宇野千代の札幌文学散歩|実際に暮らした3つの住宅跡地を訪ねて
宇野千代は、1920年(大正9年)9月から1922年(大正11年)4月にかけて札幌で暮らし、その間に3か所の住宅に住んだ。
作家としての第一歩を踏み出した札幌で、宇野千代はどのような場所に暮らしていたのだろうか。
この記事では、神埜努『宇野千代の札幌時代』などの研究資料を参考に、宇野千代が実際に暮らした3つの住宅跡地を訪ね、現在の街並みとともに紹介する。
寄宿した中津井高助の邸宅跡地(北2条西1丁目)
宇野千代の札幌生活は、1920年(大正9年)9月上旬から始まった。
夫の藤村忠が、北海道拓殖銀行本店で働き始めたからである。
最初に二人が暮らした家は、北2条西1丁目にある中津井高助の邸宅だった。
私はこの叔父を頼って行った。大きな立派な家。若い娘が初めて玄関に立つと、何だかしんとして怖いような家。(宇野千代『私の青春物語』)
間借り先が見つかるまでの一週間ほど、夫婦は、北海タイムス社(北海道新聞の前身の一つ)の支配人である中津井家に寄宿していたという。
藤村忠の通う拓殖銀行本店も、ここから徒歩で3分ほどの便利な場所だったらしい。
中津井高助の邸宅があった場所は、現在、地上9階・地下1階建ての賃貸オフィスビル「ピア2・1」となっている。
間借りした松島家跡地(南1条西5丁目)
間もなく、藤村夫妻は、中津井高助の部下だった松島安吉と妻コウメの家へ間借りする。
やがて、私たちは東一条の大通の、すぐ裏手にある露地の奥に間借りした。(略)私たちの間借りした部屋は六畳が畳、二畳が板敷きになって続いていて、その家の玄関のすぐのところにあった。(宇野千代『生きて行く私』)
宇野千代『生きて行く私』の中にある「東一条の大通」という住所は、札幌には存在しない。
実際に、藤村夫妻が暮らした松島家は、南1条西5丁目1番地(南東の角)にあった。
この松島家の間借りで、藤村夫妻は慎ましい倹約生活を送っていたらしい。
千代の夢は「大金持ちになる」ことにあったからだ。
ところが、間借り先での生活を始めたばかりの10月、参加したばかりの無尽講の籤が当たり、夫妻は思いがけない大金を手にした。
この資金を元手に、二人は古い一軒家を購入することになる。
宇野千代の暮らした藤村家跡地(大通東7丁目)
1920年(大正9年)10月下旬、無尽講の籤で当てた金を元手に、二人は古い一戸建て住宅を購入した。
その街の街外れに、一軒の売家が出ていました。建てて二十年も経った古い家ですけれど、充分にまだ住める、という話でした。(宇野千代『自伝的恋愛論』)
夫妻が買った中古住宅は、大通東7丁目12番地にあった。
そこは、北一条通りに面して建つ木根淵病院(東辰病院の前身)の裏手に当たる中通りで、現在は「北海道富士電機」の社屋となっている。
この中古住宅に間借り人を置いた話は、宇野千代の短篇『人間の意企』に書かれているとおりだ。
この住宅で、仕立物の内職をしながら、宇野千代は小説を書き続けた。
やがて、1922年(大正11年)4月、千代は、中央公論社を訪ねるために出発したきり、札幌に戻ることはなかった。
夫の銀行員・藤村忠は、その後も、この家で千代の帰りを待ち続けたらしい。
まとめ│札幌の宇野千代伝説
宇野千代にとって、札幌は作家生活をスタートさせた、思い出の地である。
しかし、札幌で宇野千代の思い出が語られることは、ほとんどないと言ってもいい。
夫を棄てたとき、千代は、同じく札幌を棄てたのだろう。
わずか二週間の滞在で、札幌に大きな足跡を残した石川啄木との違いは、札幌という街に対する愛情の大きさだったのではないだろうか。
北海道の冬はまたとない淋しいものです。雪は軒を埋めて積もりました。(宇野千代『私の青春物語』)
「またとない淋しい冬」を逃れて、千代は札幌を去った。
それは、今から100年以上も昔の「伝説」だったのかもしれない。
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宇野千代の小説については、次の記事で詳しく解説しています。
▶宇野千代のおすすめ代表作10選|朝ドラで注目の名作と読む順番
札幌の文学散歩スポットについては、次の記事をご覧ください。
▶札幌文学散歩ガイド|石川啄木・有島武郎ゆかりの地から村上春樹の聖地巡礼まで



