太宰治「走れメロス」は、数ある太宰作品のうち、日本で最も有名な作品の一つである。

なぜなら、この作品は国語の教科書に全編が掲載されているからだ。

同じく太宰の代表作である『人間失格』は、タイトルは知っていても、作品を通読したことのある人というのは、決して数多くはない(と思う)。

同時に「走れメロス」は、読み終えた者に「若干の違和感」を抱かせるということでは、非常に印象に残りやすい作品でもある。

今回は、この物語が与える「おかしい」という違和感の正体を、「太宰治の生きづらさ」という観点から考察してみたい。

本作「走れメロス」は、1940年(昭和15年)5月、『新潮』に発表された太宰治の短篇小説である。

この年、作者は31歳。

前年に結婚したばかりの、いわば「安定期」に書かれた作品だった。

なぜ「走れメロス」は「おかしい」のか?

妹の結婚式のために差し出された「人質」

暴君ディオニスの政治に激怒した青年メロスは、王城へ押し入るが、たちまち捕らえられてしまう。

死刑を言い渡されたメロスは、「妹の結婚式が終わるまで、3日間だけ待ってくれ」と申し出て、親友セリヌンティウスを身代わりに置いて、村へと戻った。

妹の結婚式を終えたメロスは、既に「自分の体ではない」ことを自覚しながら、3日目の朝、王城へ向かって走り出す。

美しい友情の物語として素直に読めば、ここまでは何の違和感もない筋書きである。

だが、「走れメロス」を、太宰治という作家の他の作品と並べて読んでみると、この物語には、太宰らしからぬ「無理」があるということも、また確かだ。

太宰治らしい「あきらめ」の心理

そもそも、この小説で、最も太宰治らしい場面は、氾濫した川や山賊に行く手を阻まれ、疲労困憊となったメロスが、約束を放り出して、何もかもあきらめてしまう部分である。

正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。(太宰治「走れメロス」)

偽悪家の太宰にとって、これはいかにも太宰治らしい台詞だと言える。

湧き出る清水を飲んだことで、メロスは命を吹き返した。

「もっと恐ろしく大きいもの」の正体

セリヌンティウスの弟子フィロストラトスに制止されても、メロスは走り続ける。

それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。(太宰治「走れメロス」)

「もっと恐ろしく大きいもの」とは、セリヌンティウスとの友情であり、もっと突き詰めると、それは、「友だちから信頼されている」という事実である。

他人から「信頼されている」という事実ほど、太宰を恐れさせたものはなかった。

なぜなら「信頼を裏切り続けること」こそが、太宰治という人間の生涯だったからである。

つまり、本作「走れメロス」で描かれているのは、美しい友情の物語ではなく、信頼関係で結ばれることに対する作者の恐怖心だったのだ。

なぜディオニス王はあっさり改心したのか?

「万歳、王様万歳」と感激する群衆の正体

約束どおり戻ってきたメロスとセリヌンティウスとの友情に感動し、暴君ディオニスは、あっさりと改心してしまう。

「走れメロス」で、もっとも「おかしい」と思われるのが、まさにこの場面だ。

散々庶民を殺してきたうえ、今まさにセリヌンティウスを処刑しようとしていたくせに、二人の友情に感動したからといって「わしも仲間に入れてくれ」は、さすがに、オッサン、どうにかしてるだろうって感じである。

さらに「万歳、王様万歳」と感激する群衆も、あまりに単細胞で頭が悪すぎる。

「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい」どっと群衆の間に、歓声が起った。「万歳、王様万歳」(太宰治「走れメロス」)

読者はここに「違和感」を持つのだが、太宰が狙ったのはまさしく、この「違和感」である。

この物語に描かれた「愚かな王様と愚かな群衆」を、太宰はそのまま「日本という国」の中に見ていたのだ。

「走れメロス」の正体は「戦争中の日本」

この小説が発表された1940年(昭和15年)、日本は既に中国と戦争状態にあった。

さらに、翌年の1946年(昭和16年)には、アメリカを相手に「太平洋戦争」を始めようとしている時代である。

国家という存在に対し、小説家として太宰治は、きっと言いたいことが山ほどあったはずだ。

大日本帝国に対する「シニカルな怒り」は、惨めすぎるほどに滑稽な王様と民衆の姿として描き出される。

ただし、「熱い友情の美談」という見えないオブラートにくるまれた状態で。

なぜ「おかしい」と思う感覚が正解なのか?

溶けたオブラートの中から現れるのは、「王様と民衆の愚かさ」と、そんな「国家に対する怒り」である。

ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。(太宰治「走れメロス」)

つきつめると、この「走れメロス」という小説は、「おかしい」と思う感覚こそ正解なのであって、これを友情の美談として素直に受け止められる人は、かなり幸せな人なのではないだろうか(それはそれで結構なことだけれど)。

大体、あの太宰治が「熱い友情の美談」なんて書くはずがない(と思いたい)。

もしも、これ(「走れメロス」)が志賀直哉の書いた作品だとしたら、太宰はきっとこう吐き捨てたことだろう。

「げっ、恥ずかしい!」

「走れメロス」は実話なのか?元ネタの正体

親友・檀一雄に対する太宰治の裏切り

本作「走れメロス」は、太宰治自身の体験が下敷きになっている。

熱海の旅館に滞留している太宰を檀一雄が迎えに行ったとき、宿代を支払えなかった太宰は、壇を身代わりに置いて、東京の井伏鱒二のところへ金を借りに出かけた。

何日経っても戻ってこない太宰にしびれを切らした檀が井伏家へ乗り込むと、太宰は井伏さんと二人、悠々と将棋を指していたという。

キレた檀に向かって太宰が言った一言が「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね」

これこそ、まさしく等身大の太宰治であって、「走れメロス」は、そんな太宰が描いた夢物語(ファンタジー)の世界である。

この実話を収録した檀一雄の小説『小説 太宰治』については、次の記事で詳しく解説しています。

檀一雄『小説 太宰治』女郎屋通いで育まれた若き作家たちの友情

まとめ│愚劣な王様こそ「太宰治」の姿だった

そもそも、太宰だって、そんなに美しい友情が「実際に存在する」とは考えていなかっただろう。

まして、極悪非道の人間がそんな簡単に改心するなんて、思ってもいなかったに違いない。

「走れメロス」は、しょせんは小説の中だけで成立する「架空の物語」なのだ。

ただ、もしかすると、、、と思うのは、本当のところ太宰は「自分自身こそが変わりたい」と思っていたのではないだろうか?、ということである。

愛し合った女性との間で、互いに信じあうことのできる美しい純愛を、太宰は求めていた。

しかし、女性を信じきることのできない自分を、太宰は変えたいと願っていたのだ。

もしかすると「愚劣な王様」の姿こそ、作者自身(太宰治)が投影されたものではなかったか。

愛する妻に裏切られた過去を持つ太宰だからこそ、そんな発想があってもおかしくはない、、、としたらおもしろいけれど、太宰だったら「変わる必要があるのは自分じゃなくて女の方だ」とか言い出しそうな気もする(笑)

まあ、そうやって読んでいくと「走れメロス」も、意外と悪くない作品だと思う。

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文学ブログ『時空標本』では、中高生や初心者が楽しめる日本近代文学の名作小説をまとめて紹介しています。

詳細は、次の記事をご覧ください。

日本近代文学の名作おすすめ50選|中高生・初心者でも楽しめる傑作を徹底解説

作品名:走れメロス
書名:教科書で読む名作 走れメロス・富嶽百景ほか
著者:太宰治
発行:2017/04/06
出版社:ちくま文庫

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モグラのジェン
文芸コラム担当。感想以上、批評未満。深読み癖あり。感想はX(@jiku_hyohon)にてお待ちしています。