームによるのだろう。(野田宇太郎「文学の故郷」)
志賀直哉旧居は「黴のような異様な臭気が鼻を衝」き、「世の中は芸術だった文学が見世物になる程のひどい変りようである」「これでは『暗夜行路』の作者が気の毒だと思った」と綴られている。
文学散歩を観光コースに加えることが当たり前の現代とは、かなり受け止めが異なっていたらしい。
東京数寄屋橋に対するコメントもおもしろい。
そこを通ると、路傍に「ここに数寄屋橋ありき」と書いた碑が立っている。筆者は戦後に一時流行した「君の名は」というメロドラマの作者だから私はおどろく。おそらく「君の名は」を文学と思う者もいないだろうが、この念の入った碑を立てた奴は低能な役人であろう。そんな奴等が江戸城外濠を埋めてとんでもない消費街の西銀座をつくり、戦後の日本をますます住みづらくしたのである。こんな碑を立てるくらいなら、なぜ北村透谷のことを一行でも書き加えなかったかと思う。(野田宇太郎「文学の故郷」)
小田原生まれの北村透谷は、銀座西四丁目並木通り角にあった母の実家(たばこ屋)から泰明小学校へ通った。
「透谷」のペンネームは「数寄屋(すきや)」の地名を「透き谷(すきや)」に充てたものらしい。
泰明小学校には、透谷より四つ年下の島崎藤村も通っており、藤村最初の自伝長編小説『春』には、北村透谷も登場している(主人公の青木駿一)。
北村透谷については、小田原市谷津・高長寺にある墓の話でも触れられている。
それまでの墓は東京芝白金の瑞聖寺という黄檗禅寺の、かなり広い墓地の一角にあった。わたくしは昭和二十六年冬にやっとその墓を捜し出すことができたが、いかにも自殺者らしく悄然としてさみしい墓であった。(野田宇太郎「文学の故郷」)
「透谷北村門太郎墓」の碑陰には「明治二十七年五月十六日死」という文字があったという。
「終戦後はもう世間からもすっかり忘れ去られた透谷の墓」は、その後、故郷である小田原の地に移転されて、現在に至っている。
文学散歩は文学者の生涯を辿る旅
現代では決してメジャーとは思われない文学者に関する記述も多い。
庄野潤三の作品に登場する犬童球渓も、その一人ではないだろうか。
繊月城と呼ばれる相良藩古城壁のほとりに「犬童球渓先生顕彰碑」があり、「故郷の廃家」の第一節が銅板に陽刻されている。そこからたずねていった西間下町は人吉郊外の鄙びた農村だった。そこには球渓の遺族が住み、わたくしは未亡人の案内で、蓬莱山という裏山のふもとにある球渓の墓に詣でた。(野田宇太郎「文学の故郷」)
犬童球渓が生まれたのは、1880年(明治13年)だが、「その生家が『故郷の廃家』そのままの姿をとどめていた」とある(既に他人の手に渡ってはいたが)。
国土開発が進む中とは言え、明治の面影は、当時の田舎には残っていたらしい。
♪夕焼、小焼の、あかとんぼ~の「あかとんぼ」で知られる詩人・三木露風の話も興味深い。
三木露風が、東京都三鷹市で交通禍のために75歳で急逝したのは昭和39年12月29日である。
露風の告別式は年を越した一月十八日に、唯一の宗教詩人らしく吉祥寺カトリック教会で営まれたが、参列した文学関係者といえば十人あまりの詩人だけだった。(野田宇太郎「文学の故郷」)
新聞の死亡記事の扱いも小さかったが、出身地・兵庫県竜野市(現・たつの市)では名誉市民であり、昔のままの生家も霞城町に残るなど、地元では愛される存在だったらしい。
輝くような功績を残しながら、寂しい晩年を過ごした文学者の生涯を思うと、切ない気持ちになってしまう。
本書「文学の故郷」は、文学散歩をテーマとしたエッセイ集だが、文学散歩とは、文学者の生涯を辿る旅でもある。
当然、その作品を知らなければ、旅は始まらない。
そういう意味で本書は、日本の近代文学への入門書であり、文学の世界は、果てしもなく広いものであることを教えてくれるだろう。
それはそれとして、こういう本を読むと、旅に出たくなって仕方ないんだけど。
書名:文学の故郷
著者:野田宇太郎
発行:1967/02/10
出版社:大和書房