J.D.サリンジャーの不朽の名作『The Catcher in the Rye』。
日本でも時代を超えて愛されるバイブル的な一冊だが、いざ本屋やネットで探そうとすると、多くの初心者が一つの戸惑いに直面する。
『ライ麦畑でつかまえて』と『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、どっちを買えばいいのだろう?
実はこの2つは、同じ原書から生まれた「翻訳違い」の作品である。
前者は歴史的な定番である「野崎孝・訳」で、後者は現代のスタンダードとなった「村上春樹・訳」だ。
「翻訳なんてどれも大差ない」と思われがちだが、どちらを選ぶかで小説の印象は大きく変わってしまう。
今回は「野崎・訳」と「村上・訳」の違いを、実際の訳文を比較しながら解説していきたい。
なぜ「2つの翻訳」が存在するのか?
まずは、現在手に入る2つの主要な翻訳について、その背景を整理しておきたい。
この作品は、どちらの翻訳も、サリンジャー作品の日本における翻訳権を独占的に持つ「白水社」から刊行されたものだ。
① 歴史的な大定番│野崎孝・訳『ライ麦畑でつかまえて』
1964年に白水社から発刊された、日本における『ライ麦畑』の超定番である。
「ライ麦畑でつかまえて」というあまりにも有名なタイトルを生み出したという事実だけを見ても、この作品の偉大さが理解できる。
日本における『ライ麦畑』といえば「野崎孝・訳」、これが日本のスタンダードだ。
② 新たなスタンダード|村上春樹・訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
2003年に同じく白水社から発刊された、現代の読者に向けた新訳が、村上春樹・訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。
アメリカ文学に精通している作家・村上春樹が、満を持して翻訳を手がけたことで、大きな話題となった。
タイトルは意訳せず、原題をそのままカタカナ表記にした「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を採用している。
③ 幻の最初の邦訳|橋本福夫・訳『危険な年齢』
日本における『ライ麦畑でつかまえて』には、実はもうひとつの翻訳がある。
それが橋本福夫の訳した『危険な年齢』だが、この作品はさしずめ、最も古く、最も知られていない『ライ麦畑』ということになるかもしれない。
本国アメリカにおける『ライ麦畑』の刊行は1951年(昭和26年)7月だから、1952年(昭和27年)12月にダヴィッド社から刊行された『危険な年齢』の翻訳は、ほぼリアルタイムなものだった。
「危険な年齢」は昨年(1951年)に出版されたものであり、わたしがこの書を初めて読んだのはちょうど一年前の昨年の十二月頃であった。「ハーパース・マガジン」の書評でこの書のことを知り、期待して読んだのだったが、はたして期待に背かないものであると思った。(J.D.サリンガー「危険な年齢」あとがき:橋本福夫)
訳者としては「アメリカの生んだ戦後(アプレゲール)らしい戦後小説」として、この物語を日本へ紹介するつもりだったらしい。
残念ながら入手困難なので、興味のある方は図書館で探してみてはいかがだろうか。
【一目でわかる】野崎訳 vs 村上訳の比較表
ここでは「野崎孝・訳」と「村上春樹・訳」、それぞれの翻訳の主な特徴と違いをまとめてみた。
| 比較ポイント | 野崎孝訳(白水社) | 村上春樹訳(白水社) |
|---|---|---|
| タイトル | 『ライ麦畑でつかまえて』 | 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』 |
| ホールデンの口調 | 「〜なんだな」「〜しやがった」 (個性的な若者言葉) |
「〜なんだ」「〜だった」 (現代的でスムーズな一人語り) |
| 文体の熱量 | 感情的で下品な表現が多い | 静かでナイーブ、透明感がある |
| 翻訳のスタンス | 意訳や省略が多い | 原文に忠実 |
【読み比べ】野崎孝・訳 VS 村上春樹・訳
それでは「野崎孝・訳」と「村上春樹・訳」を具体的に読み比べてみよう。
① 小説の解釈|冒頭の一説から
はじめに、小説の最初の場面から読み比べてみたい。
【野崎孝・訳】
もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたかとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたかとか、そういった《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。(J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」野崎孝・訳)
野崎孝・訳の大きな特徴は、主人公ホールデン・コールフィールドが、当時の若者言葉を使っていることを意識した翻訳だった、ということである。
「聞きたいんならだな」「くだんないことから」のようにブロークンな話し言葉は、野崎孝・訳の特徴のひとつである。
また、語尾が「しゃべりたくないんだな」とあるのは、野崎孝・訳ホールデンの、非常に重要な特徴となっている。
野崎孝はこの小説を「社会に不満を持つ無軌道な非行少年の物語」としてとらえていた。
そのために主人公ホールデン・コールフィールドは、下品なスラングを撒き散らす、どうしようもない少年として描かれているのである。
【村上春樹・訳】
こうして話を始めるとなると、君はまず最初に、僕がどこで生まれたかとか、どんなみっともない子ども時代を送ったかとか、僕が生まれる前に両親が何をしていたかとか、その手のデイヴィッド・カッパフィールド的なしょうもないあれこれを知りたがるかもしれない。でもはっきり言ってね、その手の話をする気になれないんだよ。(J.D.サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」村上春樹・訳)
一方で、村上春樹・訳のホールデンは、野崎孝・訳のブロークンなホールデンと異なり、クールでスマート。
さらに、攻撃的な野崎孝・訳に対して、村上春樹・訳では、かなり内省的な印象が強い。
これは、村上春樹がこの作品を「もうひとりの自分(オルターエゴ)」についての物語と解釈して翻訳したためだと思われる。
村上春樹・訳のホールデンは、まるで自分自身に向かって語りかけているかのようだ。
どちらのスタンスで、この作品を読みたいかということは、翻訳を選択する重要な要素となってくるだろう。
なお、翻訳に対する村上春樹の考え方については、別記事「村上春樹・柴田元幸『サリンジャー戦記』意味不明が正解だった『キャッチャー・イン・ザ・ライ』」でも詳しく解説しているので、興味のある方はご覧いただきたい。
② 汚い言葉の多用|ストラドレーターとの喧嘩
「汚い言葉の多用」については、村上春樹よりも野崎孝の翻訳で顕著だ。
【野崎孝・訳】
「そのきたねえ膝を、おれの胸からどけやがれ」僕はそう言ってやった。わめいてたと言った方がいいだろうな。ほんとに。「さあ、どかねえか、このクソッタレ」(J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」野崎孝・訳)
いつでも感情的になる少年、それが野崎孝・訳のホールデン・コールフィールドである。
一方、村上春樹・訳のホールデンは、喧嘩の中でさえ冷静だ。
【村上春樹・訳】
「畜生、その汚ねえ膝を俺の胸からどかせろよ」と僕は言った。ほとんど泣き叫んでいた。ほんとの話。「いいからどきやがれ。この低能野郎」(J.D.サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」村上春樹・訳)
村上春樹・訳の「低能野郎」は、決して現代的な言葉とは言えない。
時々思い出したように古臭い言葉が出てくるところも、村上春樹・訳の特徴だったと言っていい。
当時の若者文化の雰囲気を感じたい人は野崎孝・訳を、古臭い文章が苦手という人は村上春樹・訳を選ぶという考え方もあるかもしれない。
③ 意訳・省略|アクリーとの会話
ホールデンの下品な言葉は、教会に向かってさえ吐き捨てられる。
寮の隣室であるアクリー(村上春樹・訳ではアックリー)を、ホールデンはからかっていた。
【野崎孝・訳】
「あのな。修道院に入るにはどうしたらいいんだ?」そう僕は言った。(略)「わかった、わかった、さあ、寝ろよ。とにかくおれは入りゃしない。とにかく運には恵まれねえおれのこった、入ってみたら、うまの合わねえ修道僧ばっかしだった、てなことになりかねないからな。とんまな下司(げす)野郎ばっかしでさ。あるいはただの下司野郎か」(J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」野崎孝・訳)
「入りゃしない」「運には恵まれねえ」「うまの合わねえ」「てなことに」など、野崎孝・訳のホールデンは徹底的に話し言葉を貫いている。
このあたりも、野崎孝・訳が「感情的なホールデン」を生み出している要因のひとつだろう。
一方で、村上春樹・訳のホールデンは、クールにキリスト教を非難する。
【村上春樹・訳】
「なあ、どんな手続きを踏んだら修道院に入れるんだ?」と僕は尋ねた。(略)「うんうん、いいからもう寝ろよ。べつに本気で修道院に入ろうと思っているわけじゃないんだ。僕の運を考えれば、ろくでもない修道僧ばかり集まっている修道院に入っちまうのが関の山だものな。間抜けのできそこないばっかり入っているところか、あるいはただのできそこないばっかりのところとかさ」(J.D.サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」村上春樹・訳)
そもそも、野崎孝・訳の「おれ」に対して、村上春樹・訳のホールデンは「ぼく」である。
仲間たちの間でも「僕」を使うほど、ホールデンはクールな少年だったのだ。
野崎孝が「とにかくおれは入りゃしない」と訳しているところ、村上春樹が「べつに本気で修道院に入ろうと思っているわけじゃないんだ」と訳しているのは、正確な翻訳にこだわるのが村上春樹・訳の基本的なスタンスだったからだ。
小説の意味的に大きな違いはないが、リズム感という観点ではかなり異なってくる。
原作の文章により忠実であるだけ、村上春樹の翻訳は、ときに「まだるっこしい」と思わせらえれる場面がある。
野崎孝・訳は「リズム感を重視」、村上春樹・訳は「原文を尊重」、というところも、選択の要素となってくるだろうか。
④ 自分という存在|サリーとの会話
村上春樹・訳が「もうひとりの自分」を意識している部分に注目してみよう。
スケートリンクで喧嘩したガールフレンド(サリー・ヘイズ)に、酔っ払ったホールデンが電話をかけるシーンだ。
【野崎孝・訳】
「なによ。酔ってんのね。もうおやすみなさい。どこにいるの? 誰といっしょなの?」「誰ともいっしょじゃないよ。おれと僕とわたしだけだ」(J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」野崎孝・訳)
「誰と一緒にいるのか?」と訊かれたホールデンは「おれと僕とわたしだけだ」と答える。
これは、物語の中の登場人物が、実はホールデンの分身であった可能性を示唆しているが、村上春樹・訳は、より潔い翻訳となっていた。
【村上春樹・訳】
「わかったわよ。早く寝なさい。どこなのよ? 誰と一緒なのよ?」「誰もいませんよ。正真の正銘、たった僕ひとりしかいないんだ」(J.D.サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」村上春樹・訳)
村上春樹・訳において『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は最初から「自己対話」の物語だから、「たった僕ひとりしかいないんだ」という訳がぴったりとくる。
ただし、ホールデン・コールフィールドの矛盾した心理状態を考えると、野崎孝・訳の「おれと僕とわたしだけだ」という非論理的な翻訳にこそ、意味があるように思われてくる。
ちなみに、日本最初の翻訳『危険な年齢』(橋本福夫・訳)では、次のようになっていた。
【橋本福夫・訳】
「もうわかったわよ。さっさとおやすみ。いまどこにいるの? 誰といっしょなの?」「誰とでもないんだ。おれと僕自身と僕とだ」(J.D.サリンガー「危険な年齢」橋本福夫・訳)
ホールデン・コールフィールドの中には、少なくとも三人のホールデン・コールフィールドがいた。
村上春樹・訳では把握できない解釈が、そこには生まれているのだ。
⑤ タイトルの意味を語る|フィービーとの会話
ホールデン・コールフィールドは、なぜ「ライ麦畑のキャッチャー」になりたかったのだろうか?
彼は最愛の妹(フィービー)にだけ、自分の気持ちを打ち明けている。
【野崎孝・訳】
「で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ──。(略)ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ」(J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」野崎孝・訳)
「ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ」と、ホールデンは言っている。
野崎孝は「キャッチャー」をあえて「つかまえ役」という言葉に訳したらしい。
【村上春樹・訳】
「それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。(略)ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ」(J.D.サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」村上春樹・訳)
生身の言葉で熱く語りかける野崎孝・訳に対して、村上春樹・訳のホールデンは、どこか冷めている。
「それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ」とあるのは、いかにもクールでスマートな村上春樹らしい言い回しだ。
「ライ麦畑のキャッチャー」という言葉も、また洗練されていてすっきりしている。
どうやら、村上春樹・訳のホールデンは、意外と器用な少年だったらしい。
それに対して、野崎孝・訳のホールデンは、徹底的に不器用だった(人間関係にも、生きることにも)。
熱く語りかける「野崎孝・訳ホールデン」を選ぶか、呟くようにクールでスマートな「村上春樹・訳ホールデン」を選ぶか。
このあたりが、選択の分岐点となってくるのではないだろうか。
【結論】初心者におすすめなのはどっち?タイプ別診断
最後に、これまでの比較を踏まえて、簡単な「タイプ別診断」を整理してみた。
野崎孝・訳『ライ麦畑でつかまえて』がおすすめの人
・「これこそ『ライ麦畑でつかまえて』だ!」という歴史的な名台詞をそのまま味わいたい人
・当時の「時代の空気感」を感じたい人
・原作の雰囲気を感じたい人(意訳や省略が気にならない人)
・他の作品やアニメ等でオマージュされている元ネタを正確に知りたい人
村上春樹・訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』がおすすめの人
・海外の現代小説を読むような感覚で、とにかくストレスなくスラスラ読みたい人
・ホールデンの「内向的でナイーブな一面」に深く共感したい人
・原文に忠実な翻訳を読みたい人(教科書的な翻訳が好きな人)
・村上春樹の小説(ハルキ・ムラカミ節)が好きな人
まとめ│どちらの「ホールデン」に会いたいか
「翻訳の選択」に絶対の正解はない。
なぜなら、外国文学の翻訳とは、結局のところ「どちらのホールデンに会いたいか」という好みの問題が優先されるべきものだからだ。
基本的には、熱く尖った昭和の不良少年に惹かれるなら「野崎孝・訳」を、静かに深く傷ついた現代的な少年に寄り添いたいなら「村上春樹・訳」を選ぶ、ということになるだろうか。
ちなみに、僕自身は「野崎孝・訳」の愛読者だが、これから「初めてサリンジャーを読む」という人には、普通に新しい「村上春樹・訳」をおすすめしている。
できれば、両方を読み比べてみることで、「ホールデン・コールフィールド」という少年の気持ちを、より深く理解することができるのだが。
この物語『ライ麦畑でつかまえて』については、別記事「『ライ麦畑でつかまえて』徹底考察│ホールデンの怒りと3つのメタファー、結末の意味を解き明かす」で詳しく考察しているので、物語の意味をもっとよく知りたいという方は、ぜひ参考にしてみてほしい。
さて、自分に合う一冊を手に入れたら、彼がなぜそこまで世界にイライラしているのか、その心理の深層へ進んでみよう。
