村上春樹「海辺のカフカ」読了。
本作「海辺のカフカ」は、2002年(平成14年)9月に新潮社から刊行された長編小説である。
この年、著者は53歳だった。
混沌とした葛藤を抱えた人々
本作『海辺のカフカ』の登場人物には、大きく三つの共通点がある。
ひとつは、多くの人間が、様々な葛藤を抱きながら生きている、ということだ。
例えば、主人公(田村カフカ、15歳)は、父親との衝突という、思春期の少年にありがちな、それでいて、当人にとっては極めて深刻な葛藤を背負って生きている。
「僕はどんなに手を尽くしてもその運命から逃れることはできない、と父は言った。その予言は時限装置みたいに僕の遺伝子の中に埋めこまれていて、なにをしようとそれを変更することはできないんだって。僕は父を殺し、母と姉と交わる」(村上春樹「海辺のカフカ」)
父の呪いは、父子の間に広がる価値観の大きな齟齬を意味するものだ。
思春期少年の父親との対立は、この物語の根幹を成している。
逃れることのできない「呪い」は、父から受け継がれた「遺伝子」(血)の象徴と言ってもいい。
カフカ少年は、15歳の少年ならではの性的欲求を自身の中に溜めこみながら、健全な解消方法を見つけることができない。
彼女は軽いため息をつき、それからゆっくりと手を動かし始める。それは素敵な感触だった。(村上春樹「海辺のカフカ」)
抑制しがたい性衝動は、時には、夢という形で現れる。
「わかったわ。もうなにも言わない」と彼女は言う。「でもこれだけは覚えていてね。君は私をレイプしているのよ」(村上春樹「海辺のカフカ」)
長距離バスで出会った年上の女性(さくらさん)は、少年の激しい性衝動のはけ口となった。
内面に潜む無意識の暴力性も、彼の葛藤を物語るものだ。
「ときどきね」と僕は正直に言う。「頭がかっとすると、まるでヒューズが飛んじゃったみたいになる。誰かが僕の頭の中のスイッチを押して、考えるより先に身体が動いていってしまう。そこにいるのは僕だけど、僕じゃない」(村上春樹「海辺のカフカ」)
思春期の多くの少年たちと同じように、15歳のカフカ少年は、まだ、自我の確立過程にあったのだ。
「そんなつもりはないんだ。でもときどき自分の中にもうひとり別の誰かがいるみたいな感じになる。そして気がついたときには、僕は誰かを傷つけてしまっている」(村上春樹「海辺のカフカ」)
彼らは、モラトリアムの中に生きている。
「やれやれ、また15歳かよ」と星野さんは思った。どうして最近こう15歳の少年ばかりが凶悪犯罪を起こすのだろう」(村上春樹「海辺のカフカ」)
自我が完成されていない少年たちは、自分の中の自分自身と、うまく折り合いをつけることができない(「君は学校で一種の問題児だったと警官は言っていたよ」「15歳の、暴力的傾向のある、オブセッションを抱えた家出少年」)。
だからこそ、少年は、自分を見つけるための(自我を確立させるための)旅に出たのだ。
学校に居場所がないということも、カフカ少年にとっては大きな葛藤のひとつだった。
もちろん僕はクラスでは誰からも好かれなかった。僕は自分のまわりに高い壁をめぐらせ、誰一人その中に入れず、自分をその外に出さないようにつとめていた。(村上春樹「海辺のカフカ」)
学びたいという知的好奇心と、学校への拒否感という相反する感情の中で、少年は四国(高松)の小さな図書館へと向かう。
カフカ少年にとって「甲村記念図書館」は、精神的な避難場所だった(「僕はまさにそういう、世界のくぼみのようなこっそりとした場所を探していたのだ」)。
息子に呪いをかけた父親(ジョニー・ウォーカー)も、また、葛藤の塊だった。
かつて、愛する妻に逃げられた彼は、徹底的な自己否定の中で生き続けている。
執拗な猫殺しは、彼自身を殺す行為と読んでいい。
「私が猫を殺すのは、その魂を集めるためだ。その集めた猫の魂を使ってとくべつな笛を作るんだ」(村上春樹「海辺のカフカ」)
あるいは、それは、息子をイメージした代償行為ではなかったか。
魂を集める行為は、(善悪を超えて)彼にとっての祈りだった。
歪んだ自殺願望を、彼は、読字障害の老人(ナカタさん)を使って実行する。
「人が人ではなくなる」と彼は繰り返した。「君が君ではなくなる。それだよ、ナカタさん。素敵だ。なんといっても、それが大事なことなんだ」(村上春樹「海辺のカフカ」)
愛する猫の命を救うためにジョニー・ウォーカーを殺害したナカタさんは、正義と暴力との葛藤に苦しむことになる。
ナカタ老人は、(戦時中の)女性教師による体罰の犠牲者だった。
気がついたとき私はその子を、中田君を、叩いていました。肩のあたりをつかんで、何度も何度も平手で頬を張ってました。何か叫んでいたかもしれません。私は混乱していました。明らかに自分を失っていました。(村上春樹「海辺のカフカ」)
女性教師も、また、愛する夫を従軍に取られてしまうという、戦争の被害者だった。
不幸の連鎖が、この物語には描かれている。
カフカ少年の学校嫌いの背景は、ナカタさんの体罰体験からつながっているものだ。
物語の随所に登場する謎は、他の登場人物の持つエピソードと関連付けられる場合が多い。
とりわけ、重要なのは、主人公(カフカ少年)と老人(ナカタさん)、そして、カフカ少年の母親であり、初恋の女性でもある図書館長(佐伯さん)のトライアングルである。
その少女と僕とのあいだには少なくともひとつの共通点がある。(略)そう、僕らは二人ともこの世界からすでに失われてしまった相手に恋をしているのだ。(村上春樹「海辺のカフカ」)
この三人は、それぞれが相互に分身としての機能を有していて、密接な関りを有している。
図書館職員(大島さん)も、また、多くの葛藤を抱えながら生きている。
「ただ、僕はこんな格好はしていても、レズビアンじゃない。性的嗜好でいえば、僕は男が好きです。つまり女性でありながら、ゲイです」(村上春樹「海辺のカフカ」)
彼は(彼女は)性同一性障害を有する同性愛者であり、そのうえ、血友病患者だった。
多くの個性的な登場人物は、互いに影響し合ったり、補完し合ったりしながら、物語を進行させていく。
空白を抱えながら生きている
二つ目の共通点として、彼らは、みな、大きな空白を抱えている。
主人公(カフカ少年)が持つ大きな空白は、母親の愛情の欠如だ。
どうして彼女は僕を愛してくれなかったのだろう。僕には母に愛されるだけの資格がなかったのだろうか?(村上春樹「海辺のカフカ」)
幼い息子を置いて家を出ていった母親に対する怨念は、与えられることのなかった母の愛に対する憧憬として、彼の中に蓄積されている。
父親との対立と並んで、母親の愛情に対する飢餓感は、この物語の大きな背景のひとつとなっている(「君のお母さんは君を愛していなかったわけじゃないんだ」)。
つまり、本作『海辺のカフカ』は、本質的には(歪んだ)家族の物語だったということだ(自分を棄てた母親を許すことで、少年は救われる)。
カフカ少年の孤独は、そのまま作品タイトルとなっている。
だからこそ彼女は少年を「海辺のカフカ」と呼んだ。不条理の波打ちぎわをさまよっているひとりぼっちの魂。たぶんそれがカフカという言葉の意味するものだ。(村上春樹「海辺のカフカ」)
それは、思春期を生きる、多くの15歳の少年が持つ疎外感だったかもしれない。
自分の母親かもしれない佐伯さんとセックスするのは、歪んだ性衝動の発露であると同時に、歪んだマザーコンプレックスだと考えることもできる。
彼女は僕にとても強い、でもどことなくなつかしい印象を与える。この人が僕の母親だといいのにな、と僕は思う。(村上春樹「海辺のカフカ」)
佐伯さん自身も、かつて最愛の恋人を大学紛争で亡くしたという、大きな喪失感の中で生きている。
彼女の喪失感は、やがて、夫(ジョニー・ウォーカー)を狂わせ、息子(カフカ少年)を家出へと導くものだ。
つまり、すべての不幸は、佐伯さんの喪失感から始まっていると言っていい。
「私はある時期にあまりに完全なものを手に入れてしまったの。だからそのあとはただ自分をおとしめていくしかなかったの」(村上春樹「海辺のカフカ」)
さらに、突きつめると、不幸の源泉は、佐伯さんの恋人を殺した内ゲバであり、多くの人々の人生を狂わせたものが、歪んだ学生運動だったというところに、社会のねじれを読みとることができる。
父親(ジョニー・ウォーカー)の喪失感は大きい。
「父はあなたのことを愛していたんだと思います。でもどうしてもあなたを自分のところに連れ戻すことはできなかった。というか、そもそも最初から、あなたを本当には手に入れることはできなかったんだ。父にはそれがわかっていた。だからこそ死ぬことを求めたんです」(村上春樹「海辺のカフカ」)
佐伯さんとの出会いを通して、カフカ少年は父親の気持ちを理解するようになる。
あるいは、少年にとっては、それも、ひとつの成長だったかもしれない。
「なぜあなたのお父さんは、そんな呪いをあなたにかけなくてはならなかったのかしら」「たぶん自分の意思を僕に引き継がせたかったからだと思います」と僕は言う。(村上春樹「海辺のカフカ」)
15歳(中学3年生)は、高校進学などの進路問題を契機として、親子の衝突が始まりやすい年齢である。
父親の思いと少年の自我がぶつかり合うことも珍しくないだろう。
息子に対する父親の一方的な期待は、少なくとも少年にとって「呪い」のようなものだった。
それは、あたかも「父を殺し、母や妹と交わる」という不吉な伝説のように、彼には響いたのだ。
ナカタ老人は、そもそも空白の象徴のような存在だ。
「ナカタは空っぽなのです。それが今よくわかりました。ナカタは本が一冊もない図書館のようなものです」(村上春樹「海辺のカフカ」)
空っぽのナカタさんは、「自分」を探して四国へ向かう(「ナカタはあと半分の影をとり戻さなくてはならないのです」)。
ナカタさんの空白を埋めるのは、甲村記念図書館の館長(佐伯さん)だ。
「サエキさん」とナカタさんは言った。「ナカタには半分しか影がありません。サエキさんと同じようにです」(村上春樹「海辺のカフカ」)
佐伯さんの空白を埋めるのも、また、ナカタさんだった。
「ずいぶん昔からあなたを知っているような気がするんです」と佐伯さんは言った。「あなたはあの絵の中にいませんでしたか? 海辺の背景にいる人として」(村上春樹「海辺のカフカ」)
ナカタ老人と道連れになった星野青年は、ナカタ老人と行動をともにすることで、自分の中の空白に気づく(「もしナカタさんが空っぽなら、俺なんてどう考えたって空っぽ以下じゃないか」)。
生きている限り、俺はなにものかだった。自然にそうなっていたんだ。でもいつのまにかそうではなくなってしまった。生きることによって、俺はなにものでもなくなってしまった。そいつは変な話だよな。(村上春樹「海辺のカフカ」)
多くの人が喪失感を抱えながら生きている一方、自分の中の「空白」に気づかずに生きている人たちもいるだろう。
彼らは、満たされぬ人生を送りながら、そのことに気がつくことができない。
「なぜ、おじさんが不思議かってえとだね、おじさんは俺という人間を変えちまったからだ。うん。このたった10日のあいだに、俺は自分がすごく変わっちまったみたいな気がするんだ」(村上春樹「海辺のカフカ」)
星野青年の変容は、ベートーヴェンの「大公トリオ」に象徴されている。
15歳ではない星野青年も、自分だけの「入口の石」を見つけることができたのだ。
ナカタさんの死と向き合ったとき、星野青年は新しい人間へと生まれ変わっている。
でもそういう恐怖をいったん乗りこえないことには、一人前のサーファーにはなれない。死と二人きりで向かいあって、知りあって、それを乗りこえていくんだ」(村上春樹「海辺のカフカ」)
大島さんの兄のサーファー(サダさん)の言葉は、星野青年に向けられたものでもある。
大島さんには、根本的なアイデンティティが欠けていた。
「僕は性別からいえばまちがいなく女だけど、乳房もほとんど大きくならないし、生理だって一度もない。でもおちんちんもないし、睾丸もないし、髭もはえない。要するになにもないんだ」(村上春樹「海辺のカフカ」)
空白という意味では、大島さん以上の空白はない。
「ときどき僕自身にもなにがなんだか理解できなくなることがある。僕はいったいなんなんだろうってさ。ねえ、僕はいったいなんなんだろう?」(村上春樹「海辺のカフカ」)
葛藤と空白。
それが、大きな推進力となって、壮大な物語を展開していくことになる。
自分の居場所を探す人々
三つ目の共通点、それは、誰もが自分の居場所を探し続けている、ということだ。
主人公(カフカ少年)は、自分の居場所を探して、東京から四国(高松)まで旅をする。
15歳の誕生日がやってきたとき、僕は家を出て遠くの知らない街に行き、小さな図書館の片隅で暮らすようになった。なんだかおとぎ話みたいに聞こえるかもしれない。(村上春樹「海辺のカフカ」)
少年の旅は、自分探しの旅である(自我確立の旅)。
カフカ少年の父親(ジョニー・ウォーカー)は、現世に見切りをつけて、死後の世界へと旅立っていく。
「ナカタが、ジョニー・ウォーカーさんを、殺すのでありますか?」「そのとおり」とジョニー・ウォーカーは言った。「実を言うとね、私はこうやって生きていることに疲れたんだよ、ナカタさん」(村上春樹「海辺のカフカ」)
ジョニー・ウォーカーを殺したナカタ老人は、自分の分身でもある佐伯さんに会うため、星野さんと一緒に四国(高松)へと向かう。
「ふうん」と青年は言った。「橋を渡るのが大事なことなんだ」「はい。橋を渡るのはなんといってもとても大事なことです」(村上春樹「海辺のカフカ」)
「橋を渡る」ことは、あちら側の世界へと足を踏み入れることでもある。
佐伯さんは、既に長い旅を終えて、人生の最終地点(高松の甲村記念図書館)にたどり着いたところだった。
「ここを出て行かなければ、とても生きのびてはいけないと思った。そして二度とこの土地を目にすることはないとかたく信じていた。戻ることなんて考えもしなかった。でもいろんなことが起こって、やはりここに帰ってこないわけにはいかなかった。ふりだしに戻るみたいに」(村上春樹「海辺のカフカ」)
混沌とした葛藤と空白の中で、誰もが自分の居場所を探していた。
はっきりと自分の居場所を持っていたのは、図書館職員(大島さん)ただ一人である。
なぜなら、大島さんは、図書館と森の別荘の番人として機能しているからだ。
本作『海辺のカフカ』において、甲村記念図書館と森の別荘は、いずれも、こちら側の世界とあちら側の世界を結ぶ中継地点の役割を果たしている。
「この僕らの住んでいる世界には、いつもとなり合わせに別の世界がある。君はある程度までそこに足を踏み入れることができる。そこから無事に戻ってくることもできる。注意さえすればね」(村上春樹「海辺のカフカ」)
性同一性障害のゲイ(大島さん)は、二つの世界を往来する霊媒師的な役割を果たしている(男と女の性別を超えた神がかり的な存在として)。
主人公(カフカ少年)を、森の別荘へ連れていくことができるのは、大島さんただ一人だ。
森の別荘は、あちら側の世界への入り口であると同時に、主人公(カフカ少年)の深層心理への入り口でもある。
しかしよく考えてみれば、森の中にいるもっとも危険な生きものは、おそらくこの僕自身じゃないかという気がする。僕は結局のところそんな僕自身の影におびえているだけなんじゃないか?(村上春樹「海辺のカフカ」)
大島さんの力を借りることによって、カフカ少年は、自分の意識下の深いところまで降りていくことができるのだ(『ねじまき鳥クロニクル』の笠原メイと同じように)。
背の高い樹木にかこまれて、それはまるで大きな井戸の底のようだ。(村上春樹「海辺のカフカ」)
「井戸の底」は『ねじまき鳥クロニクル』(1995)において、あちら側の世界(心の奥深いところ)への入り口として機能していた。
「夢の中で責任が始まる」というイエーツの詩が、『ねじまき鳥クロニクル』につながるものであることは、NHK「100分de名著」でも触れられていたとおりだ。
カフカ少年と佐伯さんを引き合わせたのは大島さんであり、ナカタ老人を引き合わせたのも、やはり、大島さんである。
「でもひとつだけたしかなことがある。それは話の流れがだんだんこのあたりに集中し始めているらしい、ということだ。君のラインと、その謎の老人のラインが、このあたりのどこかでクロスしようとしている」(村上春樹「海辺のカフカ」)
つまり、大島さんは、カフカ少年の物語とナカタ老人の物語という二つの物語を繋ぎ合わせる役目を果たしているとも言える。
言い方を換えると、『海辺のカフカ』(という物語)を司っているのは大島さんであり、大島さんを中心として、物語は展開していると言っていいかもしれない。
メタファーによって語られるアイロニー
本作『海辺のカフカ』の大きな特徴は、全体に張り巡らされた無数のメタファーである。
「メタファー」と僕は言う。「そうだ。相互メタファー。君の外にあるものは、君の内にあるものの投影であり、君の内にあるものは、君の外にあるものの投影だ」(村上春樹「海辺のカフカ」)
このメタファーを理解することができないと、この物語を理解することは難しい。
カフカ少年にかけられた父親の呪い(父親を殺して母親と交わる)も、もちろん、メタファーとして読まなければならない。
「世界の万物はメタファーだ。誰もが実際に父親を殺し、母親と交わるわけではない。そうだね? つまり僕らはメタファーという装置をとおしてアイロニーを受け入れる。そして自らを深め広げる」(村上春樹「海辺のカフカ」)
メタファーを通してアイロニーを受け容れ、自らを深め広げること。
それが、この物語(『海辺のカフカ』)に期待されていることだ(「世界はメタファーだ、田村カフカくん」)。
様々な葛藤や空白が、『源氏物語』や『雨月物語』(生き霊、幽体離脱)、『オイディプス王』(父殺し)などといった東西の古典をモチーフに「メタファー」として提示されている。
「紫式部の生きていた時代にあっては、生き霊というのは怪奇現象であると同時に、すぐそこにあるごく自然な心の状態だった。(略)しかし僕らの今いる世界はそうではなくなってしまった。外の世界の闇はすっかり消えてしまったけれど、心の闇はほとんどそのまま残っている」(村上春樹「海辺のカフカ」)
不思議な登場人物や意味不明の出来事が何を暗示しているのかを考えるのは、読者に求められる役割だ。
「いろんなことが少しずつ風変わりです。でも僕は真実に近づいていると思う」「メタフォリカルな真実に向かって実際的に? それとも実際的な真実に向かってメタフォリカルに?」(村上春樹「海辺のカフカ」)
そのため、『海辺のカフカ』は、しばしば「難しい」との評価を与えられるが、この「難しさ」は、『海辺のカフカ』という物語の魅力でもある。
ナカタさんと星野青年が訪れた海も、かつて『ねじまき鳥クロニクル』で語られていたものだ。
「海底がどういうものか口で説明するのはむずかしいけど、とにかくこことはまったく別の世界だ。深いところまでいくと、日の光もほとんど射し込まない。そこにはとびっきり気色の悪いやつらが住んでいるんだ」(村上春樹「海辺のカフカ」)
「海底」は、深層心理を意味していて、そこに住む「とびっきり気色の悪いやつら」は、『ねじまき鳥クロニクル』で「クラゲ」として表現されている。
人々の葛藤や空白(つまり「心の闇」)が、様々な形で描かれている。
「怪奇なる世界というのは、つまりは我々自身の心の闇のことだ」(村上春樹「海辺のカフカ」)
本作『海辺のカフカ』は、「心の闇」についての小説である。
作品中に登場する多くの引用すら、メタファーの一部にすぎない。
例えば、夏目漱石の『坑夫』。
「でもひとつだけ言えることがある。それはある種の不完全さを持った作品は、不完全であるが故に人間の心を強く引きつける──少なくともある種の人間の心を強く引きつける、ということだ」(村上春樹「海辺のカフカ」)
『坑夫』の「不完全な魅力」は、『海辺のカフカ』にもつながっている。
もしかすると、この『海辺のカフカ』という物語が「ある種の不完全さを持った作品」だったかもしれない。
なぜなら、『海辺のカフカ』には解き明かされることのない謎が、至るところに散りばめられていて、すべてをロジカルに説明することは不可能な物語となっているからだ。
もちろん、作者(村上春樹)は、「ある種の不完全さを持った作品は、不完全であるが故に人間の心を強く引きつける」ということを、十分に意識していたのだろう。
さらに、本作『海辺のカフカ』は、過去の村上春樹の作品と強く共鳴している作品でもある(『ねじまき鳥クロニクル』以外にも)。
「図書館のことは覚えている?」と僕は思いきって質問する。「図書館?」彼女は首を振る。「いいえ、覚えてないわ」(村上春樹「海辺のカフカ」)
その「図書館」は、甲村記念図書館のことであり、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に登場する「図書館」のことでもある。
「君はそこに行ったことがあるの?」「ずっと昔に」と彼女は言う。「でもそれは本を読むためじゃなかった」彼女はうなずく。「そこには本は置いてないから」(村上春樹「海辺のカフカ」)
その図書館には「古い夢」があった。
そこで、主人公は「夢読み」として、古い夢を読み続けていたのだ。
つまり、『海辺のカフカ』は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と世界観を共有する物語なのだ(続編とまでは言わないまでも)。
それは、やがて『街とその不確かな壁』(2023)へと引き継がれていく世界観でもある。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『海辺のカフカ』『街とその不確かな壁』は、ひとつのラインでつながっている物語として読んでいい。
僕はいろんな場所に降る雨のことを思う。森の中に降る雨や、海の上に降る雨や、高速道路の上に降る雨や、図書館の上に降る雨や、世界の縁に降る雨のことを。(村上春樹「海辺のカフカ」)
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』も、やはり、雨の中で物語は幕を閉じた。
「世界の縁に降る雨」は、「世界の終り」に降る雨のことだ。
大島さんの別荘の奥にある森は、もちろん、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に出てくる森である。
「だから君もできるだけ気をつけた方がいい、田村カフカくん。結局のところこの世界では、高くて丈夫な柵をつくる人間が有効に生き残るんだ」(村上春樹「海辺のカフカ」)
森、雨、影を失った人々、高い壁に囲まれた街。
主人公の影(分身)は「カラスという少年」として登場する。
「誰も助けてはくれない。少なくともこれまでは誰も助けてくれなかった。だから自分の力でやっていくしかなかった。そのためには強くなることが必要です。はぐれたカラスと同じです。だから僕は自分にカフカという名前をつけた。カフカというのはチェコ語でカラスのことです」(村上春樹「海辺のカフカ」)
「強くならないと生き残っていけないんです」は、レイモンド・チャンドラー『プレイバック』からの引用だ。
そして、15歳の少年の可能性を暗示する「遠くにある古い部屋」という言葉。
「私はあの二つのコードを、とても遠くにある古い部屋の中で見つけたの。そのときにはその部屋のドアは開いていたの」と彼女は静かに言う。「とてもとても遠くにある部屋」(村上春樹「海辺のカフカ」)
記憶の奥深いところにある「とてもとても遠くにある部屋」は、トルーマン・カポーティ『遠い声、遠い部屋』をなぞったものとして読みたい。
それは、誰の心にもある、親密で懐かしい部屋だ。
「僕らはみんな、いろんな大事なものをうしないつづける」、ベルが鳴りやんだあとで彼は言う。「大事な機会や可能性や、取りかえしのつかない感情。それが生きることのひとつの意味だ。でも僕らの頭の中には、たぶん頭の中だと思うんだけど、そういうものを記憶としてとどめておくための小さな部屋がある。きっとこの図書館の書架みたいな部屋だろう。そして僕らは自分の心の正確なありかを知るために、その部屋のための検索カードをつくりつづけなくてはならない。(略)言い換えるなら、君は永遠に君自身の図書館の中で生きていくことになる」(村上春樹「海辺のカフカ」)
大島さんの長い言葉は、おそらく、この物語の中で、作者が最も読者に伝えたかったメッセージだ。
「君は永遠に君自身の図書館の中で生きていくことになる」、だからこそ、人は、人生を有意義に生きなければならない。
自分自身を作り上げるのは自分自身である。
星野青年も、そのことに気付いて、新しい自分自身を発見したのだ。
「でも山の中で僕は何をすればいいんだろう?」「風の音を聞いていればいい」と彼は言う。「僕はいつもそうしている」(村上春樹「海辺のカフカ」)
「風の音を聞いていればいい」は、村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』(1979)からの引用だろう。
出典は、やはり、トルーマン・カポーティの「最後の扉を閉めて」(1947)だった。
『海辺のカフカ』は、作者(村上春樹)の自伝的エッセンスが色濃い物語だ。
僕はテレビの前に座って、引きこまれるようにその映画を見る。もし僕の少年時代にマリアのような人がそばにいてくれたら、僕の人生はもっとちがったものになっていたことだろう。でも言うまでもないことだけど、そんな人はぼくの前には現れなかった。(村上春樹「海辺のカフカ」)
映画『サウンド・オブ・ミュージック』の世界に憧れたのは、少年の日の作者ではなかっただろうか。
読み方によっては、佐伯さんの大ヒット曲『海辺のカフカ』は、村上春樹の大ベストセラー小説『ノルウェイの森』を投影したものとして読むこともできる。
「さて、そのレコードは発売され、ヒットした。それも尋常なヒットじゃない。劇的にヒットしたんだ」(村上春樹「海辺のカフカ」)
佐伯さんの孤独感は、あるいは『遠い太鼓』(1990)に書かれているような、『ノルウェイの森』がヒットしたときに作者が感じていた孤独感だったのかもしれない。
『海辺のカフカ』は、前作『ねじまき鳥クロニクル』ほどの高評価を得る作品ではない。
少なくとも、「村上春樹の最高傑作」として『海辺のカフカ』が引用される場合は少ないだろう。
それでも、この物語は、読む者に小さくない感動を与えてくれる。
大島さんが「ある種の不完全さを持った作品は、不完全であるが故に人間の心を強く引きつける」と言ったように。
書名:海辺のカフカ
著者:村上春樹
発行:2005/03/01
出版社:新潮文庫