村上春樹『1973年のピンボール』は地味な小説だ。
デビュー作『風の歌を聴け』と人気作『羊をめぐる冒険』の間に挟まれて、この小説は評価の難しい作品となっている。
なぜなら、多くの読者は「ストーリーが分かりづらい」と感じているからだ。
『1973年のピンボール』で村上春樹はいったい何を伝えようとしていたのだろうか?
今回は『1973年のピンボール』という小説を構造的に分析しながら、そのテーマについて考察していきたい。
※作者・村上春樹については、別記事「村上春樹の読み方|意味不明な「謎」の小説世界を読み解くために」で詳しく紹介しています。
【作品概要】『1973年のピンボール』はどのような小説なのか?
本作「1973年のピンボール」は、1980年(昭和55年)6月に講談社から刊行された長篇小説である。
この年、著者は31歳だった。
初出は、1980年(昭和55年)3月『群像』。
『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』と続く、いわゆる「鼠三部作」の二作目の作品である。
※『ダンス・ダンス・ダンス』を加えて「四部作」と呼ばれることもある。
第83回芥川賞候補作となるが、受賞には至らなかった。
そして、村上春樹にとって、これが「2回目かつ最後の芥川賞候補作」となった。
※「鼠三部作」の最初の作品『風の歌を聴け』については、別記事「村上春樹『風の歌を聴け』完全考察:恋人を亡くした青年の自己療養の物語|ハートフィールドと鼠が隠したメタファーの意味」で詳しく考察しています。
『1973年のピンボール』簡単なあらすじ(ネタバレ要約)
本作『1973年のピンボール』は、失われたピンボール・マシーンを探す物語である。
物語は「僕」のパートと「鼠」のパートに別れているが、ここでは「僕」の物語を簡単に整理しておこう。
① 謎の違和感と「双子の女の子」の登場
主人公「僕」は、大学を卒業後、友人と一緒に小さな翻訳事務所を経営している。
仕事は順調だったが、彼は常に自分の中に「違和感」を感じていた。
ある日、双子の女の子がやってきて、彼と一緒に暮らし始める。
② 貯水池で「配電盤」のお葬式をする
「僕」は双子の女の子と一緒に、貯水池で配電盤のお葬式をする。
そして、事務所の女の子と二人でエビ料理を食べた後、「僕」はピンボール・マシーンに心をとらわれた。
それが学生時代に消えた、3フリッパーの「スペースシップ」である。
③ 消えた「スペースシップ」との再会
ピンボール研究家の紹介で、「僕」は消えたスペースシップと再会する。
「僕」の中の違和感は消え去り、「僕」は耳鼻科を受診した。
やがて、双子の女の子は「僕」のもとから旅立っていく。
『1973年のピンボール』登場人物一覧
『1973年のピンボール』では、重要な登場人物がさらりと語られているので、見失わないように注意したい。
| 登場人物 | 主な役割等 |
| 僕(24歳) | 物語の語り手であり、主人公。友人と一緒に翻訳事務所を経営している。 |
| 鼠(25歳) | かつて「僕」と仲良しだった。「ジェイズ・バー」の常連。 |
| ジェイ(45歳) | ジェイズ・バーのオーナー。中国生まれの中国人で、酒は一滴も飲めない。 |
| 直子 | 「僕」の学生時代のガールフレンド。既に死んでいるが、理由は書かれていない。 |
| 翻訳事務所の友人 | 「僕」と一緒に翻訳事務所を経営している、実質的なオーナー。妻と息子(3歳)と暮らしている。 |
| 事務所の女の子(20歳) | 翻訳事務所で働いている。足が長く、ビートルズの「ペニー・レイン」をサビ抜きで口ずさんでいる。 |
| 双子の女の子 | ある日、「僕」の部屋で暮らし始めた。 |
| 電話局の職員 | 「僕」の部屋の配電盤を交換していく。 |
| 鼠の彼女(27歳) | 無人灯台のある海辺の町で暮らしている。乳房は小さく、余分な肉のない細い体は綺麗に日焼けしている。 |
| 学生寮の女の子 | 学生時代、寮で一緒だった髪の長い少女。大学をやめて北の町へ帰っていった。 |
| スペイン語講師 | ピンボール・マシーンの研究家。 |
| 耳鼻科の女医 | 「僕」が受診した耳鼻科の担当医。 |
【考察1】『1973年のピンボール』を構造的に読み解く
本作『1973年のピンボール』が「つまらない」と言われるのは、この作品が不規則に並べられたパズル・ピースのような構造を持っているからだ。
まずは、この小説を構造的に整理しておこう。
①『1973年のピンボール』の章立て構造
本作『1973年のピンボール』は、計25の章によって構成されている。
それぞれの章は「僕」あるいは「鼠」が主人公となっている。
| 章 | 主人公 | 主な内容等 |
| - | 僕 | 1969年から1973年までの出来事を、僕は振り返っている。ピンボールの誕生についての解説が入る。 |
| 1 | 僕 | ある日、双子の女の子が一緒に暮らし始めた。 |
| 2 | 鼠 | 鼠にとって、秋はいつでも嫌な季節だった。 |
| 3 | 僕 | 電話局の職員が来て、配電盤を交換していった。 |
| 4 | 鼠 | 女の家は無人灯台の近くにあった。 |
| 5 | 僕 | 学生時代、寮から一人の女の子が去っていった。 |
| 6 | 鼠 | 9月のはじめ、彼女と出会った。 |
| 7 | 僕 | 双子の女の子が『ラバー・ソウル』のレコードを買ってきた。 |
| 8 | 鼠 | 霊園で女の子とデートしていた。 |
| 9 | 僕 | 双子の女の子がゴルフコースへ散歩に出かけた。 |
| 10 | 鼠 | 眠れない夜に「ジェイズ・バー」へ出かけた。 |
| 11 | 僕 | 双子の女の子と一緒に貯水池で配電盤のお葬式をした。 |
| 12 | 僕 | 事務所の女の子とエビ料理を食べた。 |
| 13 | 僕 | ピンボールが「僕」の心をとらえた。 |
| 14 | 鼠 | 「ジェイズ・バー」で飲みすぎて吐いた。 |
| 15 | 僕 | 消えたピンボール・マシーン「スペースシップ」の思い出。 |
| 16 | 鼠 | 彼女の部屋を思い出している。 |
| 17 | 僕 | スペイン語の講師と出会う。 |
| 18 | 僕 | 穏やかな一週間を過ごす。 |
| 19 | 鼠 | 街を出ようかどうか決めかねている。 |
| 20 | 僕 | スペイン語講師から「スペースシップを見つけた」との連絡が入る。 |
| 21 | 僕 | スペースシップのある倉庫を訪ねる。 |
| 22 | 僕 | 懐かしいスペースシップと再会する。 |
| 23 | 鼠 | 彼女と別れる。 |
| 24 | 鼠 | 街を出る。ジェイに別れを告げる。 |
| 25 | 僕 | 耳鼻科を受診する。双子の女の子が去っていく。 |
全体を俯瞰すると分かるとおり、物語の進行に従い、「鼠」のパートは少しずつ少なくなっていく。
つまり、この小説は「消えていく鼠」の物語でもあったのだ。
②『1973年のピンボール』の時系列年表
本作『1973年のピンボール』が分かりにくいのは、不規則に並べられたパズル・ピースのような構造になっているからだ。
物語のエピソードを時系列に並べ替えてみると、全体構造がよりはっきりと見えてくる。
| 年月 | 主な出来事 |
| 1960年の冬 | 年老いた洋画家が死ぬ。 |
| 1961年 | 直子(12歳)の一家が、死んだ洋画家の家で暮らし始める。 |
| 1962年 | 無人灯台のある村から漁師たちの姿が消えた。 |
| 1965年 | 鼠がジェイズ・バーへ通い始める。 |
| 1966年の秋 | 直子(17歳)の町の井戸職人が死ぬ。 |
| 1969年の春 | 「僕」と直子は20歳だった。 |
| 1970年 | 「僕」と鼠はジェイズ・バーのピンボール「スペースシップ」で遊ぶ。鼠が大学をやめる。 |
| 1970年の冬 | 「僕」はスペースシップに夢中になる。 |
| 1971年2月 | ゲームセンターが潰れ、ペースシップが消える。 |
| 1971年の春 | 寮に住んでいる女の子が去っていく。 |
| 1972年の春 | 「僕」は友人と一緒に翻訳事務所をはじめる。 |
| 1973年5月 | 「僕」は直子の町へ犬を見に出かける。双子の女の子が一緒に暮らし始める。 |
| 1973年9月 | この小説はここからはじまる。疎外感を感じている鼠は彼女と出会う。「僕」の部屋では、電話局の職員が配電盤を交換していく。 |
| 1973年10月 | 「僕」と双子の女の子は貯水池で配電盤のお葬式をする。「僕」はかつて消えた「スペースシップ」を探す。 |
| 1973年11月 | 「僕」はかつて消えたスペースシップと再会し、鼠はジェイズ・バーに別れを告げる。耳が聴こえなくなった「僕」は耳鼻科を受診する。双子の女の子が旅立っていく。 |
要約するとこれは、1972年2月に消えたピンボール・マシーン「スペースシップ」と、1973年11月に再会するまでの物語である。
問題は「1970年の冬」、僕はなぜ「スペースシップ」に夢中になっていたかということだ。
理由はもちろん死んだ恋人「直子」に見つけなければならない。
「1969年の春」から「1970年の冬」までの間に、彼女は亡くなっていたのだ。
③ 物語を読み解く「鍵」を見つける
この難解なパズルを読み解く鍵は、もちろん小説の中にあった。
配電盤、砂場、貯水池、ゴルフ・コース、セーターの綻び、そしてピンボール……。どこまで行けばいいのだろうと思う。脈絡のないバラバラのカードを抱えたまま僕は途方に暮れていた。(村上春樹「1973年のピンボール」)
読者に求められるのは「配電盤、砂場、貯水池、ゴルフ・コース、セーターの綻び、そしてピンボール」という「脈絡のないバラバラのカード」に託されたメタファーを読み解くことである。
なぜ「僕」は「貯水池に沈めた配電盤」や「ゴルフ・コースの砂場」にこだわっているのだろうか?
【考察2】「直子」とは誰か?死んだ恋人の正体
本作『1973年のピンボール』のテーマは、主人公(「僕」)の喪失感からの回復である。
① 恋人を失った喪失感
「僕」の喪失感は、愛する恋人「直子」を失った喪失感だ。
でも忘れることなんてできなかった。直子を愛していたことも。そして彼女がもう死んでしまったことも。結局のところ何ひとつ終ってはいなかったからだ。(村上春樹「1973年のピンボール」)
なぜ、彼は「結局のところ何ひとつ終ってはいなかったからだ」と考えているのだろうか?
そこには恋人を助けることのできなかった彼の悔しさが込められている。
恋人「直子」を失った喪失感は、1970年・冬の「スペースシップ」へとつながっていく。
死んだ恋人を忘れるために、彼はピンボール・マシーンと戦い続けていたのである。
永遠の「リプレイ」という終わりのないゲームの中で。
② 消えたピンボール・マシーンが意味するもの
突然に死んだ恋人を投影した存在が、物語の主要なモチーフとなっているピンボール・マシーン「スペースシップ」である。
あなたのせいじゃない、と彼女は言った。そして何度も首を振った。あなたは悪くなんかないのよ、精一杯やったじゃない。違う、と僕は言う。(略)違うんだ。僕は何ひとつ出来なかった。指一本動かせなかった。でも、やろうと思えばできたんだ。(村上春樹「1973年のピンボール」)
「僕」が語りかけている「スペースシップ」は、もちろん「死んだ直子」を投影したものだ。
おそらく「直子」は自殺している。
だからこそ、彼は「僕は何ひとつ出来なかった。指一本動かせなかった。でも、やろうと思えばできたんだ」と悔やみ続けているのだ。
③『ノルウェイの森』へと続く物語
村上春樹の小説に登場する「直子」と言えば、当然『ノルウェイの森』に登場する女子大生を思い出すはずだ。
『ピンボール』の「直子」と『ノルウェイ』の「直子」に、直接的な関連を見出すことはできない。
しかし、1970年に失われたものの象徴として「直子」は確かに機能している。
※悲劇のヒロイン・直子が登場する『ノルウェイの森』については、別記事「『ノルウェイの森』は何が言いたいのか?「気持ち悪い」不快感の正体とラストの意味」で詳しく考察しています。
【考察3】なぜ「僕」は「出口」にこだわり続けているのか?
「入口と出口」は、この物語で大きな命題となっている。
① 出口を失った「小さな鼠」の正体
「僕」は「鼠捕り」の話をして、「入口と出口」の意味を伝えようとしている。
彼の姿は僕にひとつの教訓を残してくれた。物事には必ず入口と出口がなくてはならない。そういうことだ。(村上春樹「1973年のピンボール」)
彼が「出口」にこだわるのは、彼自身こそ出口を失った「小さな鼠」だったからだ。
② プラットフォームの「犬」が意味するもの
突然に恋人を失って、彼は自分の行き場を探しあぐねている。
「プラットフォームの端から端まで犬がいつも散歩してるのよ。そんな駅。わかるでしょ?」(村上春樹「1973年のピンボール」)
プラットフォームから出ることのできない「犬」は、行き場(出口)を見失った彼自身の姿だ。
③「ピンボール・マシーン」が意味するもの
そんな彼の人生は「ピンボール・マシーン」に象徴されている。
しかしピンボール・マシーンはあなたを何処にも連れて行きはしない。リプレイ(再試合)のランプを灯すだけだ。(村上春樹「1973年のピンボール」)
「リプレイ、リプレイ、リプレイ……」と繰り返されるピンボール・ゲームは、行き場をなくした彼の人生そのものだったと言っていい(「繰り返しだ」)。
何ヵ月も何年も、僕はただ一人深いプールの底に座り続けていた。(村上春樹「1973年のピンボール」)
だからこそ、彼は「消えたスペースシップ」を探さなければならなかった。
中途半端に終わってしまった「ゲーム(リプレイ)」を終了させるために。
「結局のところ何ひとつ終ってはいなかった」という、恋人を失った喪失感から立ち直るために。
本作『1973年のピンボール』は、そんな若者の再生物語だった。
【考察4】「配電盤」は何を意味しているのか?
主人公の「僕」は「配電盤」にこだわり続けていた。
役割を終えた古い配電盤は、なぜ、それほどまでに重要だったのだろうか?
①「配電盤のお葬式」が意味するもの
主人公「僕」は、双子の女の子の提案を受けて、貯水池へ行く。
配電盤のお葬式をするためだ。
「貯水池に何しに行くんだ?」「お葬式」「誰の?」「配電盤よ」「なるほどね」と僕は言った。(村上春樹「1973年のピンボール」)
「貯水池」が「僕」の心の奥深いところを意味するとしたなら、貯水池へ沈められた「配電盤」は、心の奥底に沈められた古い思い出である。
② なぜ事務所の女の子との食事は必要だったのか?
事務所の女の子に誘われて、「僕」は彼女と一緒にエビ料理を食べに行く。
彼女は黙りこくって海老を食べつづけた。僕も海老を食べた。そして海老を食べながら貯水池の底の配電盤を思った。「あなたは二十歳のころ何をしてたの?」「女の子に夢中だったよ」一九六九年、我らが年。(村上春樹「1973年のピンボール」)
「貯水池の底の配電盤」は、二十歳のころの思い出と直結している。
それは、1969年のことだった。
一九六九年の春、僕たちはこのように二十歳だった。(村上春樹「1973年のピンボール」)
彼の心の底には、常に「直子(貯水池の底の配電盤)」の存在があった。
③「セーターの綻び」が意味するもの
事務所の女の子は、彼の「セーターの綻び」をつくろってくれた存在だ。
それは、彼の「心のほころび」でもある。
事務所の女の子との食事を通して、彼は「ピンボール・マシーン」を探すことに夢中になっていった。
「僕」の再生に必要だったのは、新しい女の子との出会いだったのかもしれない。
【考察5】「ゴルフ・コース」は何を意味しているのか?
主人公の「僕」は、双子の女の子と一緒に、ゴルフ・コースの散歩を楽しんだ。
ゴルフコースは何を意味しているのだろうか?
①「ゴルフ・コース」が意味するもの
彼が双子の女の子と散歩する「ゴルフ・コース」は(おそらく)彼の人生の縮図だ。
小学校の廊下みたいなフェアウェイがまっすぐに続いているだけだった。七番ホールでは近所に住む学生がフルートの練習をしていた。(村上春樹「1973年のピンボール」)
「小学校」の長い廊下みたいなフェアウェイを通りぬけて、近所に住む「学生」が練習しているフルートを聴いたとき、主人公は、青春の日のピンボール・マシーンを思い出す。
おそらく「ゴルフ・コースの散策」は、過去を回想する主人公の投影となっていたはずだ。
夕暮れのゴルフ・コースで、なぜ主人公はピンボール・マシンを思い出したのか?
それは「ピンボール・マシーン」こそが、主人公にとって「青春時代」の象徴だったからに他ならない。
最初に「これはピンボールについての小説である」という文章があった。
つまり、この小説は、主人公にとって「青春についての小説でもある」ということだったのだ。
② ゴルフ・コースの「砂場」が意味するもの
さらに、彼は「砂場」にこだわりを見せる。
「でもね、砂場に何かを残しちゃいけない。砂場は神聖で清潔なものなんだ」(村上春樹「1973年のピンボール」)
神聖なる「砂場(バンカー)」は、思うように進むことのできない、人生の停滞期のことだろう。
1970年(昭和45年)の冬、ピンボールに夢中になる「僕」の行為は、死んだ恋人「直子」を忘れるための、祈りのような行為だったのかもしれない。
「僕」が探している「ロスト・ボール」は、もちろん彼の「失われた思い出」を探す行為だった。
【考察6】「鼠」とはいったい誰だったのか?
作品中に示されたキーワードをひとつひとつ読み解いていくと、物語の全体像が見えてくる。
それでは、別パートに描かれる「鼠」は何を象徴しているのだろうか?
①「鼠」は「僕」の分身である
結論から言うと「鼠」は「僕」の分身として機能している。
「問題は、」とジェイが言った。「あんた自身が変わろうとしていることだ。そうだね?」(村上春樹「1973年のピンボール」)
本編で「僕」が「スペースシップ」を探しているとき、「鼠」は町から出ることを考えていた。
「鼠」の行動は、「僕」の行動に呼応するものだったと考えていい。
②「僕」の中にいる「鼠」
「僕」が懐かしいスペースシップと和解したとき、「鼠」は彼女と別れ、街を出た。
「街を出ることにするよ」と鼠はジェイに言った。(村上春樹「1973年のピンボール」)
「ジェイズ・バー」は「僕」の心の中にある古い風景を象徴する存在だ。
「僕」が「スペースシップ」に別れを告げた以上、「鼠」も「街」に残ることはできなかった。
そして「僕」が再生の道を歩き始めたとき、「鼠」も旅へと出発する。
彼らの「新しい人生」が始まっていた。
【考察7】「双子の女の子」が意味するもの
村上春樹の小説には「不思議な女性」という系譜がある。
①「双子の女の子」という不思議な女性たち
『羊をめぐる冒険』の「耳の素晴らしいガールフレンド」や『ダンス・ダンス・ダンス』のスピリチュアルな能力を持った少女(ユキ)、『ノルウェイの森』のレイコさん、『ねじまき鳥クロニクル』に登場する不登校の女子高生(笠原メイ)など、彼女たちには主人公の男性の「再生」を補助する役割を与えられている(ジェンダー的に批判を受けやすい部分)。
本作『1973年のピンボール』に出てくる「双子の女の子」も、そんな「不思議な女性」たちのひとり(ふたり)だった。
「右と左」と一人が言った。「縦と横」ともう一人が言った。(村上春樹「1973年のピンボール」)
「僕」は負けないように「入口と出口」と付け加える。
彼女たちは、まさに「僕」の「出口」を探すために現れた「謎の双子」だったのだ(「入口と出口」だから「双子の女の子」だった)。
②「双子の女の子」はいったい誰だったのか?
おそらく、彼女たちは「僕」の中に潜む「僕」自身の化身である。
「さて、配電盤を捜さなくちゃ」「捜す必要なんてないわよ」と右側が言った。(村上春樹「1973年のピンボール」)
「配電盤」が心の中に残る古い傷痕だとしたら、その場所を知っているのは、もちろん自分自身である。
「双子の女の子」は「僕」の再生を補助するために、「僕」の中から現れた女たちだったのだ。
③「耳あか」が意味するもの
それでは「双子の女の子」は、なぜ「双子」でなければならなかったのだろうか?
物語の終わりで、「僕」は耳鼻科を受診している。
「あんたの耳の穴は他の人よりずっと大きくて曲ってんのよ」(略)「だからもしあんたの耳あかがこの角を曲がっちゃうと、もう誰が呼んでも帰って来ないのよ」(村上春樹「1973年のピンボール」)
作者の伝えたかったことは、この「耳あか」のエピソード(寓話)に集約されている。
角を曲がってしまえば誰が呼んでも帰ってこない「耳あか」は、つまり、青春の日の思い出ということだ。
このとき「双子の女の子」は、主人公自身の「両耳(=双子)」をイメージさせるモチーフだったということが分かる。
メタファーとパズル。
この二つを丁寧に読み解いたとき、『1973年のピンボール』は素晴らしい青春小説として甦るのだ。
【考察8】『1973年のピンボール』の名言を読み解く
本作『1973年のピンボール』には、村上春樹らしい名言が随所に登場している。
①「出口があればいいと思う」
本作『1973年のピンボール』は「出口」を探す若者の物語だった。
出口があればいいと思う。もしなければ、文章を書く意味なんて何もない。(村上春樹「1973年のピンボール」)
「出口」とは自己療養の試みであり、傷ついた青年の「再生」を意味している。
心に傷を負った若者は、心の傷痕を癒すために「物語」を書き続けていた。
②「ゆっくり歩け、そしてたっぷり水を飲め」
名言はジェイズ・バーの中年マスター(ジェイ)によって語られることが多い。
「おやすみ」とジェイが言った。「ねえ、誰かが言ったよ。ゆっくり歩け、そしてたっぷり水を飲めってね」(村上春樹「1973年のピンボール」)
つまり、ジェイは作者自身を投影する存在だった、ということだろう。
「ゆっくり歩け、たくさん水を飲め」のフレーズは、後の『アフターダーク』(2004)にも登場している。
③「どんな髭剃りにも哲学はある」
村上春樹最大の名言として知られる「どんな髭剃りにも哲学はある」は、『1973年のピンボール』に登場する言葉だった。
「あたしは四十五年かけてひとつのことしかわからなかったよ。(略)どんな髭剃りにも哲学はあるってね。実際、そうしなければ誰も生き残ってなんかいけないのさ」(村上春樹「1973年のピンボール」)
この言葉は、その後も『ランゲルハンス島の午後』や『走ることについて語るときに僕の語ること』など、多くのエッセイの中で引用された。
※「どんな髭剃りにも哲学はある」という格言の出典(元ネタ)については、別記事「ロバート・リンド「髭剃りの教訓」どんな髭剃りにも哲学はある」で深く考察しています。
④「雨の日と月曜日には誰の心も暗くなる」
人生の達人ジェイは、良い言葉をたくさん知っている。
「雨の日と月曜日には誰の心も暗くなるってね、歌にある」「まったくね」(村上春樹「1973年のピンボール」)
『雨の日と月曜日は』は、カーペンターズの1971年(昭和46年)のヒット曲だった。
⑤「どんな進歩や変化も崩壊の過程に過ぎない」
「鼠」は『風の歌を聴け』に続いて、フィッツジェラルド『崩壊(崩れる)』の言葉を引用している。
鼠は唇を噛み、テーブルを眺めながら考え込んだ。「そしてこう思った。どんな進歩もどんな変化も結局は崩壊の過程に過ぎないんじゃないかってね。違うかい?」(村上春樹「1973年のピンボール」)
「鼠三部作」最後の作品『羊をめぐる冒険』で、鼠はとうとう「崩壊」を実践することになる。
あるいは「鼠」の運命は、最初から定められていたのかもしれない。
まとめ│新しい時代を生きていくために
本作『1973年のピンボール』の主人公「僕」は、新しい時代に自分の居場所を見つけだせないでいた。
問題は、と僕は思う。僕に合った場所が全て時代遅れになりつつあることだった。(村上春樹「1973年のピンボール」)
死んだ恋人「直子」の思い出にとらわれて、彼は前へ進むこともできず、古い時代の中でリプレイを繰り返していた。
やがて、彼は「心の傷痕」(古い配電盤)を、「心の奥深いところ」(貯水池の底)へと沈め、「消えたスペースシップ」(死んだ恋人)に別れを告げる。
ジェイに別れを告げ、街を出た鼠は、新しい人生を歩み続けた「僕」の分身である。
「青春の傷痕」をメタファーで変換した上、バラバラに分割して不規則に並べ替えた物語は、パズルを並べ替えて、メタファーを逆変換することで、美しい青春小説として甦った。
ここに『1973年のピンボール』という小説の素晴らしさがある。
懐かしいピンボール・マシーン「スペースシップ」に別れを告げた「僕」は、やがて最後の冒険に出かけなければならない。
それが、三部作の完結編『羊をめぐる冒険』である。
初期・村上春樹の代表作となった作品『羊をめぐる冒険』については、別記事「村上春樹『羊をめぐる冒険』青春の喪失と自己内対話による再生」で詳しく考察しているので、併せてご覧ください。
また、村上春樹のおすすめ作品については、別記事「【2026年最新】村上春樹のおすすめ作品10選+α|初心者からマニアまで納得の「読む順番」と深読みのコツ」で詳しく紹介しています。
