梶井基次郎『檸檬』あらすじと考察|なぜ丸善に爆弾を置いたのか
梶井基次郎『檸檬』は、日ごろの不満を1個のレモンに託して可視化した青年の物語である。
なぜ、主人公は「レモン」を「爆弾」に見立てたのだろうか?
この記事では、本作『檸檬』のあらすじを整理するとともに、「檸檬」が持つ象徴性について考察していきたい。
3行でわかる『檸檬』
発端(病と不吉な塊)
肺結核と貧困に苦しみ、得体の知れない憂鬱と焦燥に苛まれる「私」は、かつて愛した丸善や音楽にも心を閉ざし、薄暗い裏通りを彷徨う。
転換(檸檬との出合いと覚醒)
果物屋で見つけた一個の冷たく重い檸檬を手にした瞬間、その鮮烈な色彩と芳香に五感を刺激され、塞ぎ込んでいた心に生き生きとした快感が蘇る。
結末(檸檬爆弾と痛快な脱出)
立ち寄った丸善の画集の山の上に檸檬を爆弾に見立てて据え置き、大爆発を起こす妄想に胸を躍らせながら、爽快な悪戯心とともに街へ歩み去る。
『檸檬』簡単なあらすじ(要約)
重い肺結核と貧困、神経衰弱に苛まれる主人公の「私」は、得体の知れない「不吉な塊」に心を圧迫されていた。かつて心を慰めてくれた西洋美術の画集や高級な文房具が並ぶ丸善、音楽や詩といった美しいものにすら耐えられなくなり、薄暗い裏通りや貧民窟、安っぽい花火やガラス玉の色彩だけにわずかな安らぎを見出しながら京都の街を彷徨っていた。
ある日の夕暮れ、果物屋(寺町通の八百卯)の店先で、電灯の光を浴びてひっそりと並ぶ一個の「檸檬」に出会う。「私」はその冷たさ、手のひらにずっしりと収まる重み、鮮烈な黄色、そして鼻孔を突く爽快な香りに強い衝撃を受ける。長く鈍磨していた五感が覚醒し、憂鬱な塊は一瞬にして吹き飛んでいった。
誇らしげな幸福感を抱いたまま、かつて足を遠ざけていた丸善へ足を踏み入れた「私」は、平積みの画集を城のように積み上げ、その頂点に黄金の爆弾に見立てた檸檬をそっと据え置く。「もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう」という痛快な妄想を胸に抱き、悪戯を仕掛けた少年のような軽やかな足取りで、夕暮れの街へと立ち去っていくのだった。
【考察】なぜ丸善に爆弾を置いたのか?
本作『檸檬』は、自分の心を押さえつけている「えたいの知れない不吉な塊」を、一個の檸檬に託して可視化した解放の物語である。
なぜ主人公は、心を解放するために「檸檬」を選んだのだろうか?
①なぜ「檸檬」だったのか?
荒んだ生活を送る主人公「私」は、色硝子のおはじきや南京玉を溺愛している。
まるで金のない彼は、そんな美しいものを眺めて心を癒していたのだ。
その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。(梶井基次郎「檸檬」)
それは、かつての彼が愛したオードコロンやオードキニン、切子細工、香水壜などといった舶来の高級品に対するアンチテーゼだったに違いない。
彼は、香水瓶や化粧水瓶の代わりに、鮮やかな黄色の檸檬を手に入れたのだ。
その美しさや冷たさにおいて、香水瓶に対抗できる果物は檸檬以外になかった(なにより、その檸檬はカリフォルニヤからやってきたのだ)。
一個の「檸檬」は、彼にとって丸善に対抗し得る唯一の武器だったのである。
②「丸善」が象徴するもの
かつて憧れだった「丸善」は、現在の彼には敵でしかない。
なぜなら、彼の生活を破滅に追いこんだものは、まさにこの「丸善」だったからだ。
書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取りの亡霊のように私には見えるのだった。(梶井基次郎「檸檬」)
彼にとって「丸善」は、ただの書店ではなかった。
洋書の画集が並ぶその店は、彼が手にすることのできなかった芸術の聖地である。
おそらく、彼は酒や肺尖カタルや神経衰弱以上に、芸術上の苦悩で圧し潰されそうになっていたのだ。
音楽や美術といった芸術と立ち向かうには、彼はあまりにも弱かったのかもしれない。
③「爆弾」の正体
洋書の画集を見ても、昔のようなときめきを感じられない彼は、つかむことのできない「芸術の世界」そのものを暗示している。
彼の焦りの正体は、つかむことのできない芸術である。
瀕死の彼が生き残るためには、もはや「芸術」そのものを否定するしかなかった。
彼は「芸術」を超えたところで生きていかなければならなかったのだ。
丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。(梶井基次郎「檸檬」)
「丸善の美術の棚」に置き去りにされた一個の「檸檬」は、だから主人公の再生を象徴している。
それは、西洋の芸術という怪物からの精神的な解放を意味するものでもあった。
④「檸檬」が伝えているもの
おそらく、酒や病気との生活の中で、彼は西洋の芸術に大きなコンプレックスを抱えこんでいたのだろう。
「見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられた」という彼の告白は、彼が愛してきた西洋の芸術からの逃避だったとも言える。
しかし、西洋芸術に対する劣等感は「えたいの知れない不吉な塊」として、彼の心を抑圧し続けていた。
果物屋で買った「檸檬」は、彼にとっては「救済の檸檬」だったはずだ。
一個の檸檬をもって、彼は憧れの西洋芸術に決別し、新しい自分の道を生きていくことを決意する。
それは、芸術への敗北ではなかった。
彼は、大きな敵を(精神的に)乗り越えたことで、新しい自分を手に入れたのである。
【解説】梶井基次郎のデビュー作だった『檸檬』
①生前の梶井基次郎
梶井基次郎は、病気で死んだ後に評価の高まった作家である。
生前の彼は、ほとんど作家らしい活動をすることができなかった。
彼が小説を発表したのは、ほとんどが非営利の同人雑誌ばかりで、まともに原稿料をもらったのは、1932年(昭和7年)1月号『中央公論』に発表した「のんきな患者」が最初で最後だったという。
②評判の良くなかった『檸檬』
デビュー作『檸檬』は、同人雑誌『青空』の創刊号に発表された作品である。
『青空』は、1925年(大正14年)1月、梶井基次郎、中谷孝雄、外村茂らによって創刊された同人誌で、彼らの多くは東京帝国大学の学生だった。
現在でこそ高い評価を得ている『檸檬』だが、発表当時はほとんど話題にもならなかったらしい。
梶井はその後も小説を書き続けたが、1932年(昭和7年)3月、31歳のときに肺結核で亡くなった。
梶井基次郎の作品が、本当に評価されるようになるのは、彼が病死したあとのことだった。
まとめ│自分を乗り越えて生きる
本作『檸檬』は、自分の中の苛立ちを、一個の檸檬によって解放させた青年の物語である。
彼の苛立ちには、酒や病気や金のないことなど、様々な原因があったに違いない。
自分の中の苛立ちを、彼は「丸善」を爆破することによって解放する。
しかし、彼が本当に「爆発」しなければならなかったもの、それは「彼自身」だったのではないだろうか。
作中、主人公は盛んに「現実からの逃避」を試みている。
それは、現状に満足できない若者の苛立ちだった。
彼はただ自分自身を乗り越えることによってのみ、新しい自分を獲得することができたのである。
そういう意味で、「檸檬」が彼自身であったように、「丸善」もまた彼自身だった。
我々はみな「現状」を「爆発」させながら、生きていかなければならないのだ。
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