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スウィフト「ガリヴァー旅行記」人間否定の異世界転生体験が伝えたかったこと

スウィフト「ガリヴァー旅行記」人間否定の異世界転生体験が伝えたかったこと

ジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」読了。

本作「ガリヴァー旅行記」は、1726年10月、イギリスのモットから刊行された長篇小説である。

この年、著者は59歳だった。

小沼丹『ガリヴァー旅行記』

あまり知られていないが、小沼丹にも『ガリヴァー旅行記』の翻訳がある。

1951年(昭和26年)3月に小峰書店から刊行された『ガリヴァ旅行記』で、「少年少女のための世界文学選」という文庫サイズの外国文学選集のひとつだった(『ガリヴァ旅行記』は「少年少女のための世界文学選4」)。

少年少女向けだけあって、主人公の一人称が「ぼく」だったり、文章が「ですます体」だったりしているが、自分を「ぼく」と呼ぶ主人公(ガリヴァ)は、意外と現代っぽくて悪くない。

それから僕は、この国の人たちの匂にへいこうした。女官なんかそばにいると、とてもくさかった。それが香水でもつけていると、僕にはがまんできないくらい臭かった。(ジョナサン・スウィフト『ガリヴァ旅行記』小沼丹・訳)

小沼丹の「あとがき」は、『ガリヴァ旅行記』のとても分かりやすい解説になっている。

一般に、イギリス小説は十八世紀にはじまるといわれています。もっと細かにいうと、あの有名な「ロビンソン・クルソオ」を書いたダニエル・デフォで、イギリスの小説がはじまるといわれています。ところで、このイギリス小説の草分け時代に、「ロビンソン・クルソオ」と並んで、いまでも有名でひろく読まれる小説を書いた人があります。その人の名はジョナサン・スイフトといい、その作品がこの「ガリヴァ旅行記」というわけです。(小沼丹『ガリヴァ旅行記』あとがき)

イギリス小説は『ロビンソン・クルーソー』(1719)から始まっているが、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』(1726)は、『ロビンソン・クルーソー』に刺激を受けた、初期のイギリス小説のひとつだった。

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本作『ガリヴァー旅行記』は、風刺小説として知られている。

「ガリヴァ」はおもしろい本です。しかし、これを忘れないでください。スイフトはいつの時代にも共通な「人間」を問題にしているということを。しかも、スイフトはこの「ガリヴァ」の中で、その人間をすっかりやっつけてしまったのであります。(小沼丹『ガリヴァ旅行記』あとがき)

一般に、子ども向け『ガリバー旅行記』では、あくまで楽しい物語として紹介されることが多いが、小沼丹の『ガリヴァ旅行記』は、少年少女向けでありながら、しっかりと風刺が効いている(だから、おもしろい)。

スイフトは、「私はあの人間と呼ばれる動物が大嫌いだ」と、いっています。つまりスイフトという人は、人間が嫌いだったのであります。ですから、「ガリヴァ旅行記」は、人間嫌いの書物ということになりましょう。(小沼丹『ガリヴァ旅行記』あとがき)

『ガリヴァー旅行記』のテーマは、「人間嫌いの書物」ということに尽きる。

つまり、「人間という存在がいかにつまらないものであるか」という事実こそ、作者スウィフトが『ガリヴァー旅行記』で伝えたかったことなのだ。

小沼丹は、少年少女向け選集の中で、そのポイントを的確に押さえた翻案を提供している。

スイフトは不満の多い人でありました。たぶん、一人ぽっちの淋しい人だったのかもしれません。スイフトは、とうとう、一種の気狂いになり、そして死にました。(小沼丹『ガリヴァ旅行記』あとがき)

小沼丹の『ガリヴァ旅行記』は、少年少女向けとは言いながら、非常に優れた翻訳小説に仕上がっている。

現在は、未知谷から刊行されている『小沼丹全集(補巻)』(2005)で読むことができるが、ぜひとも、「少年少女のための世界文学選」シリーズの『ガリヴァ旅行記』を復刻させてほしいものだ。

『小沼丹全集(補巻)』には、このほか、オー・ヘンリー「賢者の贈物」「最後の一葉」など、小沼丹の翻訳作品が収録されている。

「人間の醜さ」や「人間の滑稽さ」を描く

今回読んだ『ガリヴァー旅行記』は、岩波文庫から刊行されている平井正穂の訳によるものだ(1980年刊行)。

一般に『ガリヴァー旅行記』は、新潮文庫から刊行されている中野好夫・訳が定番で、平井正穂も「はしがき」の中で「私の尊敬する先輩中野好夫さんの名訳がすでにあり」と綴っている。

中野さん訳の「我が輩」を「私」にかえたり、できるだけ平易な日本語にしたりしただけで、いっこうにかわり映えはしていない。(平井正穂『ガリヴァー旅行記』はしがき)

そのためか、1980年(昭和55年)の翻訳とはいえ、本作『ガリヴァー旅行記』も、十分に昔風の外国小説といった雰囲気をたたえている。

死亡するとか、皇帝の不興を蒙る(これがまたしばしば起るのだが)という事態が生じて、或る高官の職が空席になると、その席を志望する者五、六名が、自分たちの綱渡りを陛下並びに延臣各位のご高覧に供し興を添えたいと、と皇帝に願い出る。(ジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」平井正穂・訳)

本作『ガリヴァー旅行記』は、風刺小説である。

小人の国(リリパット)では、小人の目線から見た人間(ガリヴァー)の姿とともに、小人たちの国のくだらない争いごとが、皮肉な視点から描かれていく。

巨人の国(ブロブディンナグ)では、逆に、巨人の目線から見た人間(ガリヴァー)が描かれているとともに、小人となったガリヴァーの視点から巨人という人間が客観視されている。

私は有体に告白するが、何がぞっとするほど嫌らしいといっても、彼女の巨大な乳房に匹敵するものを私は知らない。(略)乳首の大きさは私の頭の半分くらいで、乳首と乳頭部の色合いは、斑点やらにきびやらそばかすやらでその複雑怪奇なことは驚くばかりで、まさに吐気を催すものであった。(ジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」平井正穂・訳)

男たちが騒ぐ女の巨乳も、小人の目線から見ればグロテスクなものにすぎない。

女性に対する憧れなど幻想だとでも、作者は主張したかったのだろう。

ガリヴァーが巨人になったり、小人になったりするのは、こうした人間を客観視するための、ひとつの方策である。

そう考えると、『ガリヴァー旅行記』は、最近流行の「異世界転生小説」に似ていると言えなくもない。

船乗り(ガリヴァーは船医)が遭難して島にたどりつくと、そこは異世界だった、というのが、本作『ガリヴァー旅行記』の基本的な構図になっている。

奇怪な異世界は、主人公(ガリヴァー)に「人間の醜さ」や「人間の滑稽さ」を次々と見せつけていく。

これは、まさしく「人間不信の小説」と言っていい。

われわれが行くと、彼女たちが私を頭の天辺から足の爪先まで素っ裸にして、自分たちの体にくっつけるようにして抱きかかえることもしばしばであった。これには全く閉口した。ちょっと言いにくいが、彼女たちの肌からぷうんと漂ってくる悪臭に我慢できなかったからである。(ジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」平井正穂・訳)

我々には魅力的な女性の匂いも、敏感な嗅覚を備えた小人になってみると、ただの悪臭にすぎない。

もちろん、ガリヴァーが見たものは、女性だけではない。

出世争いや戦争といった政治も、食事や暮らしぶりといった生活文化も、ガリヴァーによる風刺の対象となった。

そこに反映されていたのは、現に作者の生きるイギリス社会だったのだろう。

だが、この私の振舞いが示した教訓が、そのまましばしばイギリスにおいても当てはまることを、私は帰国後実際に見聞した。殆どとるに足りない小者で、生まれも人柄も知恵も常識も皆無といってよい奴が、いかにも偉そうに力みかえって、わが国きってのお偉方とさも同輩であるかのように振舞っているのを、再三私は見たからだ。(ジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」平井正穂・訳)

異国への旅行記といった形を取ってはいるが、この物語は、(18世紀のイギリスという)現代社会への不満に満ち溢れている。

過去百年の間に生じた事件の歴史を私から聞かれた時も、王はひどく驚かれた。そして、お前の話したことは要するに、陰謀、叛逆、殺人、虐殺、革命、追放の連続ではないか。まさにこういったものこそ、貪欲、党派心、偽善、背信、残酷、憤怒、狂気、憎悪、嫉妬、情欲、悪意、野心が生んだ最悪の事態ではないのか、と言われた。(ジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」平井正穂・訳)

巨人の国の王様にとって、イギリスなど「虫けら」の国にすぎない。

「しかし、お前の話や、わたしが無理矢理お前から引っぱり出した答えから判断すると、お前の国の大多数の国民は、自然のお目こぼしでこの地球上の表面を這いずりまわることを許されている嫌らしい小害虫の中でも、最も悪辣な種類だと、断定せざるをえないと思うのだ」(ジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」平井正穂・訳)

ブロブディンナグ暮らしで、すっかりと巨人目線を身に付けた主人公(ガリヴァー)は、元の世界にうまく馴染むことができない。

それは私が本船に収容されて、ぐるっと乗組員たちに取り囲まれた時のことだった。その時彼らがなんともかんとも言いようのないほど小さく、虫けら同然のものに見えた、ということだ。(ジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」平井正穂・訳)

家族との穏やかな生活を取り戻したガリヴァーは、しかし、再び、船の旅へと出発した。

『天空の城ラピュタ』は『ガリヴァー旅行記』から生まれた

三番目の国は、「空を飛ぶ島ラピュータ」である。

宮崎アニメ『天空の城ラピュタ』(1986)は、本作『ガリヴァー旅行記』に捧げるオマージュ作品だった。

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ただし、ストーリーに関連性は見られないことに注意が必要。

どうやら、お偉方の心は深い思索にいつも沈潜しがちなので、ものを言う器官と聴く器官を適当に外部の者に叩いて刺激してもらわない限り、ものを言うことも、他人の言っている言葉にも耳を傾けることができないらしかった。(ジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」平井正穂・訳)

ラピュータで暮らす高貴な人々は、いつも思索に耽っている。

実生活には役に立たないようなことばかり考えている頭でっかちな人々が、その島の主人公だ。

彼らの家の建て方は実にひどく、壁は傾いているし、どの部屋の隅もどれ一つとして直角にはなっていなかった。(ジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」平井正穂・訳)

生活能力に乏しいから、彼らの暮らしぶりはみすぼらしい。

ここの連中は絶えず不安に襲われていて、一瞬といえども心の平安を味わうということができないでいる。(略)夜もおちおち眠れないし、人間生活には当然つきものの楽しみや娯楽などを味わう余裕も失っている。(ジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」平井正穂・訳)

考えることを仕事としている数学者や天文学者、哲学者たち。

頭が良すぎるというのも程度問題だ、という批判が、空飛ぶ島ラピュータにはある。

死者が甦る島(グラブダブドリッブ)もすごい。

私が頼むと、族長はシーザーとブルータスに向かって、こっちへやってくるように、と合図をした。ブルータスの姿を見て、私は深い畏敬の念に襲われた。(ジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」平井正穂・訳)

復活した死者たちは、歴史学者たちの嘘を、次々と暴いていく。

この島で私が発見したことは、逸話集とか秘史とかいうものを臆面もなく書く連中が実に出鱈目で無知だということであった。(ジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」平井正穂・訳)

そこにあるのは、美化された歴史への批判だ。

ラグナグでは「不死人間」に出会う。

「不死人間」は、主人公(ガリヴァー)に「死ねないことの不幸」を教えてくれた。

九十歳に達すると、歯も欠けるし、頭髪も抜けてしまう。何しろこの高齢だ、味の善悪など分ろうはずもなく、手に入るものなら何でも味も食欲もお構いなしに、ただ飲み、食うだけということになる。(ジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」平井正穂・訳)

「この不死人間の姿ほど恐ろしいものを、私はまだ見たことはない」と、ガリヴァーは述懐している。

不死に憧れる人間を戒める教訓が、この物語には含まれていたのだろう。

次に、ガリヴァーは日本を訪れている。

様々な異世界と並んで、実在の日本が登場しているところがすごい(かなりあっさりとではあるが)。

なまじ実在の国であるだけに、想像力だけで描くことは難しかったのかもしれない。

長くて辛い旅だったが、やっとのことで長崎(ナンガサク)に着くことができた。一七〇九年六月九日のことであった。(ジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」平井正穂・訳)

18世紀のイギリスでは、日本も、また、ひとつの異世界だったのだろうか。

本作『ガリヴァー旅行記』最大の見どころは、「第四篇 フウイヌム国渡航記」である。

理性的な馬(フウイヌム)が治世を司っているその国で、本能丸出しの人間は「ヤフー」という名の家畜として生きている。

主人と召使は暫くまじまじとわれわれの顔を見比べていたかと思うと、やがて「ヤフー」という言葉を何度となく繰り返した。はっと気づいて、この醜悪無比な動物が実に人間の姿そのものに他ならないことを知った時の、私の驚きと恐れとは到底筆舌につくしがたいものであった。(ジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」平井正穂・訳)

「ヤフー」は、「ヤフー・オークション」で有名な「Yahoo」の由来となった言葉として知られている。

ヤフーたちが他の種類の動物を憎悪するよりも、もっと激しく仲間同士で憎悪し合うということはまぎれもない事実だが、普通考えられているよりその理由は、自分自身では気がつかないくせに他の奴を見るとすぐ気がつく、彼ら特有の体の不恰好さだとされている。(ジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」平井正穂・訳)

ヤフーは、人間の醜い部分を象徴的に描き出した存在だ。

実に狡く、意地が悪く、陰険で、復讐心に富んだ連中であった。強くて頑丈なくせに、心は臆病ときており、したがって傲慢で、卑屈で、残酷というわけだ。(ジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」平井正穂・訳)

本作『ガリヴァー旅行記』は、人間の悪いところにスポットを当てた風刺小説である。

「人間不信」というよりも「人間否定」とさえ言いたい人間への拒否感が、そこにはある(岩波文庫には「人間そのものに対する戦慄すべき呪詛」との記載あり)。

逆説的に言うと、この物語は「人間の良いところを見ることの大切さ」を教えてくれている、とも言えるのはないだろうか(作者スウィフトは反面教師である)。

もちろん、客観的に欠点と向き合うことも、時には必要だろう。

しかし、人生を明るく生きていくうえで、何より大切なことは、人間の美しい部分を探すことだ。

風刺や皮肉だけで生きていけるほど、この世の中は簡単ではない、ということを、我々は経験的に知っている。

さもなければ、この物語の作者(スウィフト)と同じように、独りぼっちの寂しさに包まれながら、孤独に狂い死んでしまうことにもなりかねない。

むしろ、本作『ガリヴァー旅行記』は、現代社会への警告として、我々が改善すべきポイントを、的確に指摘したガイドブックとして読むことができるのかもしれない。

書名:ガリヴァー旅行記
著者:ジョナサン・スウィフト
訳者:平井正穂
発行:1980/10/16
出版社:岩波文庫

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kels
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。