石原千秋『学生と読む『三四郎』』は、『三四郎』についての解説書ではない。

本書は「大学」についての物語である。

大学とは何か、大学教育とは何か、大学教員とは何か、大学生とは何か?

そんな疑問に対するヒントが、この物語の中にはある。

その題材が、たまたま『三四郎』だった、というだけのことだ。

この記事では、本書『学生と読む『三四郎』』の概要や魅力について、独自の視点も交えながら、分かりやすく解説していきたい。

文芸学部で二番目に厳しい教員

東京世田谷区に成城大学がある。

そこの文芸学部に「石原千秋」という有名な教授がいた。

石原教授は、大学教育のプロフェッショナルである。

まるで「鬼のように厳しい」ことで、彼の講義は有名だった。

「文芸学部で二番目に厳しい教員」という不名誉な噂がある。

彼は、大学生を「大学生として育てあげる」ことを、自分の使命としていた。

「勉強は教室で恥をかいて身に付けるものだ」という教育方針が、その厳しさを物語っている。

恥をかかずに済むほど、彼の教室は生易しくなかったのである。

僕は国文学科の教員だ。だから、文章を書く力を鍛えることに最も多くの力を注ぐ。(石原千秋『学生と読む『三四郎』』)

日本の高校では「文章の書き方」を教えたりしないから(なぜだ?)、「ふつうの大学生」はまともな文章を書くことができない。

二年生を中心とする「近代国文学演習Ⅰ」の石原教室では、文学と読み解く力と同時に、文章(レポート)を書く力の育成が進められていった。

自分の言葉で「語り直す」こと

その年の「近代国文学演習Ⅰ」では、一年かけて夏目漱石の『三四郎』を読むことになった。

石原先生の研究方法は「テクスト論」と呼ばれている。

「テクスト論」は、作者とテクストを切り離し、あくまでテクストと向き合う研究スタイルだから、その授業では「夏目漱石については言及しない」というルールが設けられた。

学生たちは「夏目漱石」を抜きにして、『三四郎』を読み解かなければならないのである。

石原先生は、学生たちが自分で「解釈コード」を探し、その解釈コードを使って小説テクストを「自分の言葉で語り直す」ことを重視している。

語り直しとは「自分の読み」を形にすることで、石原教室では「翻訳」と呼ばれている。

ひとつの小説テクストからは、様々な「読み」が生まれ、その「読み」を他者に伝えることが、石原教室におけるひとつの大きなテーマとなる。

小説テクストは多様だ。したがって、大学では解釈のコードをできるだけ多く身につける練習をする必要がある。その手助けをするのが、僕の仕事だ。(石原千秋『学生と読む『三四郎』』)

当時(ゼロ年代)流行していた「カルチュラル・スタディーズ(カルスタ)」も、石原教室では必要なかった。

学生たちは、ひたすら小説としての『三四郎』と向き合っていく。

語り直される『三四郎』

夏目漱石『三四郎』は、田舎から上京してきた青年・小川三四郎が、東京の女性・里見美禰子に恋をする物語である。

しかし、学生たちの目で読まれ、学生たちの言葉によって語り直される『三四郎』は、実に様々だ。

一般に、ヒロイン・里見美禰子は、新しい時代の新しい女として語られることが多いが、果たして美禰子は本当に「新しい女」だったのだろうか?

「美禰子は<新しい女>としては挫折している」という意見があり、「美禰子は排除される<新しい女>である」という意見がある。

「里見美禰子のささやかな抵抗」というかっこいいタイトルのレポートもある。

ひとつの小説テクスト『三四郎』から様々な解釈が生まれてくるところに、文学の楽しさがある。

つまり、『三四郎』の演習は、主人公三四郎をどこまで突き放してみることができるかに掛かっていると言える。それは、それまで「主人公」にしか感情移入してこなかった学生にとっては、新しい「体験」だ。そういう「体験」を通して、彼らは小説の読める「大学生」になるのである。(石原千秋『学生と読む『三四郎』』)

このとき、主人公はどのような「気持ち」だったのか?

高校までの国語教育では、登場人物の心情理解が中心になっている。

しかし、大学は「小説の読み方」を身に付ける場である。

高校まで「ひとつの正解」を探す技術を学んできた学生たちは、石原教室で初めて「自分の言葉」で語ることの大切さを学んでいった。

まとめ│教育に対する情熱を語る

本作『学生と読む『三四郎』』は、愛に満ちた物語である。

大学への愛や大学教育への愛、大学教員や大学生への愛、国文学への愛。

ひいては、それは「教育に対する情熱」である。

そんな情熱を持った教師との出会いこそが、教育の成否を決するのではないだろうか。

「これから大学へ進もう」と考えている人は、この本を読むべきだと思う。

大学案内のパンフレットや高校の進路指導室では得ることのできない情報が(それもかなり大切な情報が)、この物語の中にはある。

そして、「文学とは何か」ということについて興味のある人も、きっとこの本を読むべきなのだろう。

著者は言っている。

批評は「私は~と思う」という構造の文で語ることができる。しかし、研究は「~は~である」という構造の文で語らなければならない。(石原千秋『学生と読む『三四郎』』)

文学評論とは、つまり、「固有名詞で語るべきものではない」ということだ。

大学生の成長を通して、この物語は「文学評論とは何か」ということを教えてくれている。

「テクスト論」は、あくまでもひとつの手法にすぎなかった。

この本を読み終えたときには、きっと『三四郎』の「新しい物語」が見えているのではないだろうか。

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夏目漱石『三四郎』については、次の記事で詳しく解説しています。

なぜ美禰子は「迷える羊」と呟いたのか?夏目漱石が『三四郎』に込めた青春の彷徨

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モグラのジェン
文芸コラム担当。感想以上、批評未満。深読み癖あり。感想はX(@jiku_hyohon)にてお待ちしています。