10月20日は、女流作家・原田康子の命日である。
ベストセラー作家は、札幌電車通りの住民だった。
かつて、原田康子が生きた街を、のんびりと歩いてみよう。
古い住宅地だった「西線」
2009年(平成21年)10月、原田康子の訃報が報じられた。
小説「挽歌(ばんか)」「海霧(うみぎり)」の作者として知られ、1967年から2007年まで北海道新聞文学賞選考委員を務めた小説家の原田康子(はらだ・やすこ、本名佐々木康子=ささき・やすこ)さんが20日午前、札幌市内の病院で死去した。81歳。東京都生まれ。自宅は札幌市中央区南8西14。葬儀・告別式の日程は未定。(「北海道新聞」2009/10/21)
釧路市立釧路高等女学校(後の釧路江南高校、現在の釧路明輝高校)卒業後、釧路市内で働きながら同人誌で活動していた原田康子は、1956年(昭和31年)、28歳のときに、『挽歌』でメジャーデビュー。
映画化されるほどの大ベストセラー小説となり、その後も、時代を代表する女流小説家として長く活躍した。
北海道新聞社勤務だった夫の転勤により札幌へ転居した後は、亡くなるまで札幌市民として活動を続けている。
私の夫は北海道新聞につとめている。だから、同僚というとことごとく新聞記者である。(原田康子「支局長」/『北国抄』所収)
「自宅は札幌市中央区南8西14」と訃報にあるとおり、原田康子の自宅は、電車通り(西線)と南九条通り(菊水・旭山公園通り)が交差する(北東の)一画にあった。
お口の恋人「ロッテ」北海道支店の北向かいである。
電停「西線9条旭山公園通停留場」に立つと、「ロッテ」2階の窓に「コアラのマーチくん」が並んでいるのが見える(「ノッポトッポちゃん」もいる)。
コロナ時代には、マスクをしながら、地域住民とともに危機を乗り切ったキャラクターたちだ。
札幌での暮らしは、多くのエッセイに描かれている。
私の家は電車通りのすぐ近くである。その割にりには静かな住宅地だが、ガソリンスタンドや大きなビルが建ったりして、郊外とは言われない。(原田康子「野の声」/『北国抄』所収)
電車通りは静かな住宅地だった。
私の家の前の通りは、午前中は人通りが少ない。おはらい屋さんの声がときどき通りにのどかにひびく。モーターバイクや小型トラックががたがた通りぬけて行く。それだけである。(原田康子「今夜はなにに」/『北国抄』所収)
電車通りから少し西側へ入ったところに、原田康子の自宅はあった。
用事がなければ、人が通るような道ではない。
私の家の付近は、札幌では比較的静かな住宅街である。日中は車や人の行き来があり、子供たちは路上ではねまわり、平々凡々のんびりした一画なのだが、日が落ちたとたんにしんとなる。電車通りから一丁はいっただけとは思えぬ静けさである。(原田康子「臆病風」/『北国抄』所収)
市電沿線の「西線」は、古くからの住宅地だった。
ところどころに残る古い住宅が、この街の歴史を物語っている。
南九条通りよりも北側は、かなり中心部に近い地域と言っていい。
人工の少ない戦前までは、この辺りでも札幌の「郊外」だったのだろう。
路地を歩くと、懐かしい風景がわずかに残されている。
古い住宅を見つけるには、庭木を探すといい。
庭に樹木があると、それは、ほとんど古い住宅の敷地である。
私の家は電車通りからわずかしか入っていないが、札幌では比較的静かな住宅街で、夜がふけると人通りもまれである。(原田康子「武勇談」/『北国抄』所収)
電車通りから数軒ほど西側寄りのところに、原田康子の自宅があった。
西線の沿線は、戦前は郊外ではなかったのだろうか。近所の表具屋さんの話によると、私の家は戦争中の建て売り住宅なのだそうである。(原田康子「うつりかわり」/『北国抄』所収)
「近所の表具屋さん」とあるのは、西屯田通りの「山口表具店」だったかもしれない(現在はマンションになっている)。
戦争中の建て売りだった住宅は、1977年(昭和52年)頃に改築された。
私の家の界隈は戦前からの住宅地である。古い家屋は傷みもひどいにちがいない。私の家も八年ほどまえに建て直した。(原田康子「消える樹木」/『イースターの卵』所収)
現在、このあたりには、さらに新しい時代に建てられたらしい住宅が建つ。
電車通りとは反対側に(東側に)「西屯田通り」と呼ばれる古い商店街がある。
西屯田は私の好きな通りである。いってみれば、下町風の商店街で、せまい通りをはさんで、店舗がぎっしり並んでいる。(略)銭湯もあるし、医院もあるし、郵便局もある。(原田康子「うつりかわり」/『北国抄』所収)
郵便局は「札幌南六条郵便局」だろう。
電車通りは商店の少ない通りだったから、買い物といえば、西屯田通りを利用したのかもしれない。
南六条通りにあった「美好湯」は既にない。
「茶のり まこと園」の南側にあった「成瀬小児科・内科医院」跡にも、既にマンションが建っている。
西屯田通りも、昭和時代に比べて、商店街としては縮小してしまったらしい。
高度経済成長期には、この辺りにももっと生活の営みというものが生き生きと映りこんでいたはずだ。
かつて「奥芝商店 札幌本店」だった古民家には、今は別のお店(「北カフェ」)が入っている。
2000年代に比べてさえ、街は移り変わっているのだ。
高度経済成長期の面影を探そうという方に無理がある。
その二つにの通りにはさまれながら、環境は至って静かだった。電車のひびきも眠気をさそうようだった。車もあまり通らなかった。(原田康子「うつりかわり」/『北国抄』所収)
自動車の交通量は増えたけれど、お店は目立って減ってしまった。
それが、現在の「西線」という街である。
電車通りの移りかわりを見つめ続けて
原田康子『北国抄』は、1973年(昭和48年)に読売新聞社から刊行されたエッセイ集である。
ほとんどが、1960年代に発表された文章ばかりだ。
作業場のむこうは、少々うすよごれた四階建ての市営アパートだ。大きなポプラがアパートの前にずらりと一列に並んでいる。(略)十本、いや二十本はあるかもしれない。(原田康子「犬をつれて」/『北国抄』所収)
「市営住宅」とあるのは、「南7条団地」のことだろう(平成初期に3棟建てとなった)。
それにしても、西線の住宅街に大きなポプラ並木があったということは、今からでは想像しにくい。
なにしろ、そこは、ビンテージマンション「秀和レジデンス」が建ち並ぶ一画なのだ。
私の家の近くに質屋さんがある。いざというとき近所に質屋があると心強いが、それよりもその質屋さんは、わが家への道順をおしえるのにころあいの目じるしだった。電車通りの角の質屋さんである。(原田康子「うつりかわり」/『北国抄』所収)
それは高度経済成長の時代で、西線の街も大きく変わりつつあった。
「うつりかわり」は、西線地区の変貌を描いた貴重な記録である。
私は久しぶりに買い物籠をぶら下げて、電車通りの市場まで買い出しに行った。なるほど、角は喫茶店に変わっていた。(原田康子「うつりかわり」/『北国抄』所収)
電車通りの西側に「八條市場」という名前の市場があった。
現在は「畠山商店」が商売をしているあたりである。
近所に喫茶店ができたのは、なにもはじめてのことではない。銀行の支店が店開きをしたとき、その地下に喫茶店ができた。銀行のはす向かいにも小さな喫茶店がある。(原田康子「うつりかわり」/『北国抄』所収)
「銀行の支店」とあるのは、札幌信用金庫(後の札幌銀行、現在の北洋銀行)の支店である。
原田康子の自宅は、この銀行の裏手にあった。
札幌銀行は近年まで営業していたが、北洋銀行との合併により解体されてしまい、現在は空き地となっている。
銀行の数が少なくなるなんて、少なくともバブル時代までは誰も想像しなかったことだ。
銀行はビルの一階を占めている。九条通りと電車通りとがまじわる角である。銀行が開店して間もなく、その隣にさらに大きいビルが建った。(原田康子「うつりかわり」/『北国抄』所収)
銀行の「隣にさらに大きいビルが建った」とあるのは、ホシ伊藤(現在のほくやく)の本社ビルで、1967年(昭和42年)9月に新築された。
ほくやくの並びには、カフェ森彦のお菓子屋さん「もりひこ菓子ほ(旧マリピエール)」がある。
「菊水・旭山公園通り」はイチョウ並木が続く、整えられた自動車道路である。
この道を(石山通りを越えて)東へと進むと、やがて中島公園の北側入口へ出ることができる。
あたりまえだが、表通りに面したところは、どこも現代風に趣きを変えてしまっている。
当時を偲ぶ建物としては、電車通りの「北海道ハイヤー会館」があった。
それから銀行の向かいにはタクシー協会とやらができた。高い建物ではないけれど、前庭をひろく取ってあり、大きな庭石などを配して、お天気のよい日は庭石はまぶしく輝き、なかなか立派である。(原田康子「うつりかわり」/『北国抄』所収)
1966年(昭和41年)12月に新築された「北海道ハイヤー会館」には、北海道ハイヤー協会が入っている。
「大きな庭石などを配して」とあるのも健在だ。
この会館の地階には、かつて「竹昭(たけしょう)」という名前の喫茶・食堂があった。
昭和レトロな地下食堂だったが、現在は閉店してしまっている。
アパートがふえた。どこやらの民間会社の堂々とした鉄筋のアパートが建ち、マンションと称する小規模のアパートも多くなった。水商売の美人が住むのかもしれない。(原田康子「うつりかわり」/『北国抄』所収)
一帯は歓楽街「すすきの」からも近いので、水商売の単身女性も多い。
西屯田通りから出勤すると、朝帰りの女性とすれ違うことも珍しくない。
そしてビルが建った。喫茶店も三軒できた。アパートの住民も、ビルではたらく人たちも、喫茶店を利用するというわけである。札幌の街そのものが大きくなったのだから、近隣の変化は当然だろう。(原田康子「うつりかわり」/『北国抄』所収)
今、この辺りに喫茶店はない。
銀行のビルもなくなった。
これは、つまり札幌の街が(1960年代に比べて)小さくなったということなのだろうか。
札幌銀行の斜め向かいにあった洋菓子店「シャモニー」は、オシャレ焼き肉の「YAKINIKU BISTRO石鎚」に変わっている。
ビルの名前に「西線ロールビル」とあるのは、かつて「シャモニー」の名物が「西線ロール」だったからだ(ロールケーキの名前)。
今や、電車通り沿いにも、空き地が目立つ時代である。
西線はまだまだ住みよい区域である。界隈の移りかわりを感じるのも、ここに住んで長くなった証拠であり、長くなれば愛着をおぼえるのも人情というものだろう。ここに住みついて十年近くになる。(原田康子「うつりかわり」/『北国抄』所収)
2009年(平成21年)10月に亡くなるまで、原田康子は、この街で暮らし続けた。
高度経済成長期、バブル時代とバブル崩壊、そして、失われた20年を、ベストセラー作家は、この街の移り変わりの中で見つめ続けていたのだろう。













