畔柳二美『姉妹』読了。
本作『姉妹』は、1954年(昭和29年)6月に大日本雄弁会講談社から刊行された長篇小説である。
この年、著者は42歳だった。
初出は、1953年(昭和28年)7月~1954年(昭和29年)10月『近代文学』(連載小説)。
1954年(昭和29年)、第8回「毎日出版文化賞(文学・芸術部門)」受賞。
1955年(昭和30年)公開、家城巳代治監督の映画『姉妹』原作小説(野添ひとみ・中原ひとみ出演)。
大正時代の北海道の自然を描く
本作『姉妹』は、北海道出身の女流作家(畔柳 二美/くろやなぎ ふみ)の自伝的色彩の濃い長篇小説である。
作品タイトルのとおり、「姉」(圭子)と「妹」(俊子)の成長がモチーフとなっているが、作者自身が投影されている「俊子」が主人公である。
ここは、北海道の山の中の発電所だ。どこをみまわしても春の若葉が重なっている。チゝン、チュン、チュン。小鳥たちも楽しそうに朝から歌を唄っている。(畔柳二美「姉妹」)
山の中の発電所は、作者自身の故郷である。
千歳川流域には第一から第四まで王子製紙苫小牧工場の自家発電所が設置されていたが、支笏湖にいちばん近い水明郷の第一発電所で生まれたのが畔柳二美である。明治四十五年(1912)一月十四日であった。(木原直彦「北海道文学ドライブ(第1巻・道央編)」)
1918年(大正7年)、私立王子尋常小学校へ入学した畔柳二美は、翌年、父の転勤により、狩太村(現在のニセコ町)にある王子製紙苫小牧工場尻別第一発電所へ移転した。
1924年(大正13年)年4月には、札幌市の北海高等女学校(4年制)へ入学、1928年(昭和3年)3月に満16歳で卒業。
だから、本作『姉妹』には、大正期の北海道が描かれていると考えていい。
社宅の四方の山々には、色とりどりの花が咲きだした。山つつじ、山百合、山ぼたん、それに名も知れぬ花々が一時に咲き乱れているので、春なのか夏なのか季節がわからない。これが北海道の特長なのだ。(畔柳二美「姉妹」)
北海道の美しい自然は、この物語の雄大な背景となっている。
この三月から、圭子も俊子も女学生だ。札幌の伯母の家にあずけられた。圭子は十五、俊子は十二。姉は年齢より大柄なのに、俊子はチビで九つほどだ。(畔柳二美「姉妹」)
作者(畔柳二美)の通った「北海高等女学校」は、北海道で最初の私立高等女学校で、前身である「北海女学校」は、1906年(明治39年)に開校している(現在の札幌大谷高等学校)。
住所は、札幌市東区北16条東9丁目だった。
街はアカシヤの花盛りだ。リンゴのような、スズランのような、あまい匂いが街いっぱいに漂っている。(畔柳二美「姉妹」)
アカシヤは、札幌まつりの季節(6月中旬)に白い花を咲かせる。
そこで三人は、近くの大通り公園へ向って歩きはじめた。夕焼けの空が、真っ赤にひろがって美しい。アカシヤや、エルムや樫の林の次に、青々と芝生が続いている。(畔柳二美「姉妹」)
大通公園の芝生には、北大生たちが憩っていた。
少しゆくと芝生のなかで、北大の学生が二三人寝ころんだまま、声高らかに歌ってる。「羊群、声なく牧舎に、かえり──」すると、俊子の口がひとりでに動きだす。「ていねのーいただあきー」(畔柳二美「姉妹」)
彼らが歌っていたのは、北大「恵迪寮」の寮歌「都ぞ弥生」である(♪羊群声なく牧舎に帰り、手稲の巓黄昏こめぬ~)。
「こんど、中島公園へボートあそびにゆきましょう」「うん、いく、いく、つれてって」俊子のはずんだ声に、一郎さんの方が吃驚だ。(畔柳二美「姉妹」)
姉の圭子と違って、俊子は、男子大学生とも気兼ねなく会話することができた。
古い因習にとらわれることのない、進歩的な女性としての主人公像が、そこにはある。
妹(俊子)を非難する姉(圭子)は、古い社会の象徴と言っていい。
繁次さんは、ロシヤ語が得意なのだ。そこで、知りあいのロシヤ人の家へ行こうと誘った。大通りにある、ロシヤ喫茶店なのだ。(畔柳二美「姉妹」)
この頃、札幌にはロシア人の経営する料理店があった。
1917年(大正6年)のロシア革命で本国を追われた人たちが、北海道へ渡ってきたものらしい。
船山馨『北国物語』(1941)でも、亡命ロシア人は、重要な登場人物となっている。
姉妹の楽しみは、狸小路での買い物だった。
ここは、札幌唯一の繁華街だ。せまい道をはさんでぎっしり店が並んでる。夜になると、両側のすずらん燈が美しいのだが、まだ夕ぐれなので目立たない。(畔柳二美「姉妹」)
札幌の冬は、雪の街である。
札幌は、すっかり雪で真白だ。道ゆくひとの息が白くて霧のように見える。学校の正門前から苗穂の市電停留所まで約二十町、女学生たちは鈴のついた馬橇にのる。左手の向うにポプラの並木が続いていて、その向うは広々した牧場だが、今は真っ白な雪ばかり。(畔柳二美「姉妹」)
西洋館の多い札幌に、雪はとても良く似合っていた。
雪道をゆくと、ポプラ並木の向うから、「カラン、コロン」と鐘の音が聞える門を入ると十字架のある礼拝堂や、病院や、廊下をゆき交うアマさんの姿が、まるで、外国へいったように美しい。(畔柳二美「姉妹」)
中島公園の池は、楽しいスケートリンクになった。
二月になった。札幌の中島公園のスケートリンクの氷の質は上々だ。今日はカーニバル。午後五時からこのスケートリンクで仮装大会がひらかれる。(畔柳二美「姉妹」)
中島公園のカーニバルは、船山馨『北国物語』でも、クライマックスの場面で登場している。
季節ごとに描かれる美しい四季は、本作『姉妹』の大きな見どころである。
大正期から昭和初期にかけて、札幌は、まだまだエキゾチックな魅力を湛えた、異国のような都市だったのだ。
貧しい人たちの現実を直視して
素朴な筆致で再現される北海道の鮮やかな四季は、しかし、次第に、北海道で暮らす人々の貧しさを浮き彫りにさせていく。
札幌での暮らしの中で、主人公(俊子)は、少しずつ世の中を受け止めていった。
「全くそうだ。お前は女の子じゃないよ」「そうでしょう。男だったらいいね父さん。第一、革命をおこすこともできるし、社会カイカクもできるしさ」父の笑顔が消えてしまった。(畔柳二美「姉妹」)
俊子の理解を促したのは、周囲の大人たちの生活である。
「困るよ戦争なんて。あれはひとつの罪悪よ」「なあにいってやがるんだあ、チビ。日本人は、戦争がなきゃ喰えねえんだよ、戦争がな」(畔柳二美「姉妹」)
俊子の家庭も、もちろん、豊かではなかった。
「俊ちゃんは、いつもあたりが悪いね。着るものは、圭ちゃんのお古だしね。もう少し大きくなったら買ってあげようね」(畔柳二美「姉妹」)
もっとも辛かったのは、高等教育を受けることができなかったことだ。
「お前、父さんの月給いくらだと思ってるの。姉さんが学校をでたら、今度はお嫁入りの支度をしなければならないし、そのうち、ひろちゃんや、みっちゃんたちが中学から大学まで三人も続くんだよ。女の子は女学校だけでも、たくさんだよ」(畔柳二美「姉妹」)
女性に高等教育は必要ない、というのが、当時の常識だった。
裁縫学校を卒業した姉は、憧れの「職業婦人」になるため、札幌の百貨店「五番館」の裁縫部に就職する。
「まい朝氷をわってごはんの支度をして、暖まるひまもなくお店へかけつけて、夜暗くなるまで縫いものをしたわ。そうして帰ると、くたくたに疲れているのに、また夕ごはんの支たくをして、寒い室にちぢこんで寝るのよ。かけ布団の襟は、息が凍りついたまま、いつまでたってもコチコチだったし、ストーブがないので室はつめたいし。それでもいいわよ。お室代を払って食事ができれば……。お給料をいただいて、私びっくりしたわ。半月も生きられないってことがわかったんだもの」(畔柳二美「姉妹」)
作者(畔柳二美)は女学校卒業後に上京して、やがて、佐多稲子(当時は窪川稲子)に師事するようになるが、本作『姉妹』には、随所で『キャラメル工場から』の影響を認めることができる。
姉妹の成長を通して、物語は少しずつ社会の現実へと近づいていく。
それは、厳しい北海道の中で貧しい暮らしを強いられている人たちの、本当の姿だ。
こんな家は、はじめてだ。兎に角畳の上に道がついている。足のたたないお母さんが、毎日、毎日同じところを這いまわったので、便所までの道と、台所への道がついてしまったのだ。(畔柳二美「姉妹」)
はっちゃんのお父さんは盲目で、お母さんは足が立たない。
髪結いになって親孝行をしてきたはっちゃんも、とうとうセキズイカリエスになってしまった。
「みんな、同じ人間ではないか。なんだってうちへだけ、かたわばっかり作ったのさ。私だって、お父つぁんだって、一度も悪いことをしたことはないよ。はっちゃん、お前まで、なんだって娘さんたちを追い帰すんだね」(畔柳二美「姉妹」)
地域は、みな貧しかったから、助け合いにも限界があったのだ。
障害者の一家は、圭子と俊子の来訪を歓迎した。
「私たちがかたわになってから、家へきて、かたわの話をしてくれたのは、俊子さんがはじめてですよ。貧乏な私たちを慰めようよ、いっしょけんめいになってくれたんですものね」(畔柳二美「姉妹」)
どれだけ働いても、はっちゃんに幸せが訪れることはない。
盲目のおとうさんと、足のたたないおかあさんを養うために、小さいときから納豆うりをしたり髪結いさんになったりして働いたはっちゃんが、昨夜息をひきとったのだった。病院費はもちろん、その日にたべるものさえないほどだったので、はっちゃんは、大便と小便にうずまって、死んでいた。(略)なるほど、はっちゃんは、犬猫より、みじめな一生をおくったのだ。(畔柳二美「姉妹」)
14歳の俊子は、社会の現実を、しっかりと正面から見つめる目を持っていた。
川上で暮らす父の親類の生活は、殊に貧しかった。
「十五でもいいじゃないですか。赤ちゃんの父親は、お近くなんですか」「近いも近いも、近すぎるよ。十八の兄貴なんだ。わしの息子と娘に子供が生れるんだよ」(畔柳二美「姉妹」)
貧しい暮らしは、人々の心まで蝕んでいく。
「あんまり貧乏がひどいので、皆の気が変になっているんだろうな。父さんと同じ国の人だ。できるだけのことはしてやりたいが」(畔柳二美「姉妹」)
やがて、訪れる親類の死は、ある意味で必然だったかもしれない。
そして、残された者たちに待っている、更なる極貧の暮らし。
「あんな山の中へ、はいるんでなかったよ奥さん。雪はいつまでも消えないし、降るときゃ早くに降ってくるしさ。わし等は、北海道へ来てもだめだった。ここの旦那は、成功者だね」今度は、娘が顔をあげて母をみる。「奥さん。わしを買ってくれないかね」(畔柳二美「姉妹」)
俊子の成長は、北海道の現実を知ることでもあった。
「あんな山奥へはいったのがあやまりさ。そこの……」おばさんはそして、川向うの崖上の方を、あごで指した。「有島農場へでもはいってたら、よかったろうがね」発電所の川をへだてた向い側の有島農場は、小説家有島武郎氏が大正十一年に解放した農場だ。(畔柳二美「姉妹」)
有島農場の暮らしは、有島武郎『カインの末裔』(1917)に読むことができる。
それは、もちろん、楽な生活ではなかった。
夫を亡くしたおばさんは、とうとう娘を売ってしまった。
未亡人となったおばさんは、小樽の漁場でモッコかつぎをやるらしい。
「毎年、毎年、漁場へ集まるヤンシュウは、たいてい、おばさんの家のような人々ばかりなのだ。東北や北海道の貧農が多い。それでいて、鰊は北海道の名物さ」(畔柳二美「姉妹」)
寄宿舎の食堂には、四年生の竹田さんの家から贈られたニシンが並んだ。
俊子は、鰊をつつきながら、川上のおばさんや息子さんや、たくさんのヤンシュウのことを考える。お汁を吸いながら、今度は、大箱の鰊を二箱も寄宿舎へきふをする竹田さんの家を考えてみる。(畔柳二美「姉妹」)
俊子が考えているものは、格差社会という北海道の現実である。
「御主人は北大の農科をでているんだって。奥さんは冬になると、馬橇で街へ買いものにゆくわよ。お嬢さんと坊っちゃんを乗せてね」(畔柳二美「姉妹」)
圭子は、若い女性の自殺現場を目撃してしまった。
「血のなかに坐ったまま、立てないでいたもんですからね。あたりは一面血だらけさ。首は、あっち向いてる。胴はくしゃくしゃ。手も足もばらばらになって、ずっと向うに素っ飛んでいて、着物なんて、ぼろぼろだったさ」(畔柳二美「姉妹」)
翌日の北海道新聞の三面には「貧乏のため、身重の農婦鉄道自殺」という記事が、片隅に小さく報道されていた。
それは、生き残ることさえ難しい時代だった。
裏の、いつも、ご夫婦に叱られていた十六の娘さんが、おとつい鉄道自殺をしたのだ。(畔柳二美「姉妹」)
俊子が見たのは、牧場で働く少年の事故死である。
血まみれの少年は、運わるく、草切り機械の上にたたきつけられ、更に、もんどりうって草の上にうつぶせに長くなっている。あたりは、一面に血潮が吹き散り、なまぐさい臭いが、むうっと鼻をつく。(畔柳二美「姉妹」)
月給取りをしている発電所の人たちだって、安心ではなかった。
この一週間というもの、発電所のひとびとはみな暗い顔つきで、よるとさわると、ひそひそ話に余念がない。会社の緊縮方針で、人員整理の予告があったからだ。(畔柳二美「姉妹」)
やがて、三人に解雇通知が手渡された。
「みなで、闘争すべきだったのよ。犠牲者をだすなんて、不合理だわ」父は、おどろいてふりかえる(略)「犠牲は、いつも、最小限で喰いとめるべきなんだよ。俊子、わかったか」(畔柳二美「姉妹」)
俊子は、覚えたばかりの争議行為を持ち出すが、父に会社と争う勇気はなかった。
貧しい暮らしは、貧しい人々を貧しさの中から救い出すことはできない。
解雇された後、病弱の笹川さんは、社宅の人々に糸を売ったりして生計を立てていたが、やがて、炭坑へ移っていった。
蒼い顔色の笹川さんが、しょんぼり入口に立っている。いつもの風呂敷づつみがない。「いろいろおせわになりました。今度、わしは、炭坑へいくことにしましたんでね」(畔柳二美「姉妹」)
猛烈な吹雪の日に、田村さんが発電所の水槽に落ちて死んだ。
葬式がすむとまもなく、大きいお腹をかかえた田村のおばさんが、三人の幼児の手をひいて泣き泣き発電所を去っていった。(畔柳二美「姉妹」)
かつて、圭子と俊子が下宿していた札幌の伯母さんは、伯父さんが、南一条の呉服店へ嫁いだ若い人妻と逃げあと、自殺した。
札幌の伯母さんの姿がみえない。伯父さんに裏ぎられてから病身だった伯母さんは、つい二週間ほど前に鉄道自殺をしてしまったのだ。(畔柳二美「姉妹」)
圭子の幸福な結婚と対照的に描かれる伯母さんの死。
本作『姉妹』では、社会を対照的に描き出すことで、理不尽な現実にスポットを当てている。
「私は、お医者か、政治家になりたくなったよ」アカシヤの街、大学の街。鈴蘭かおる札幌の街も、今日は何とほこりっぽく、きたなく姉妹の目には見えるのだろう。(畔柳二美「姉妹」)
「私は、お医者か、政治家になりたくなったよ」という言葉に、主人公(俊子)の成長が象徴されている。
美しい北海道の風景と対照的に描かれる貧しい人たちの暮らし。
本作『姉妹』は、姉(圭子)と妹(俊子)さえ対照的に描かれている。
圭子は胸に十字をきった。「主よ、幸せを、たれ給え」(畔柳二美「姉妹」)
人々の貧しさを、圭子は神への祈りで克服しようとした。
圭子にとって、人々の貧しさは、神から与えられた「試練」だったのだ。
「姉さん。つつしんでお伺いもうしあげます」俊子は、姉の瞳をじっとみすえる。「姉さんの神さまは、田村のおじさんを突然お召しになった上、なぜ、おばさんたちにまでも試練をおあたえになったのですか」(畔柳二美「姉妹」)
現実逃避できない主人公(俊子)は、この厳しい社会を、自分の力で乗り越えていこうと考えている。
「私だって、いつ、死ぬか、わからないね」みんなは、ぽかんとして俊子をみる。「だから私、その日まで立派に生きるわ」(畔柳二美「姉妹」)
この物語を支えているのは、主人公(俊子)のたくましい生命力である。
それは、あたかも北海道の大自然と呼応するかのように力強いものだった。
俊子は、歯をくいしばって考える。「修学旅行にはゆけなかったが、私は、かならず、かならず、内地へいこう。皆が歩いた場所を、私はかならず歩いてみせる」(畔柳二美「姉妹」)
『キャラメル工場から』に感銘を受けて、在学中から佐多稲子と手紙のやりとりをしていた作者(畔柳二美)は、1933年(昭和8年)に上京。
本格的に、佐多稲子との交流が始まる。
本作『姉妹』の巻末解説を佐多稲子が寄せている(1968年版)。
この作品の持味や性格というようなものが、主人公のひとり、妹俊子の性格と全く同じものなのである。この作品を貫いている生活への張り、人生への対し方、それは妹俊子のものにほかならない。(佐多稲子『姉妹』解説)
庄野潤三も、本作『姉妹』を高く評価した(1954年9月『群像』)。
この、貧しいと言ってはいけないけれども、しかしやっぱり、貧しいには違いないこの一家の、暮らしの悲しみと云うものが、貧し過ぎない家だけに、かえって哀れに、印象深く描かれている。それが、この作品の一番いいところだと思う。(庄野潤三「『姉妹』書評」/『庄野潤三電子全集・第20巻・単行本未収録エッセイ、対談、座談集』所収)
貧しい暮らしの中で、主人公(=作者)は社会に目覚め、文学に目覚めたのだ。
長い物語の最後の一文は、主人公の未来を暗示している。
だが、俊子は、無言で崖したの雪のあいだを動く川の流れをじっとみている。山をくだって、村をとおって、町々をすぎ、やがて大海におどりでる水の流れを、彼女は目をかっとみひらいてじっとみている。(畔柳二美「姉妹」)
もしかすると、彼女が見ていたものは、この国の将来だったかもしれない。
書名:姉妹
著者:畔柳二美
発行:1968/04/08
出版社:講談社