なぜ美禰子は「迷える羊」と呟いたのか?夏目漱石が『三四郎』に込めた青春の彷徨
夏目漱石『三四郎』は、語られない物語でもある。
読後感に残るいくつものモヤモヤ感。
いったい、この作品は何を伝えようとしていたのだろうか?
この記事では、本作『三四郎』に登場する名言をもとに、この物語が伝えようとしているテーマについて、独自の視点も交えながら考察していきたい。
なお、本作『三四郎』の作品概要やあらすじについては、次の記事で詳しく解説しています。
▶ 夏目漱石『三四郎』あらすじ・登場人物を解説|モデルとなった人物とは?
「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」
九州から東京へ向かう旅の途中で、主人公・小川三四郎は、同年輩の人妻と道連れになる。
ひとつの布団で、二人は一夜を過ごすが、女性経験のない三四郎が、彼女に触れることはなかった。
翌日、彼女は笑いながら三四郎に別れを告げる。
「さよなら」と言った。女はその顔をじっとながめていた、が、やがておちついた調子で、「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」と言って、にやりと笑った。(夏目漱石「三四郎」)
三四郎にとって、故郷・九州は「こちら側の世界」で、大学のある東京は「あちら側の世界」、移動の旅は、ふたつの世界の境界線上にあったとも言える。
故郷を離れた彼は、この人妻との一夜によって、早くも東京(あちら側の世界)の洗礼を浴びていたのかもしれない。
少なくとも、それは、三四郎の近い未来を予言する言葉となった。
「(日本は)滅びるね」
上京の列車の中で三四郎は、広田先生と出会う。
近代化の進む日本の未来に、広田先生は決して期待していないようだった。
「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った。(夏目漱石「三四郎」)
三四郎は、日本の未来を背負うために東京帝国大学へと進学するエリート青年だったから、広田先生の言葉は、当然におもしろくない。
しかし、広田先生は、急激に進む日本の近代化を、決して肯定的な目線だけではとらえていなかった。
明治27年生まれの英文学者・福原麟太郎は、この広田先生の予言に注目している。
明治の爛熟期である。三四郎の生活は楽しい。そして現実の日本は、広田先生の言ったとおり、それから四十年の後に本当に亡びてしまう。(福原麟太郎「三四郎日和」)
急激な近代化を進めた明治ニッポン(つまり「大日本帝国」)は、軍事大国として大東亜共栄圏の確立に乗り出した結果、太平洋戦争に惨敗し、消滅した。
現在ある日本国は、戦後、アメリカによって創られた新しい国である。
本当に守らなければならないものが何だったのかということを、もしかすると、広田先生は知っていたのかもしれない。
「ああああ、もう少しの間だ」
野々宮さんの家で留守番をしていた秋の夜。
その家の裏を通る線路上で、若い女性が汽車にひかれて自殺するという、痛ましい事件が起こった。
その時遠い所でだれか、「ああああ、もう少しの間だ」と言う声がした。(夏目漱石「三四郎」)
三四郎が聴いた「ああああ、もう少しの間だ」という声は、自殺する直前に、若い女性が遺した言葉である。
トルストイ『アンナ・カレーニナ』は、新しい時代の不倫妻が、古い時代に敗れて鉄道自殺する物語だった。
急速に発展する文明社会の中で、日本と西洋との軋轢は、市民生活にも影響を及ぼしつつあった。
あるいは、女性の轢死体は、近代文明(という列車)に圧し潰された日本の未来だったのだろうか?
「可哀想だた惚れたって事よ」
ベーンの小説『オルノーコ』を、サザーンが脚本として書いた中に、「Pity’s akin to love」という言葉があった。
お調子者の与次郎は、それを次のように翻訳して披露する。
「少し無理ですがね、こういうなどうでしょう。可哀想だた惚れたって事よ」(夏目漱石「三四郎」)
エリート集団とはいえ、若い彼らは恋に悩む世代でもある。
三四郎はもちろん、美禰子も野々宮さんも、やはり恋に悩む若者だった。
彼らの痛みが、与次郎の「可哀想だた惚れたって事よ」という軽快な言葉に象徴されている。
それは、美禰子の「迷える子(ストレイ シープ)」にも繋がる言葉だったかもしれない。
「迷える子(ストレイ シープ)――わかって?」
本作『三四郎』最大の謎と言われているのが、里見美禰子の呟いた「ストレイ シープ」という言葉である。
菊祭りで仲間たちと離れた三四郎と美禰子は、小川の畔で語り合う。
「迷子の英訳を知っていらしって」三四郎は知るとも、知らぬとも言いえぬほどに、この問を予期していなかった。(略)「迷える子(ストレイ シープ)――わかって?」(夏目漱石「三四郎」)
美禰子を愛する三四郎にとってみれば、「ストレイシープ」は自分自身である。
あるいは、それは「恋に迷う美禰子の告白」だと思ったかもしれない。
実際、美禰子は、野々宮さんとの結婚問題に直面していたと思われる節がある。
美禰子は、たびたび三四郎を利用して野々宮さんを挑発しているし、三四郎も美禰子と親しい野々宮さんに激しく嫉妬している。
つまり、彼らは、それぞれに自分の人生に迷いつつあったのだ。
それは、研究者の道を邁進する野々宮さんや、お調子者の与次郎でさえ例外ではなかったかもしれない。
新しい時代の中で、人々は戸惑いながら前進していた。
そういう意味で「ストレイシープ」は、近代化の道を歩む日本そのものを象徴する言葉だったと言っていい。
そして、そんな日本の未来の中へ歩み出していく三四郎は、やはり「ストレイシープ」だったのである。
「私そんなに生意気に見えますか」
「迷える子(ストレイ シープ)」という謎の名文句を呟いた美禰子は、真剣な顔で三四郎に問いかける。
すると女は急にまじめになった。「私そんなに生意気に見えますか」(夏目漱石「三四郎」)
里見美禰子は「新しい時代」を生きる「新しい女」である。
古い価値観と新しい価値観との狭間で、彼女もまた苦しい思いをしていたのだろうか。
「生意気」は、新しい女たちに与えられた称号である。
おそらく、野々宮さんとの結婚問題に立ちはだかっていたのが、この「私そんなに生意気に見えますか」という言葉だったのだ。
結局、彼女は、兄・恭介の友人である男性との結婚を受け容れる。
その男性は、かつて、野々宮さんの妹・よし子に求婚した男性でもあった。
このエピソードは、新しい時代を生きることの難しさを物語っている。
ただし、その主人公は、三四郎ではなかったかもしれない。
野々宮さんと美禰子とは、なぜ結婚できなかったのか?
三四郎の失恋物語は、実は、美禰子にとっての失恋物語でもあったかもしれないのだ。
「ばかだなあ、あんな女を思って」
三四郎の恋を、与次郎は笑い飛ばす。
「ばかだなあ、あんな女を思って。思ったってしかたがないよ。第一、君と同年ぐらいじゃないか」(夏目漱石「三四郎」)
なぜなら、彼らの勝負は、まだ始まったばかりであることを、彼は知っていたからだ。
日本を導くリーダーとしての気概に燃える彼らは、未来の世代である。
今が力を蓄えるべき時間であることを、与次郎は意識していたのだろう。
一見、ちゃらんぽらんに見える与次郎は、彼なりに試行錯誤を繰り返している。
ある意味で、それは「未来」のための実験だった。
彼にとって恋愛や結婚は、その後にやってくるべき世界だったのだ。
九州から東京で出てきたばかりの三四郎は、学問にも恋愛にも東京という文明社会という混乱にも、一気に飲みこまれてしまった。
本作『三四郎』は、この混沌とした世界で、主人公の三四郎が、自分の人生を探る物語なのである。
「結婚なさるそうですね」
三四郎の失恋は、本郷の教会堂の前だった。
「結婚なさるそうですね」美禰子は白いハンケチを袂へ落とした。「御存じなの」と言いながら、二重瞼を細目にして、男の顔を見た。(夏目漱石「三四郎」)
美禰子から借りた金を返す行為は、二人にとって、つまりは「永遠の別れ」を意味する。
教会から出てくる美禰子を待つ三四郎の姿は、あまりにも切ない。
かつて美禰子と一所に秋の空を見た事もあった。所は広田先生の二階であった。田端の小川の縁に坐った事もあった。その時も一人ではなかった。迷羊(ストレイシープ)。迷羊(ストレイシープ)。雲が羊の形をしている。(夏目漱石「三四郎」)
結局のところ、三四郎は、失恋のために恋愛をしたようなものである。
それでも、その失恋は、日本の未来を背負う若者として、三四郎に必要なものだったかもしれない。
少なくとも、次作『それから』を読むまでは、そんな期待が読者の中にはあったはずだ。
「われは我が愆(とが)を知る」
「ストレイシープ」と並んで、美禰子の残した思わせぶりな謎の言葉が、聖書から引用された「われは我が愆(とが)を知る。我が罪は常に我が前にあり」という言葉だった。
女はややしばらく三四郎を眺めた後、聞兼るほどの嘆息をかすかに漏らした。やがて細い手を濃い眉の上に加えていった。「われは我が愆(とが)を知る。我が罪は常に我が前にあり」(夏目漱石「三四郎」)
「愆(とが)」は「過ち」や「罪」という意味で使われる。
美禰子は、自分の「罪」を自分で知っていると、三四郎に告白しているのだ。
おそらく、これは、野々宮さんの気を惹くために、美禰子が三四郎を利用したことを言っているのだろう。
しかし、三四郎にとって、美禰子との交流は、あくまで自分のためのものであってほしかった。
自分のためのものであると信じていたからこそ、三四郎は、美禰子に対して前のめりになっていったのである。
もちろん、三四郎は恋を知らない男だったから、美禰子の策略に気づくことができなかったのかもしれない。
結果として、美禰子は、田舎から出てきた純朴な青年を振り回した、都会の嫌味な女性として記憶される。
しかし、迷羊(ストレイシープ)として、彼女は彼女なりに、やはり一生懸命に生きていたのだ。
はっきりとした悪者は、『三四郎』という物語の中にはいない。
誰もが真面目に生きようとして、悩み、傷ついていた。
本作『三四郎』の魅力は、そんな挫折と孤独の中にあったのだ。
まとめ│「迷える羊」として生きる
本作『三四郎』は、非常に人気の高い小説である。
夏目漱石の代表作として知られる『こころ』よりも、『三四郎』を第一位の作品として推薦する専門家も少なくない。
『三四郎』の魅力は、作品に登場する若者たちの「若さ」である。
若い彼らは、それぞれに葛藤を抱えながら、新しい時代の中を生きていかなくてはならない。
混沌とした時代の空気を、作者・夏目漱石は、主人公・小川三四郎の戸惑いと重ね合わせることで、分かりやすく描き出すことに成功した。
人生は、いつの時代も「ストレイシープ」である。
「迷える羊」だからこそ、我々は必死に悩み、考え、答えを探す。
本作『三四郎』が伝えているのは、人生を真面目に生きることの尊さである。
美禰子との失恋の中で、三四郎はやはり三四郎なりに成長していたのだ。
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夏目漱石『三四郎』については、石原千秋『学生と読む『三四郎』』もおすすめです。
詳細は、次の記事をご覧ください。
▶ 石原千秋『学生と読む『三四郎』』|テクスト論で読み解く大学の物語
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本作『三四郎』のあらすじや登場人物については、次の記事で詳しく解説しています。
▶ 夏目漱石『三四郎』あらすじ・登場人物を解説|モデルとなった人物とは?
