芥川龍之介『河童』あらすじ考察|なぜ「あべこべ」の世界に転生したか
芥川龍之介『河童』は、精神病患者を主人公とした転生物語である。
彼は、なぜ「河童の世界」に転生しなければならなかったのか?
この記事では、本作『河童』のあらすじを整理した上で、この物語に隠された「絶望のメッセージ」を読み解いていきたい。
3行でわかる『河童』
日常(迷入)
上高地の山道で河童を追いかけるうちに暗い穴へ落ちた「僕」は、人間界とはあらゆる価値観が逆転した「河童の国」へと迷い込む。
事件(あべこべの世界)
胎児が誕生を拒否できる出産や、失業者を食用肉にする法律など、人間社会の欺瞞や利己主義を鋭く裏返した河童たちの異常な生活を体験する。
結末(帰還と狂気)
人間界へ戻った主人公は、かえって人間たちの強欲さや不潔さに耐えられなくなり、精神病院の一室で河童の幻影に救いを求め続ける。
『河童』主な登場人物一覧
第二十三号(僕)
精神病院の患者。かつて迷い込んだ河童の国での奇妙な生活を語る語り手。
チャック
主人公を診察・保護する河童の医師。人間と河童の違いを客観的・医学的に観察する。
バッグ
漁夫。親切だが保守的な性格を持つ河童。
トック
厭世的な河童の詩人。芸術と生に苦悩した末にピストル自殺を遂げる。
ゲエル
ガラス会社の社長である資本家の河童。合理性と利己主義の権化。
マッグ
厭世主義の哲学者。人間の偽善を突く箴言集『阿呆の言葉』を著す。
『河童』あらすじ要約
東京郊外の精神病院に隔離されている患者「第二十三号」。彼は訪れた「私」に対し、かつて体験した「河童の国」での奇妙な出来事を静かに語り始める。
登山のために信州の上高地を訪れていた主人公の「僕」は、霧の深い山道で一匹の河童に出会い、夢中で後を追ううちに暗い穴へと落ちてしまう。気がつくと、そこは人間界と酷似しながらも、あらゆる常識や社会通念があべこべになった「河童の国」だった。
人間を特別保護動物として扱う現地の法律により、主人公は街角に住居を与えられ、医師のチャック、詩人のトック、資本家のゲエルらと親交を結ぶ。しかし、そこで目にする河童たちの生活は、奇怪で残酷な論理に支配されていた。
河童の出産では、父親が母親の胎内に向かって「お前はこの世界へ生まれてきたいかどうか」と問いかけ、胎児が「生まれたくない」と答えれば中絶されてしまう。また工場では、機械の導入によって失業した労働者の河童たちが屠殺され、食用肉として市場に流通していた。資本家のゲエルはそれを「失業問題と食糧難を同時に解決する合理的な名案」だと平然と肯定する。
芸術、恋愛、宗教(生活教)に至るまで、人間界の欺瞞を徹底的に裏返した社会を観察する中、主人公と親しかった詩人トックが、実存的な絶望からピストル自殺を遂げる。やがて河童の国の生活に息苦しさを感じた「僕」は、元の世界への抜け道を教えられ、人間界へと帰還した。
しかし、戻ってきた人間社会は、河童の国以上に強欲と欺瞞にまみれて見えた。人間の姿や匂いを「不潔で恐ろしい」と感じるようになった主人公は、周囲から発狂したと見なされ、精神病院へ収容される。彼は今も病室の鉄窓から河童の幻影と言葉を交わし、人間社会の外側で孤独な平穏を保ち続けているのだった。
【考察1】「河童の国」が象徴するもの
本作『河童』は、ある精神病患者の深層心理を可視化した物語である。
人間社会に不満を持つ彼は、自分の脳内にある理想郷(ユートピア)として、「河童の国」を作り上げていたのだ。
そこに登場する河童たちは、それぞれが、主人公自身の化身だったと言ってもいい。
問題は、なぜ彼が、そのような「理想郷」を生み出さなければならなかったのかということである。
①「生まれたくない」と叫ぶ胎児の真意
主人公が漁夫バッグ夫人の出産を見学したとき、父親であるバッグは、妻の生殖器に口をつけて「お前はこの世界へ生まれて来るかどうか、よく考えた上で返事をしろ」と大きな声で尋ねる。
「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから。」(芥川龍之介「河童」)
現世への出産を拒否する胎児は、人生への不満を持つ主人公自身の声である。
彼は父親の精神病が遺伝することを不安に思い、なおかつ「人間」という存在に不信感を抱いていた。
② 失業者を食用肉にする法律の意味
進化の著しい河童の国では、毎月多くの失業者が出るが、彼らは「職工屠殺法」により、「食用の肉」として処理されていた。
「つまり餓死したり自殺したりする手数を国家的に省略してやるのですね」(芥川龍之介「河童」)
どうせ失業者は、餓死したり自殺したりする。
その手間を国家として省略するという発想には、現実社会における社会への抗議が含まれていた。
失業者の救済ができないなら、国家が責任を取って殺してやれと、主人公は言いたかったのだろう。
③「あべこべ」な「河童の世界」の理由
河童の世界では、雌が雄を執拗に追い回して、つかまえる。
これは、男が女を追いかけ回している人間社会を反転させた構図として読むことができる。
人間社会の常識が、なぜか河童の世界では非常識となった。
河童の世界は、様々のことが、人間社会とは「あべこべ」にできていたのだ。
河童の世界の「あべこべ」なのは、つまり、主人公による「人間社会の否定」である。
言い換えると、それは「人間社会における生存への否定」でもあったのかもしれない。
【考察2】河童は芥川龍之介なのか?
① 詩人トックの自殺が予言するもの
作中では、河童の詩人トックが自殺している。
死んだトックの幽霊は「死後の名声」を気にかけていた。
そこに反映されているのは、もしかすると、作者・芥川龍之介自身の姿だったかもしれない。
芥川龍之介は『河童』の発表から四か月後に自殺しているから、トックの自殺は、作者の自殺を予言したものだと考えることは、極めて自然なことだ。
むろん、トックは、作者・芥川龍之介自身の分身だったのだろう。
そもそも、河童の世界を物語る精神病患者が芥川龍之介であり、河童の世界で生きるすべての河童は、作者の内面から生まれた作者自身の化身である。
資本家の象徴として描かれる硝子会社社長ゲエルさえ、作者の中に潜む自己矛盾を象徴的に表わしたものとして読むことができる。
② 精神病遺伝や発狂への恐怖
とりわけ、注目されるのは、生まれることを拒否した胎児に代表される「精神病の遺伝」への恐怖である。
河童の国における発狂への恐怖は、そのまま作者自身の恐怖だったと言ってもいい。
芥川龍之介は『点鬼簿』(1926)で「僕の母は狂人だった」と告白している。
河童の教会で崇拝されているのは、人間社会に生きづらさを感じていた芸術家ばかりである。
あるいは、作者は『河童』を書くことによって、自分の中の恐怖から逃げ出そうとしていたのだろうか?
あまりにもリアルな河童の世界は、作者による人間社会の拒絶が、既に確固たるものだったことを裏打ちしている。
もしかすると、河童の世界は、作者が抱えている「ぼんやりとした不安」を可視化した物語だったのかもしれない。
芥川龍之介は『或旧友へ送る手記』(1927)の中で、自殺の動機について「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」と綴っていた。
『河童』の基本情報
| 作品名 | 河童(かっぱ) |
|---|---|
| 著者 | 芥川龍之介 |
| 初出 | 『改造』1927年(昭和2年)3月号 |
| 読了時間の目安 | 約40〜50分(約23,000字) |
| 舞台 | 長野県上高地・梓川(導入部)/ 河童の国 / 東京市外××村の精神病院 |
まとめ│『河童』が伝えていること
本作『河童』は、人間社会への絶望を、河童を主人公として描いた物語である。
現実社会で生きることに不安を抱えた主人公は、河童の世界に生きる可能性を見出した。
今風に言うと、ひとつの「転生物語」として読むことができるかもしれない。
しかし、理想郷(ユートピア)だったはずの河童の世界でも、文学者である詩人トックは、現世に悲嘆して自殺してしまった。
このことが伝えているのは、「主人公の逃げ場はどこにもなかった」という、悲しい現実である。
現実社会でも河童の世界でも生きていくことのできない彼は、どこで生きていくべきなのだろうか?
そこに、この物語が提起しようとしている、最大の問題があったのかもしれない。
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