読書体験

川島勝「井伏鱒二─サヨナラダケガ人生」『群像』編集者による文壇回想録

川島勝「井伏鱒二─サヨナラダケガ人生」あらすじと感想と考察

川島勝「井伏鱒二─サヨナラダケガ人生」読了。

本作「井伏鱒二─サヨナラダケガ人生」は、1994年(平成6年)9月1日に刊行された回想録である。

この年、著者は71歳だった。

庄野潤三、小沼丹、河上徹太郎、、、

本作「井伏鱒二─サヨナラダケガ人生」は、『群像』編集者として井伏鱒二と交流し、後に、牧羊社でも活動した川島勝による、井伏鱒二の回想録である。

「ある早春の一日、井伏さんと小沼丹さんと私の三人が庄野家に招かれた」とある。

この日はシェリー酒からはじまって、夫人特製のメニューは多彩をきわめた。メインディッシュは庄野焼(牛肉の薄切り焼き)で、本当は肉好きの井伏さんは大層ご満悦であった。このあと庄野家の家族総出の名物コーラスなどがあってお開きとなった。帰りの小田急線で井伏さんは私に向ってぽつんと、「庄野家は盤石だね」と言った。(川島勝「井伏鱒二─サヨナラダケガ人生」)

編集者による井伏鱒二の回想録だから、当然に酒の話が多い。

そして、井伏鱒二を描くということは、同時に、井伏さんの周りに集まってくる仲間たちを描くということでもあった。

庄野潤三は、河上徹太郎の自邸へ招かれたときにも登場している。

このときは、井伏さんのほか、三好達治、石川淳、吉田健一、徳田雅彦、川島勝というメンバーだった。

三好、石川組は「書」の談義にふけり、吉田さんは突風のように笑い、井伏、庄野組は黙々と飲み、暖炉は赤々と燃えて、河上さんはポツポツ出来上がり気味であった。──この日はエピキュールの丘の住人にふさわしい歓待をうけ、たっぷりした一夕を過ごした。帰りぎわに河上さんは、「今日はとてもいい鴨の日だった」と強い力で私に握手をした。(川島勝「井伏鱒二─サヨナラダケガ人生」)

河上さんは、井伏鱒二を「井伏」と呼び、井伏さんは河上徹太郎を「河上」または「徹ちゃん」と呼んでいたという。

井伏さんのいわゆる「年下の友人」の中で、一番古いのは小沼丹だった。

そのころ、小沼さんは酔うと「ゴンドラの唄」やエノケンの”俺は村中で一番……”など歌いつづけてはなはだ元気であった。井伏さんは、「小沼は飲んで、よく歌うがあれはよくないよ」と言われるが、三浦哲郎さんの歌う「船頭小唄」にはぞっこんで、くろがねのおかみさんに、「どうして、テープにとっておかないのか」と叱ったりする。(川島勝「井伏鱒二─サヨナラダケガ人生」)

井伏さんによると、「くろがね」の店名は、すき焼鍋のくろがねから取った名前らしい。

「井伏さんはやや味の濃い目のすき焼を好まれた」とある。

飲み屋ではほかに「みち草」「よしだ」「龍」「秋田」「樽平」「はせ川」、伊藤整や十和田操の「十和田」、火野葦平の「山原(やんばる)」、坂口安吾の「ナルシス」、梅崎春生や藤原審爾の「魔子の店」、「宮うち」「寿し処ピカ一」「中華料理・東信閣」「日本料理・大漁苑」、福田蘭堂の「酒亭・三漁洞」などのほか、金子信雄・丹阿弥谷津子夫妻が経営するフランス料理店「牡丹亭」も登場している。

「井伏ロードは中央線荻窪を起点として、阿佐ヶ谷、高円寺を経てこの新宿が終点」で、新宿から折り返して夜明けまで飲み明かすことも珍しくなかった。

戦後の新宿ハモニカ横丁時代、井伏さんは四十歳後半から五十歳代だから、ずいぶんと意気盛んな年代だったのだろう。

とにかく酒の話の多い回想録で、酒の飲めない編集者は、井伏さんの担当にはなれなかったらしい。

「文学界」編集長時代の尾関栄さんは直情径行の士であった。酔えば直立不動で足踏ならし、”万朶の桜か襟の色、花は吉野に嵐吹く……”の軍歌がおはこで、小沼丹、吉岡達夫さんと何時も連れ立って、さながら井伏鱒二護衛艦の趣きがあった。時に新宿くろがねの飲み会を主宰し、新庄嘉章、横田瑞穂、村上菊一郎、小沼丹、吉岡達夫、玉井乾介、有木勉さんらで賑わった。(川島勝「井伏鱒二─サヨナラダケガ人生」)

文士が文士らしく、また、文壇が文壇らしい、最後の時代だったのかもしれない。

酒がまずくなるから文学の話は禁物だった

1993年(平成5年)7月10日午前11時40分、井伏さんは、東京都杉並区天沼の東京衛生病院で亡くなった。

風邪をこじらせての肺炎で、95歳の大往生だった。

葬儀は遺族の意志で、身内だけでごく内輪にしたいという意向であったが、周囲の強い要望で、止むなく密葬だけは衛生病院の隣りの荻窪天沼教会で行われることになった。キリスト教徒ではない井伏さんの葬儀が、なぜ教会で行われるのかという疑問をいだく人もいたが、これは井伏さんより先にこの衛生病院に入院し、手術の予後を静養していた老齢の夫人の心情を慮ってのことであった。(川島勝「井伏鱒二─サヨナラダケガ人生」)

棺を乗せた霊柩車が教会を出るとき、井伏夫人は、病院四階の窓から見送ったという。

本書では、井伏鱒二の生き方についても多く綴られていて興味深い。

井伏さんは座談は好むが、議論は好まれなかった。えらそうに文学論を仕向けたり、聞いた風なことをしゃべる不束者に出会うと、不愉快げにそっぽを向いて、「そんなら、君が書いたらいいじゃないか」と身も蓋もない。(川島勝「井伏鱒二─サヨナラダケガ人生」)

そもそも「折角の酒がまずくなる」という理由で、文学の話は一切禁物だったらしい。

好きだったのは画家や絵の話で、下戸の画家・硲伊之助とも飲み友だちだった。

酒豪の井伏さんと、酒を一滴も飲まない硲さんが、どうしてあんなにうまが合ったのか不思議でならないが、井伏さんは硲さんからマチスやセザンヌ、またフランス画壇の話を聞くことが、何より楽しかったようであった。硲さんも井伏さんの行く横丁の赤提灯までつき合い、番茶で応対をしていたが、食通の硲さんは飲み屋のつき出し料理には閉口らしく、「井伏さんはこんなまずいものを食べて、よくあんなに太っていられるね」と、時々、皮肉を言っていた。(川島勝「井伏鱒二─サヨナラダケガ人生」)

昭和31年度の芸術院賞を受賞する『漂民宇三郎』の元ネタとなった『時規(とけい)物語』を井伏さんに紹介したのも硲伊之助で、講談社から刊行された単行本の装幀も、硲伊之助が担当している。

もっとも、そんなに洋画の好きな井伏さんも、外国にだけは行こうとしなかった。

井伏さんは、「ぼくは外国は想像している方がいい、その代り、本物は無理だろうからセザンヌでもマチスでもいいから、複製画を買ってきてくれ」と言われた。私はフランクフルトのブック・フェアに出かけた時に必ずロンドンでハンチングを、またパリでは吉井画廊に立寄って、質のいい複製画を頼んで井伏さんへの土産にした。(川島勝「井伏鱒二─サヨナラダケガ人生」)

『井伏先生の書斎』を書いた藤谷千恵子を牧羊社に紹介したのは、井伏鱒二だったらしい。

ある時、井伏さんから、「君に頼みがある。君のところで本を出してくれないかね」と言われた。私は、「先生の本なら、えんやこらです」とまた軽口をたたくと、「いや、ぼくの本なんかもう駄目だから、一人セザンヌの熱心な研究家がいてね、それはセザンヌの足跡を訪ねてフランスに五、六回も出かけて研究しているんだ。一度会ってみてくれないか」と言われた。(川島勝「井伏鱒二─サヨナラダケガ人生」)

このとき、牧羊社から出た本が『セザンヌの散歩道』『セザンヌへの道のり』の二冊だった。

もともと画家志望だった井伏さんは「いい本というのはピアノの上に置いても不自然ではないものだ」と言うくらい、装幀にもこだわりを持っていたらしい。

長年に渡って身近で作家を見てきた編集者だからこそ書ける思い出がある。

まるで井伏さん自身に触れているような、そんな回想録だった。

書名:井伏鱒二─サヨナラダケガ人生
著者:川島勝
発行:1994/09/01
出版社:文藝春秋

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。