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雑司ヶ谷霊園「著名人のお墓リスト」に英文学者・福原麟太郎の名前はない

雑司ヶ谷霊園「著名人のお墓リスト」に英文学者・福原麟太郎の名前はない

福原麟太郎の墓は、東京豊島区の雑司ヶ谷霊園にある。

都立霊園公式サイト「TOKYO霊園さんぽ」では、著名人の墓をマップで案内しているが、福原麟太郎の墓は掲載されていない。

もしかすると、遺族が望まなかったのだろうか。

雑司ヶ谷霊園にある福原麟太郎の墓

雑司ヶ谷霊園へ行くには、東京トラム(都電)「都電雑司ヶ谷」停留所で下車するのが、一番便利らしい。

買い物があったので、池袋駅から歩いたところ、雑司ヶ谷霊園までは意外と距離があった。

都立霊園公式サイト「TOKYO霊園さんぽ」を見ると、多くの著名人の墓が、雑司ヶ谷霊園にはある。

大御所・夏目漱石をはじめ、泉鏡花、永井荷風、森田草平、岩野泡鳴、安藤鶴夫など、文学者の名前も多いが、英文学者・福原麟太郎の名前はない。

もしかすると、遺族が望まなかったのだろうか。

もっとも、仮に福原麟太郎本人が生きていたとしても、著名人のお墓リストに自分の名前が掲載されることなど、きっと望まなかっただろう。

現役の頃から、福原麟太郎は、自分の業績を誇示することを良しとしなかった人だったという。

福原麟太郎は、戦前から戦後にかけて、日本を代表する英文学者の一人であると同時に、日本を代表するエッセイストでもあった。

1981年(昭和56年)に86歳で亡くなった後に、『福原麟太郎随想全集(全8巻)』が刊行されているが、この『随想全集』の監修は、井伏鱒二・河盛好蔵・庄野潤三の三人が担当している。

いずれも名随筆家と称される人たちで、福原麟太郎のエッセイの文学性が、いかに高かったかということを示すものだろう。

すべての巻で、庄野潤三が解説を書いている。

身辺の何でもないようなことを捉えて、これを芸術的な纏りのある一篇の随筆に仕上げる。いいかえれば、個人の日記の中にしか書きとめる値打ちのないように見える事柄を、人間、人生に通じる深い広がりを持つものにする。英国十九世紀初頭の文学者で名作「エリア随筆」の著者、チャールズ・ラムをお手本にしていた福原さんは、日本の風土の中でラムも及ばない、すぐれた、味わい深い作品を沢山残された。(庄野潤三『福原麟太郎随想全集 3 春のてまり』解説)

「小説らしからぬ小説」を得意とした庄野潤三だったから、福原麟太郎のエッセイに対する敬愛ぶりも並大抵のものではなかった。

実際に、福原麟太郎の作品を読んでみれば、どうして、庄野さんが、あれほどまでに福原麟太郎に心酔していたのか、その理由は分かるはずだ。

そして、それは同時に、庄野潤三の作品を理解する上でも、大きなヒントとなってくれる。

「夏を越すことが重荷だった」福原麟太郎の夏

雑司ヶ谷霊園の正門から入ると、福原麟太郎の墓は、いちばん突き当りの奥にある。

普通の一般市民の一人として、福原麟太郎の魂は、ここに眠っている。

それは、きっと、生前の福原麟太郎が望んだ没後だったのだろう。

余計な装飾の一切ない「福原家之墓」には、「福原麟太郎建立」の文字がある。

私は去年の七月から心臓病をわずらって、満一年ちょっとになるが、まだなかなか全快とは言いかねる状態である。この秋になれば元へ帰りますよ、とお医者さんから何度も言われたが、それは夏を越せるならという意味のように私には解された。それで夏を越すということが、私の目の前の重い荷物であった。(福原麟太郎「秋来ぬと」)

福原麟太郎が狭心症で倒れたのは、1950年(昭和30年)7月のこと。

この年の春に、東京教育大学を定年退官になったばかりのことで、この年、福原さんは61歳だった。

結局、86歳で没するまでに、『トマス・グレイ研究抄』や『チャールズ・ラム伝』『ヂョンソン』など、老後の福原さんは大きな業績をいくつも残すことになるのだが、心臓病による死の恐怖は、相当のものだったらしい。

雑司ヶ谷霊園にある福原麟太郎の墓雑司ヶ谷霊園にある福原麟太郎の墓

蝉時雨の中、福原さんの墓に両手を合わせていると、「夏を越すことが重荷だった」という、病後の福原さんの夏が偲ばれた。

帰路は「都電雑司ヶ谷」から東京トラムに乗って移動。

都電にゴトゴト揺られながら、福原さんのお墓は、とても良いところにあるんだなと思った。

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みづほ
バブル世代の文化系ビジネスマン。札幌を拠点に、チープ&レトロなカルチャーライフを満喫しています。