街と文学

【文芸散歩】石田波郷が愛した砂町を歩く|『江東歳時記』の舞台と石田波郷記念館を訪ねて

石田波郷が愛した砂町を歩く|『江東歳時記』の舞台と石田波郷記念館を訪ねて

東京・江東区砂町に「石田波郷記念館」がある。

かつて、この地で写真を撮りながら随筆を綴った俳人・石田波郷。

砂町は今でも「石田波郷の砂町」だった。

江東区砂町の俳人・石田波郷

かつて石田波郷が暮らした街を歩くために、亀戸駅でJRを降りた。

なにしろ、平日朝の通勤ラッシュアワーの時間帯で、ドイツからやって来た観光ファミリーも驚いたに違いない。

多くのビジネスマンたちが、都心を目指して出勤していく。

進開橋で小名木川を越えたところに「石田波郷生誕百年記念碑」があった。

小名木川を越えたところにある石田波郷生誕百年記念碑小名木川を越えたところにある石田波郷生誕百年記念碑

雪敷ける町より高し小名木川 石田波郷

ここは「海抜ゼロメートル地点」である。

町より高いところを小名木川が流れていた。

そのまま砂町緑道公園を歩いていくと、本の形をした記念碑が現れる。

小名木川駅跡に建立された「『江東歳時記』文学碑」だ。

小名木川駅跡に建立された「『江東歳時記』文学碑」小名木川駅跡に建立された「『江東歳時記』文学碑」

小名木川駅春の上潮曇るなり 石田波郷

代表作『江東歳時記』によって、石田波郷は砂町の俳人となった。

ここは、俳人・波郷が戦後を過ごした街である。

もともと、四国・松山出身の石田波郷が上京したのは、水原秋櫻子が主宰する俳句雑誌『馬酔木』に入会するためだった。

昭和8年、20歳で『馬酔木』最年少の同人となった波郷は、昭和12年、自らが主宰する俳句雑誌『鶴』を創刊する。

「俳句は生活そのもの」を提唱する波郷の句風は「人間探求派」と呼ばれた。

私は人間の入っていない純粋な風景写真はあまり興味がなかった。俳句も自然諷詠はあまり興味もなく苦手であった。(石田波郷「俳句と写真」)

後にスナップ写真を趣味としたときも波郷は「人間の生活」にこだわり続けた。

そんな波郷が北砂町(現在の江東区北砂)へ移住するのは、戦後間もない昭和21年3月のことである。

焼け跡の街を詠んだ波郷の作品は「焦土諷詠」と呼ばれた。

はこべらや焦土のいろの雀ども 石田波郷

「焦土諷詠」は、まさしく石田波郷を象徴する時代だったに違いない。

「俳句は私小説である」と主張する波郷は、見渡す限り続く焼け跡に立ち、焦土で生きる人々を詠い続けた。

焼跡の水が温み、はこべがしげり荒れた礎石の間にもたんぽぽが花を捧げた。敗れた民族のかなしみをこめて、それら焦土の風物を、私は日々の命を認識するように、一句一句詠みつづけた。(石田波郷「第二の故郷」)

代表作『江東歳時記』が読売新聞(江東版)に連載されたのは、戦後の復興も進んだ昭和32年から33年にかけてのことである。

波郷は地元の街を歩きながら、写真を撮り、俳句を詠み、随筆を綴った。

その取材範囲は、江東区のみならず、墨田区・江戸川区・足立区・葛飾区にまで及んだという。

私は江東砂町の地に昭和二十一年三月移り住んだ。(略)ここには飾らない人情と素朴で力強い生活力があふれていた。(石田波郷「江東歳時記」)

俳人・石田波郷は、愛機ローライフレックスを手に、戦後の街を撮り続ける。

単行本『江東歳時記』が東京美術から出版されたのは、昭和41年のことだった。

現在、砂町緑道公園にある文学碑は、名作『江東歳時記』を記念して建立されたものだ。

それは、俳人・石田波郷が、ここ砂町で生きたことの証ともなっている。

小さな文学館「石田波郷記念館」

「石田波郷記念館」は、江東区砂町文化センターの二階にある。

文化施設の一隅にあるから「記念館」というより「記念室」だが、展示内容は「記念館」という名称に恥じるところがないほど充実している。

江東区砂町文化センターにある石田波郷記念館江東区砂町文化センターにある石田波郷記念館

約180センチメートルの等身大パネルに迎えられて記念館へ入ると、「石田波郷Q&A(波郷さんはどんな人?)」がある。

地元の子どもたちの郷土学習にも活用されているのだろう。

【Q】どんな俳人だったの?

【A】創作は俳句一筋で、波郷にとって俳句は人生そのものでした。

年表には、松山で生まれてから東京病院で亡くなるまで、波郷の生涯が綴られている。

焼け跡の砂町と、療養所のある清瀬は、肺結核との闘病生活に明け暮れた波郷の人生を象徴する町だった。

石田波郷の撮影したスナップ写真石田波郷の撮影したスナップ写真

館内には、波郷の撮影したスナップ写真が大きく展示されている。

俳人の波郷がカメラを始めたのも、清瀬の療養所で同室だった患者の影響によるものだった。

人間の生活を追い続けた波郷にとっては、俳句もスナップ写真も、人間の生活をスケッチするためのツールだったに違いない。

カメラを持った石田波郷カメラを持った石田波郷

右肩にカメラをぶら下げて堤防に立つ石田波郷の写真は、特に印象に残った展示品のひとつだ(絵葉書にして売ってくれたら部屋に飾りたい)。

読売新聞に連載された『江東歳時記』読売新聞に連載された『江東歳時記』

代表作『江東歳時記』についての詳しい解説も、もちろんある。

俳句・写真・随筆。

石田波郷のすべてが詰まった『江東歳時記』は、やはり石田波郷の代表作だった。

記念館を見学した後は、一階の窓口で小冊子『石田波郷と砂町』(300円)を購入。

波郷のイラストと俳句が印刷された封筒(江東区砂町文化センター)波郷のイラストと俳句が印刷された封筒(江東区砂町文化センター)

波郷と砂町との関係がコンパクトにまとめられていて、お値段以上の価値がある。

波郷のイラストと俳句が印刷された封筒に入れてくれるのもうれしい。

一度ならずとも何度も通いたいと思わせてくれる、充実の文学館だった。

人間に愛された石田波郷の句碑巡り

石田波郷記念館に「石田波郷の文学碑案内」が掲示されていた。

どうやらこの街には、石田波郷の文学碑がいくつもあるらしい。

マップをたよりに「妙久寺」へ向かう。

妙久寺にある石田波郷の句碑妙久寺にある石田波郷の句碑

はこべらや焦土のいろの雀ども 石田波郷

ここには、石田波郷の代表句「焦土のいろの雀ども」が刻まれている。

妙久寺の隣には「石田波郷宅跡の説明版」があるはずだが、なにやら大規模な工事をしていて、説明版を見つけることはできなかった。

工事中の「石田波郷宅跡」工事中の「石田波郷宅跡」

小冊子『石田波郷と砂町』によると、「石田波郷宅跡」は、清州橋通り・明治通りの境川交差点付近、志演(しのぶ)尊空神社と妙久寺との間にあったらしい。

波郷は、親交のあった棟方志功の絵『妙法』を、妙久寺へ寄贈したという。

小名木川小学校の正門前にも波郷の句碑があるはずだが、なんと小名木川小学校も改築工事中。

百万の焼けて年逝く小名木川 石田波郷

ここは、かつて東京大空襲で全焼した小名木川国民学校の跡地でもあり、句碑は小名木川小学校開校60周年を祝う会により建立されたという。

米軍の「焼夷地区1号」に指定された砂町は、昭和20年3月10日の東京大空襲で壊滅的な被害を受けている。

終戦から80年以上が経過した今も砂町は、戦災殉難者の町なのだ。

亀戸駅へ戻り、東京スカイツリーへ向かって歩いたところに「龍眼寺」がある。

ここにあるのは、石田波郷・石塚友二の連袂句碑だ。

龍眼寺にある石田波郷・石塚友二の連袂句碑龍眼寺にある石田波郷・石塚友二の連袂句碑

槇の空秋押し移りゐたりけり 石田波郷

たかむなの疾迅わが背越す日かな 石塚友二

波郷の跡を継いで『鶴』を主宰した石塚友二の句が、師の句とともに並んでいる。

江戸川区の行船公園まで行けば、そこにも石田波郷の句碑がある。

立春の米こぼれをり葛西橋 石田波郷

早春や道の左右に潮満ちて 石田波郷

人間の生活を愛した俳人・石田波郷は、地元の人々に愛される俳人でもあったらしい。

墓は、調布市深大寺にある。

吹き起こる秋風鶴を歩ましむ 石田波郷

深大寺には、中村草田男「萬緑の中や吾子の歯生え初むる」の句碑があり、なにより小沼丹の短篇小説の舞台にもなったところなので、いずれは訪れてみたい(三鷹駅からバスに乗って25分)。

なお、石田波郷の句碑は、日野市高幡の高幡不動尊にも建立されている。

濃あじさゐ吾らが病みし日も遠し 石田波郷

各地に残る石田波郷の俳句。

人間の生活を詠み、人間に愛された石田波郷の句碑巡りは、どうやらまだまだ続くらしい。

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ジェン
文芸コラム担当。感想以上、批評未満。深読み癖あり。感想はX(@jiku_hyohon)にてお待ちしています。