芥川龍之介『蜘蛛の糸』あらすじと考察|お釈迦様という偽善者と結末の残酷さ
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は、偽善という人間の残虐性を描いた短編小説である。
偽善者はどこにいたのか?
この記事では、『蜘蛛の糸』のあらすじを整理するとともに、この物語の本当の意味について、独自の視点から考察していきたい。
3行でわかる『蜘蛛の糸』
日常(地獄と極楽の対比)
極楽の蓮池から地獄の底を覗き見たお釈迦様は、生前に一度だけ蜘蛛を踏みとどまって命を助けた大泥棒・カンダタに情けをかけ、一本の銀の蜘蛛の糸を垂らす。
事件(登攀と剥き出しのエゴ)
地獄の苦痛から逃れようと必死に糸をよじ登るカンダタだったが、ふと下を見ると無数の罪人たちが追ってきたため、「この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだ!」と怒鳴りつける。
結末(断裂と冷徹な静寂)
その我執の叫びを発した瞬間、糸はカンダタの手元でぷつりと切れ、彼は再び暗闇の底へと落ちていく。お釈迦様は悲しそうな顔をして、何事もなかったかのように蓮池を歩み去る。
『蜘蛛の糸』の簡単なあらすじ
ある日の朝、極楽の蓮池のふちを歩いていたお釈迦様は、透き通った水を通して地獄の底を覗き見る。血の池や針の山で苦しむ無数の罪人の中に、悪逆非道の限りを尽くした大泥棒・カンダタの姿があった。
カンダタは生前に人を殺し、家に火を放つような極悪人だったが、ただ一度だけ、道端の小さな蜘蛛を踏み殺さずに命を助けたことがあった。そのささやかな善行を思い出したお釈迦様は、彼を地獄から救い出してやろうと、極楽の蜘蛛が紡いだ一筋の銀の糸を地獄の底へとまっすぐに垂らす。
暗闇の中で天から光る糸が降りてくるのを見つけたカンダタは歓喜し、地獄の責め苦から脱出しようと夢中で糸を登り始めた。極楽と地獄の間は何万里もあるため途中で疲労困憊するが、ふと下を見下ろすと、地獄の底が見えなくなるほど高い場所まで登ってきたことに気づく。
「この調子なら地獄から抜け出せるかもしれない」と笑ったのも束の間、自分の下から無数の罪人たちが、蟻の行列のように細い糸を一心によじ登ってくるのが目に入った。細い蜘蛛の糸がこれだけの重さに耐えられるはずがないと恐怖したカンダタは、大声で怒鳴りつける。
「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだ。お前たちは一体だれに尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ」(芥川龍之介「蜘蛛の糸」)
その言葉が口から出た瞬間、蜘蛛の糸はカンダタの握っていた場所からぷつりと断ち切れた。カンダタは風車のようにくるくると回転しながら、真っ暗な血の池の底へとまっさかさまに落ちていく。
一部始終を蓮池からじっと見届けていたお釈迦様は、自分一人だけ抜け出そうとしたカンダタの無慈悲な心と、その浅ましさゆえに元の地獄へ堕ちてしまった姿を悲しそうに見つめる。しかし、それも束の間、お釈迦様は何事もなかったかのように静かに蓮池のまわりを歩み始める。極楽の蓮の花は、そうした地獄の出来事など知らぬげに、白く気高い香りをただ漂わせ続けるのだった。
【考察】本当の主人公は御釈迦様だったのか?
『蜘蛛の糸』に感じる違和感の正体
本作『蜘蛛の糸』を読んだときに感じる違和感。
それは、殺人や放火の罪を犯した大泥棒・犍陀多(カンダタ)を、「小さなクモを踏み殺さなかった」というだけの理由で、地獄から救い出してやろうと考えた御釈迦様の判断である。
原因と結果のバランスから考えると、カンダタはどう考えても「地獄に堕ちるべき極悪人」である。
つまり、この物語のポイントは、「この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだ」と叫んだカンダタではなく、「この男を地獄から救い出してやろう」と考えた御釈迦様の真意にあるということだ。
なぜ「蜘蛛の糸」は切れたのか?
そもそも「蜘蛛の糸」で地獄から這い上がることができるほど、世の中は甘くない。
カンダタの後を追って、他の罪人たちが上ってくることも、それをカンダタが防ぐだろうことも、御釈迦様はあらかじめ予想することができたはずだ。
つまり、御釈迦様は、「蜘蛛の糸」が切れてカンダタが地獄へ落ちていくことを、最初から知っていたのである。
「この男を地獄から救い出してやろう」という御釈迦様の考えは、ただの酔狂にすぎない。
つまり、御釈迦様は、ただの暇つぶしに、カンダタをからかってやろうと考えただけなのだ。
裏切られる期待の悲しさ
例えば、かわいい女の子を好きな男がいたとする。
女の子は、男のことを全然好きではなかったが、ちょっとした気分転換に男をからかってやろうと考える。
やさしい微笑みを浮かべて、甘い言葉をささやけば(つまり「蜘蛛の糸」を垂らせば)、男は「もしかして脈があるかもしれない」と期待するだろう。
だが、女の子は無慈悲にも去っていく(つまり「蜘蛛の糸」が切れる)。
答えは最初から決まっていたのだ。
御釈迦様の真意を読み解く
本作『蜘蛛の糸』における本当の主人公は、御釈迦様である。
御釈迦様の無慈悲な行為を、作者は強く非難しているのだ。
御釈迦様の真意は、何ともいえない好い匂いを漂わせている蓮池の蓮に表象されている。
御釈迦様にとって、カンダタのような極悪人が地獄に堕ちることは、当然すぎるほどに当然のことだった。
だからこそ、極楽は何事もなかったようにいい匂いを漂わせているのである。
御釈迦様という偽善者
最初から切れることを知っていて「蜘蛛の糸」を垂らした御釈迦様と、小さなクモを殺さずに助けてやったカンダタの行為と、果たしてどちらが残酷だろうか。
御釈迦様は「御釈迦様」という仮面を被った偽善者である。
問題は、そんな「御釈迦様」が、現実社会にはあふれているということだ。
御釈迦様と極悪人カンダタという対比は、一見すると、善と悪との対比に思われるかもしれない(それが当然だ)。
しかし、実際の世の中は、パターンを超えて複雑にできている。
物事の本質を見極める力を、我々は身につけるべきなのかもしれない。
『蜘蛛の糸』の基本情報と登場人物
| 作品名 | 蜘蛛の糸(くものいと) |
|---|---|
| 著者 | 芥川龍之介 |
| 初出 | 『赤い鳥』創刊号(1918年 / 大正7年7月) |
| 読了時間の目安 | 約5〜10分(約2,500字) |
| 主な登場人物 | 犍陀多(カンダタ):殺人や放火を重ねて地獄に堕ちた大泥棒。生前に小さな蜘蛛を一匹助けた唯一の善行を持つ。 御釈迦様(お釈迦様):極楽の蓮池のふちから地獄を見下ろし、カンダタに救いの手を差し伸べる存在。 |
【参考】原典『カルマ』との違い
『蜘蛛の糸』の原典(元ネタ)は、アメリカの哲学者・東洋学者のポール・ケーラスが1894年に発表した仏教説話集『カルマ(Karma: A Story of Early Buddhism)』である。
芥川は、鈴木大拙が訳した日本語版『因果の小車』などを通して着想を得たが、その結末で大きな変更を行った。
| 比較項目 | 原典:ポール・ケーラス『カルマ』 | 芥川龍之介『蜘蛛の糸』 |
|---|---|---|
| 物語の語り手 | 高僧の「たとえ話」 慈悲深い高僧が、改心させようとする極悪人に対して教訓を語り聞かせる「寓話(説法)」の形式。 |
神の視点(客観描写) 説教臭い語り手を排除し、極楽の蓮池とお釈迦様の動作をただ淡々と見つめる三人称客観視点。 |
| 蜘蛛の糸の性質 | 無限の力を持つ「正義の糸」 何百万人の罪人が乗ろうとも決して切れない奇跡の糸。「他者と分かち合うほど軽くなる」と説かれる。 |
極めて細く儚い「脆い糸」 極楽の蜘蛛が紡いだ銀の細糸。カンダタが「大勢登れば切れてしまう」と怯える心理的リアリティを持つ。 |
| 結末のメッセージ | 明快な道徳・宗教的教訓 僧侶が「地獄とはエゴイズムであり、極楽とは正義の生である」と明快に正解(救いの条件)を解説して終わる。 |
お釈迦様の冷徹さと蓮の無関心 お釈迦様はただ悲しげな顔をして立ち去り、蓮の花は何事もなかったかのように香り続ける。 |
まとめ│物事の本質を見極めること
本作『蜘蛛の糸』の主題(言いたいこと)は、「物事の本質を見極めろ」ということだ。
善い人が「いつでも」善い人だとはかぎらない。
極悪人カンダタが小さなクモの命を助けたように、極悪人がいつでも極悪人だとはかぎらないように。
作者・芥川龍之介は、世の中の裏側を読み取ることのできる人だった。
もしかすると、そんな人生経験が、彼にもあったのかもしれない。
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