昭和から平成へと時代が激しく動き出そうとしていた1986年(昭和61年)、五木寛之が同時代の若き作家たちと切り結んだ対談集『風の対話』が刊行された。
その中に、初期の瑞々しさをまとった村上春樹の姿がある。
「都会的」「オシャレ」といった80年代の記号(アイコン)として消費され始めていた彼は、なぜ大先輩の前で、泥臭い「政治の季節」や、日本の戦後社会に対する不信感を語ったのか。
劇中で描かれる「子供なんて欲しくない」という主人公のセリフと、彼自身が語った「子供を産む確信がない」という独白。
それらはどう繋がっているのだろうか。
今回は「地層の読書コラム」として、歴史に埋もれた村上春樹の発言を掘り返してみたい。
【作品概要】五木寛之『風の対話』とは?
本作『風の対話』は、五木寛之の対談集である。
1986年(昭和61年)3月にブロンズ社から刊行された後、1994年(平成6年)、河出文庫に入った。
単行本が刊行された年、著者は54歳。
対談相手には後輩となる作家たちの名前が並ぶ。
・村上春樹
・中沢新一
・高橋源一郎
・北方謙三
・中上健次
次の時代を担う実力派作家の一人として、村上春樹もノミネートされていた。
村上春樹が『羊をめぐる冒険』について語ったこと
このとき、村上春樹は3作目となる長編『羊をめぐる冒険』を発表したばかりだった。
村上 あれを書いちゃって、かなり楽になりました。最初の二作を書いたあとで、実は結構落ち込んじゃったんです。(五木寛之「風の対話」)
『羊をめぐる冒険』の発表は、1982年(昭和57年)10月。
自ら経営するジャズ喫茶「ピーター・キャット」を手放し、専業作家として臨んだ最初の作品だった。
村上 ぼくの最初の二作は、「他人に何かを語りたい」「でも語れない」というギャップで成立していたようなところがあるんですけど、ふたつ書き終えたあとで、実はそうじゃないんじゃないか、という気がふとしたんですね。(五木寛之「風の対話」)
『羊をめぐる冒険』は、断片的なエピソードで構築された『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』とは異なり、初めての本格的な長編小説だった。
※『羊をめぐる冒険』については、別記事「村上春樹『羊をめぐる冒険』完全考察│「羊」の正体・鼠の自殺・爆発の意味を読み解く」をご覧ください。
その頃、村上春樹の小説は「都市小説」と呼ばれていた。
村上 でも、都市小説というのは何かということ自体がね、わからなかったし、そんなものがあるのかどうかということもわからなかった。(五木寛之「風の対話」)
それは、オシャレで都会的な雰囲気を持った小説という意味での「都市小説」だったかもしれない。
大瀧詠一や山下達郎の音楽が「シティ・ポップ」と呼ばれたように、時代は「都会」を求めていた。
オシャレで都会的な作家として1980年代に登場した村上春樹は、やがて本当に「80年代のアイコン」となってしまう。
※1980年代の「村上春樹現象」については、別記事「『村上春樹の青春グラフティ』80年代の村上春樹現象とバブル時代の『ノルウェイの森』狂騒曲」で、詳しく考察しています。
五木寛之「戦争の時代」と村上春樹「政治の時代」
この対談の見どころは「戦争の時代」を生きた五木寛之と、「政治の時代」を生きた村上春樹とのジェネレーション・ギャップにある。
村上 結局、ぼくらの世代は物語れない、というコンプレックスがあったんですよね。僕らが高校時代、つまり五木さんと野坂さんが出てこられた時代……。(五木寛之「風の対話」)
「戦争の時代」を語ることができなかった村上春樹の世代は、やがて「政治の時代」を語り始める。
村上 ぼくの場合、一番原体験の文章っていうのは、戦後憲法なんですね。(五木寛之「風の対話」)
1949年(昭和24年)生まれの村上春樹が小学校へ入学して最初に覚えたものは、先生が教えてくれる「日本国憲法」だった。
日本は貧しい国だけれども、世界で唯一「戦争」を放棄している──
そんな誇りを傷つけられたのが「六〇年安保」だった。
村上 そのときはテレビがあったんです。で、樺美智子さんの死んだとこが全部映って、それを見てるわけです。ぼくが小学校六年生ぐらいですね。(五木寛之「風の対話」)
理想と現実との乖離を、村上春樹は「言葉と現実の分離」と呼んでいる。
戦争放棄や基本的人権を謳った「日本国憲法」と、デモに参加した女子大生が機動隊に殺されてしまう現実社会との分離。
それが、村上春樹の生きてきた「政治の時代」だった。
村上 結局(略)、六〇年から七〇年のあいだの十年というのは、それをもう一度くっつけるという可能性を信じていたわけですよね。だからこそ、六九年に向けていくわけですよね。(五木寛之「風の対話」)
しかし、言葉と行動が結合することは、二度となかった。
高度経済成長の中、日本は大きな矛盾を抱えたまま、世界の大国として発展していく。
村上春樹が書いていたものは、結局のところ、そんな時代の「ニッポン」「だったのかもしれない。
村上春樹が「子供を産めないこと」について語る
この時代、村上春樹の小説には「子どもを持たない夫婦(カップル)」が登場している。
例えば、最新作『羊をめぐる冒険』の夫婦も、子どもをつくる前に離婚してしまった。
「子供欲しかった?」「いや」と僕は言った。「子供なんて欲しくないよ」(村上春樹「羊をめぐる冒険」)
「子供なんて欲しくないよ」と言った主人公の言葉は、後の場面でも繰り返される。
たしかに僕はもう子供が何人かいてもおかしくない歳なのだ。しかし父親としての自分を想像してみるとどうしようもなく気が滅入った。僕が子供だとしたら、僕のような父親の息子になりたいとは思わないだろうという気がした。(村上春樹「羊をめぐる冒険」)
あの頃、村上春樹は何を恐れていたのだろうか?
「DINKs(ディンクス)」という言葉が日本へ正式に登場したのは、1988年(昭和63年)の『国民生活白書』だと言われている。
「Double Income No Kids」という言葉から生まれた「ディンクス」は、新しい夫婦像として現代的なライフ・スタイルを象徴する言葉となった。
村上春樹も当時の「ディンクス」に数えられた文化人の一人だ。
だが、彼は本当に「ディンクス」だったのだろうか?
村上 ぼくの場合は、子供が産めないんですね。産んでいい、という確信がないんです。(五木寛之「風の対話」)
戦後に生まれた村上春樹の世代は(つまり「団塊の世代」は)、世の中の「理想と現実」との狭間で生きていた。
彼らは「ニッポン」を信用できない世代である。
村上 ぼくらの世代が生まれたのは、昭和二十三、四年なんですけど、戦争が終わって、世の中はよくなっていくんじゃないかという思いが、親の中にあったんじゃないかな、という気はするんですが、ぼくは、それだけの確信はまったくないですね。(五木寛之「風の対話」)
信用できない社会の中で、子どもを産み育てることはできない。
そんな思いが、彼らの中には育まれていたのかもしれない。
結局、村上春樹夫妻が子どもをつくることはなかった。
戦後日本は、最後まで村上春樹の信用を得ることはできなかったのである。
まとめ│古い時代から現代へ
「戦後日本を信用しない」という村上春樹のスタンスは、一貫して変わることがなかった。
そこに「村上春樹」という作家の、基本的なテーマがある。
「古い対談」の中には、「古い時代」の村上春樹がいて、「古い言葉」を語っている。
しかし、その言葉は、その後の「村上春樹」という作家の(作品の)中に、しっかりと息づいているものだ。
古い本を読む意味は、そんなところにもあるのかもしれない。
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文学ブログ『時空標本』では、村上春樹の作品をたくさん紹介しています。
詳細は、別記事「村上春樹の読み方|意味不明な「謎」の小説世界を読み解くために」をご覧ください。
また、「村上春樹の小説を読みたい!」という方には、別記事「【2026年7月最新】村上春樹のおすすめランキング30選!初心者・レベル別の読む順番も徹底解説」がおすすめです。
